ローグライク・ストーリーズ

セイ

小さすぎる一歩

第1話

 ローグライク・ゲームというものがある。

 ダンジョンに入る、敵と戦う、経験値を得るーー

 そこまでは普通のRPGと同じだ。

 だが、決定的に異なるのは、一度敵にやられればすべてを失うということ。

 それまでどれだけレベルを上げ、深い階層にたどり着き、レアアイテムを手に入れていたとしても、問答無用で全ロスト。

 それが、ローグライク・ゲームの鉄則だった。

 ただし、一つだけ救済措置がある。

 それは、すべてを失ったとしても入り口に戻され〝復活〟できること。

 仮に誰も知らないダンジョンの片隅で倒れても、一瞬ですべてはなかったことにされる。

 身体の傷も消え、破れた服も元通りになる。

 そのかわりーー

「経験値で成長した分もリセットされちゃうんだけどね……」

 細身の若い男は、そんなことを独りごちながら眼の前の光景を見つめ直した。

 高校生、|会稽沙里人(かいけい さりと)の視線は現代の都市には似つかわしくない、古ぼけた石垣に向けられている。

 だが問題なのは、その中心にあるもの。

 さまざまな色の光が回転しながら混ざり合い、真ん中の闇より深い黒に吸い込まれていく。

 見るからに怪しい光景……

 だからこそ、沙里人はずっと迷っていた。

「行こうかな〜、どうしようかな〜」

 そんなことを言いながら、光の前で小刻みに行ったり来たりしていた。

『そんなことをしていると狭い部屋に住んでいることがバレる』と厄介な幼なじみに皮肉を込めて言われたことがあるが、それを気にしている余裕すらなかった。

 それからもしばらく悩んだのち、沙里人は意を決して向き直ったーー

 光の渦の反対に。

「……ダメだダメだっ! 自分を変えようと思って来たのに!」

 そう、自分はダメな人間だ。

 何をやっても真ん中よりやや下。人付き合いも苦手で友達もほとんどいない。

 このままではいけないと思って、あえてここにやってきたのだ。

 ここで帰ったら……またあの退屈な日常が戻ってきてしまう。

 それだけは嫌だった。

「よし、行こう。決心はついた」

 意味もなく腕を振り回し、これが最後と決めて光と対峙する。

 ここに集う者たちは、これを〝光彩の渦〟と呼んでいた。

 中央の闇の向こうには、この世界とは違う別の世界が待っている。

 そこに一度足を踏み入れれば、もう簡単には帰ってこれない世界。

 それでも自分は行くんだと決めていた。

「行って、みようか」

 小心者が自身の指先を震わせながら、その手を渦の中へと伸ばしていく。

「ーーいや、ちょっと待って」

 悪い予感が心をよぎり、なけなしの意志の力をスッとしぼませてしまう。

 無意識のうちに怯えて反射的にサッと手を引こうとするが、そこにニュっと〝闇〟がからみついてくる。

「おっ、ちょっとちょっと……!」

 いっそのこと誰かに背中を押してほしいなどと考えていたくせに、いざそうなると弱気の虫が勝って激しく抵抗する。

 だがその甲斐はなく、黒すぎる闇の力は圧倒的で引きずり込むというより包み込むようにして沙里人を飲み込んでいった。

 ーーえっ、こんな感じなの?

 ちょっとしたヌルヌルの感触に微妙に気持ちよさを感じながらも、意識は少しずつ遠のいていく。

 すべてがブラックアウトしてしばらく揺れるような感覚があったあと、ハッと気がつくと自分は冷たい石畳の上に跪いていた。

「ここが、そうなのか……」

 周囲を見回すと、隙間なくきっちりと敷き詰められ積み上げられた石材が目に入ってきた。

 ところどころに粗末なたいまつが据え置かれ、ほとんど風がないはずなのにそれらが揺らめき、自分自身の影を勝手に動かしている。

 それだけで、ここが普段の現実とは違う世界なのだと思い知らされる。

 生唾を飲み込み震える足を一歩だけ、いや半歩だけ前に出す。

 ーー人類にとっては小さな一歩かもしれないが私にとっては偉大な一歩だ。

 などと訳のわからないことを思いながら、それでも沙里人はそのままゆっくりと進み始めた。

 カツーンと、安物のブースの硬い靴底が石にぶつかる冷めた音が周囲に響き渡る。

 この日のために買っておいたものだが、冒険者ならグリーブのようなブーツを履くべきだろうという安直な思いからであることは秘密だ。

 ーーさてどうしよう。

一旦動き出すと緊張も体もほぐれてきて少しだけ前向きな気持ちになれる。

 ーーそうだシミュレーションを思い出そう。

 慎重派の自分はここに挑戦するために徹底的にあらゆる情報を集め、本当にこれでもかと準備をしてきた。

 考えうる多くのパターンを頭に叩き込み、こうなったらこうするという対応表を頭の中に作っていつでも瞬間的に思い出せるようにしている。臆病だからこその、ひとつの能力であった。

 ーーと言ってもネットの情報を集積させただけなんだけどね。

 特に動画だ。色々な動画がSNSなどにアップされ、この場所について知る者ならば誰でもアクセスできる状態だった。

 こんな非常識なダンジョンの情報が一般に対して当たり前のように公開されているというのも妙な話だが、それが今のところの現実だった。

 この場所が実在するということを知らない人たちも多く見ているが、そのほとんどが一種のVRかARだと考えているようだった。特に大人はその傾向が強い。

 これがまさに現代の特徴なのかもしれない。

 映画やゲームなどで非現実がよりリアルになったことで、誰もがありえないような物事をどうせフィクションと受け取るようになる傾向が強まった。

 そう、現実と非現実の境界が曖昧になったのではない。

 むしろ、自分が理解できない物事を非現実の世界にようになったのだ。

 ーーこれは一種の現実逃避かもね。

 そんなことを思いながら沙里人はまず自分がすべきことを考えた。

 確か最初はーーそうだった、まずはアイテムを探すべきだ。自動生成ローグライクゲームと呼ばれるものと同様に、誰でも最初は何も持たず強さを示すレベルはもちろん『1』だ。

 だったら今すぐやるべきことは、戦うことではなく装備など必需品を集めること。

 方向性が明確になったことで頭がよりクリアになってきた。

 すばやく周囲を見回し、何か使えそうなものはないかと探る。

 ーーないじゃん。

 世の中、そう甘くはないと思いそうなところだが、事前の情報では本当にローグライク・ゲームよろしく、アイテムに関しては序盤から豊富にあると聞いていた。

 だが、周囲には何もない。掃除したのかと思うくらいきれいさっぱり何もない。

 ーー掃除したくらい? そうか!

 まさにあとなのだ。ここにいるのは自分だけではない。モンスターなどの敵はもちろん、プレイヤーと呼ばれる他の人間たちもいる。

 モンスターやアイテムの配置は一定期間ごとにリセットされるようだが、運良くリセット直後に中に入った人たちが有利なのは間違いなかった。

「くっそー、いきなりあきらめてたまるか!」

 声に出して悪態をつきながら、沙里人は走り出した。

 急がないとさらに不利になってしまう。それを避けるためには、多少のリスクを負ってでも素早く動くしかなかった。

 周囲は狭く、とにかくこの辺りは極端に見通しが悪い。一旦開けたところに出ないことにはどうしようもないだろう。

 薄明かりに照らされる曲がり角を抜けるとその先は一種の部屋のような形をしていた。

「ひぇっ」

 何かの気配を感じ、思わず情けない声が口をついて出てしまった。

 慌てて自分の口を塞ぎ、激しい動機の音を自覚しながら部屋の中を伺うと、確かに何かいる……!

 ーーこ、こういう時に大事なのはとにかく観察だ。落ち着いて相手をよく見ないと。

 乱れる呼吸を無理やり押さえつけながら薄暗がりの中に浮かぶ相手の姿を凝視する。

 どうやらそれなりの背の高さはあるようだ。シルエットからして人型であるのは間違いない。肩の部分が張っているように見えるのは男性だからだろうか。

 いや、腰の細さからして、あれは逆に女性なのかもしれない。どうも影の形からすると肩の辺りに鎧をまとっているようだ。

 もっとよく見てみよう。近くにあるたいまつの明かりに照らされる足は赤みがかって見えるが、あれはきっと素肌がかなり白いからだろう。

 柔らかそうな太もものラインやその張りからして、かなり魅力的なものをお持ちなのは間違いない。

 ーーもっとだ、もっとよく見て確認しないと!

 本来の目的すらすっかり忘れて、沙里人は対象にかぶりついた。よくよく見れば、本当にお美しい姿をしている。

 全体的に華奢なようだが出るところはしっかり出ており、とにかく足が長い。

 腰まである長い髪は炎の光を受けて輝き、今は栗色に見えるそれはきっと本来は美しい黒髪なのだろう。

 ーーこ、これは振り返ったときを期待しちゃうな。

 ここがどこであるのかもわきまえず、沙里人は身を乗り出すようにしてさらに視線に力を込めた。

「誰!?」

 突然発せられた声に、文字どおり跳び上がりそうになって驚いた。

 怖くなって反射的に隠れてしまったことで未だに相手の顔は見えないが、声の厳しい調子からして相当に警戒されているのは間違いない。

 こういうときはどうする……!? そうだ、まずは友好的な態度を示すために明るく振る舞わないと。

「は、ハロー。ちょっといい?」

 自分でも何を言っているんだと思いつつ、かといってここで引き下がるわけにもいかず、そのまま続行。

「えーと、僕いきなりここに来てまだよくわからないんだけど、君はーー」

 と言いかけて、今になってはっきりと気づいた。

 ーーめっちゃ美人やん。

 顔立ちは全体的にシャープな印象で、見るものを引き付ける特有の魅力を持っている。

 だが、今はその美しい顔があからさまなほどの警戒感でより強烈なものとなっていた。

 だいぶ冷たい感じだな〜、などと人の悪い面を気にしてしまういつものよくない癖が出ながらも、沙里人は話を続けた。

「あ、あのーーあれ!? だいぶアイテム持ってる!?」

 足元には多くの武具が転がり、腰の革ベルトにはバッグがついている。

 あれは確かインベントリ・バッグ。

 さまざまなアイテムを収納できる魔法の入れ物のことで、その中でも比較的大きいということはかなりの収納力があるということだ。

 相手はこちらの視線に気づいて、さっとそのカバンを手で隠した。取られるとでも思ったのだろうか。

 そんなの取るわけないだろ、と思いつつ、それとは裏腹に別のことも頭にあった。

「あの、もしよければアイテムを少し譲って欲しいんだけど……」

 厚かましいと思いつつこちらもなりふり構ってはいられない。あれだけ余っているんだからちょっとくらいいいだろ、とまさに厚かましいことを堂々と考えていた。

「それは……」

「確か、本人が持っているものとバッグに入ってるもの以外はすべて、誰が持って行ってもいいはずだよね⁉」

「…………」

 ーーあれ〜、意外とケチなのかも?   やっぱり、見た目と心の美しさには関連性なんてないんだな。それを確認できただけでも良しとするか。

 などと失礼なことを堂々と心の中で考思う。声に出さなければ何を考えようがこちらの勝手だと沙里人は開き直っていたが、まさか自分の気持ちが表情にあからさまに現れていようとはまったく気づいていないおばかな少年であった。

「いいですよ、勝手に持っていけばいいじゃないですか」

 相手のその言い方にさらに不機嫌になった沙里人は、さらに強く言い返した。

「ああそうですか。だったら、勝手に持っていかせてもらいますよ」

 と最初の謙虚さはどこへやら、ズカズカと遠慮なく近づき、彼女の足元にあるいくつかの装備やらアイテムやらを拾おうとした。

「あ、それ私が今掴もうとしたものなんですけど」

「は? 動いてなかったじゃん」

「そういうのってマナー違反だと思うんですけどー」

「何をーー」

 さすがにきつく言い返してやろうと思い、屈んだ姿勢から顔だけ起こした時のことだった。

「やっ……!」

 これまでの態度に似つかわしくないかわいらしい悲鳴を上げて、彼女はスカートを押さえたまま器用に軽く飛びすさった。

「ひ、卑怯者! アイテム拾いにかこつけて、こんな破廉恥なことを……!」

「こ、こんなところに来るのにスカートなんて履いて来るほうが悪いだろ!」

「ショーパン履いてますー」

「だったら見てもいいじゃないか」

「だ、誰があなたなんかに!」

「こちらも見たくてみたんじゃないんだよ!」

「何を……!」

 二人は顔を突き合わせて罵り合っているが、双方の距離が急接近していることに互いに気づいていなかった。

「もういい! あなたのような人を相手にしていたら、私の品格が下がる」

「初対面の相手を罵るようなやつに品格を語る資格なんてない」

 最後まで相入れることなく双方はそっぽを向いて、女性の側がわざとらしくブーツの音を立てながら石製の通路の奥へと立ち去っていった。

 結果として、床の上には論争の原因となったアイテム群がそのまま放置されることになった。

 ーーどうせあのバッグでも全部は入らなかっただろうに。

 未だ怒りが収まらない沙里人はブツブツと文句を言いつつも、手早く放置されたそれらアイテムを両手でさばきはじめた。

 内心はあの女から施しを受けているようで不快だが、仕方がない。

 背に腹は代えられないからだ。

 しかしーー

「ろ、ろくなのがねぇ……」

 どうやら目ぼしいものはほとんど持っていってしまったらしく、残ったのはガラクタ同然のものと消耗品の薬だけであった。

 ただ、何もないよりははるかにマシ。沙里人は持てるだけ持つと、落ち着いて周囲を見回した。

 ーーあの女は確か、左側へ行ったよな。

 同じ方向へ行くのは癪だから、すぐ隣にあるもう一つ別の通路を選択しよう。

 確か、時間制限があるはずだった。

 ベテランプレイヤーによれば、モタモタしていると今いるフロアが閉鎖されていき、やがては敵の数が爆発的に増えてどうにもならなくなるという。

 つまり、まぎれもなく急がなければならないということ。

 無駄に時間を過ごしてて、後悔するのだけは嫌だ。

 本音を言うとちょっとだけ怖くなって、沙里人は足早に通路をさらに奥へと進んだ。

 それにしても、

 ーー未だに武器がない……!

 その現実が怯えた心をさらに揺さぶる。

 前進するというより逃げるように歩を進める沙里人の視線の先に変化があったのは、それまでひどく単調だった冷たい通路が右に折れたときのことだった。

 たいまつとは違う色の光が見える。しかもそれは、明らかに大きく動いていた。

 それまで無駄に急いでいたのをいったんやめ、ゆっくりと足音を忍ばせて壁際から中を静かにのぞき込んだ。

 ーーいる……いるいる!

 ひとり震える男の視線の先では、右手に光る棒状の物を握る小人のような存在が立っていた。

 あれがいわゆるゴブリンというやつだろうか。見た目が少し可愛いことで、ゴブリンというよりどちらかといえばノームに見える。

 ーーどうする、行くか!?

 事前の情報によれば、一階の敵は素手でも〝いける〟らしい。

 だがよくよく見れば、粗末とはいえ相手は無骨な鈍色の鎧をまとい右手には短い剣を握っている。

 痛いんじゃないか強いんじゃないか転んだらどうしようひょっとして相手は友好的なんじゃないか本当に戦う必要があるのかそもそも何で自分はここに来たんだーー

 余計な思考が連続的に現れては消え、そのうちに足も気持ちも完全に止まってしまう。

 これではいけないという思いはありつつ、それでもいざ戦うとなると前向きな気持ちはあっという間に雲散霧消した。

 ーーよし、戦うのはやめよう。

 至極あっさりとあきらめ、沙里人はきびすを返した。

 モンスターに背を向け、相手に気づかれないように足を忍ばせて距離を取る。

 自分には戦うことは向いていない。それは明白すぎるほどに明白なことであった。

 だったら、自分は自分なりのやり方をすればいい。

 そう割り切ると、ひとつひとつ慎重に行動しつつも先を急いだ。もう、本当に時間がないかもしれない。ここではなぜかスマホや腕時計の表示が狂うため、正確に時を知ることはひどく難しい。制限時間まではもう間がないと思ったほうがいいだろう。

 ーー多分この辺に。

 ついさっき、壁の一部に違和感を覚えたのだ。

 見た目に変化はないが、何かが違うと直感が訴えかけてくる。そうした感覚はここでは信じたほうがいいというのが、先人たちの教えのひとつだった。

 指先で探るように壁のつなぎ目をなぞると突然、触感が消え、すっと手から前腕の辺りまでが硬いはずの壁の中へと消えていった。

「 ひっ……」

 得体の知れないことへの怖さは残るものの、怪しい相手と直接戦うことよりはましだと自分に言い聞かせ、思い切ってそこへ飛び込んだ。

 中は真っ暗で何も見えない。予想していたこととはいえ本当の暗闇というのはまったくの初めてで、不安ばかりが確実に募っていく。

 わずかに感じる風だけを頼りに歩を進めると、いきなり目がはっきりとした光を感じた。

 似たような光景が再び眼前に広がっている。目に映るのは無機質な岩の壁と床ばかりで、一瞬、元の位置に戻ったのではないかと錯覚しそうになる。

 しかし決定的に異なるのは奥のほうに十字路が見えることと、左手に部屋が見えることであった。そこには先ほどの怪物の姿も見えるが、その向きは全く逆になっている。

 要するに、さっきの位置と逆のところまで通り抜けてきたのだ。ゴブリンらしき相手がこちらに気づいた様子は今のところまるでない。

 ーーよし、裏を取ったぞ。

 じゃあ早速背後から攻撃を、とならないのが〝ザ・小心者〟沙里人であった。

 必要以上に慎重に、目立たないように、周囲を素早く見渡すと、比較的手近なところに壁の一部がかけたらしい小石が転がっているのが見えた。

 それを盗賊の体で音もなく拾い上げると、一瞬躊躇してからそれでも怪物に向かって投げつけた。

 通路からほとんど顔を出さずに放ったため、どこへ飛んでいったか自分でもわからなかったがーー

「ぐあっ」

 という少し可愛らしい声が聞こえてきたことで、狙いあやまたず標的に命中したらしいことがわかった。

 恐る恐る通路から覗き込むと、相手はさすがに怒った表情で辺りをキョロキョロと見回している。

 ーーこ、ここで出ないとな。

 なけなしの勇気を振り絞り、沙里人は隠れていた場所からさっと飛び出した。

「……っちだ!」

 緊張のため声が上ずってしまい、何を言っているのか自分でも聞き取れない。

 それでも効果はあったらしく、怪物は愛らしい顔に似つかわしくない怒りの色をあらわにしてこちらを鋭く睨んでくる。

「ひぇっ」

 思わず情けない声を上げてしまい、半歩だけ後ずさった。

 半歩だけですんだのだからこれで勘弁してくれと誰でもない他の誰かに許しを乞いながら、沙里人は震える手をわざと大げさに振って見せた。

 さらに怒気をふくらませたゴブリンが、ついに武器を左手に持ったまま一気に突っ込んでくる。

 足がすくみ卒倒しそうになるが、それでも堪えてみせた沙里人は敵に背中を向けてそのまま逃げようとする。

 ーーこ、来ないで。いや、このまま来い!

 いやいや、やっぱり来ないで。来なかったらこの作戦は失敗だ、余計にヤバイだろ!

 と、相反する2つの感情がせめぎ合いながらも、沙里人の狙いは明確だった。

 相手の足は遅い。振り切ろうと思えば振り切れるのだが、わざと相手のペースに合わせて動く。

 いきり立ったゴブリンはその不自然な動きに警戒することもなく、必死の形相でそのまま追いかけてくる。

 ーーここだ。

 そろそろのはずだ。

 怖々と背後を振り返ると、薄明かりの中でもそれとわかる色の違う床の上に相手の足が乗ろうとしたその瞬間だった。

 下から目を貫くかのような鋭い閃光が弾け、刹那の速さでゴブリンを白く包んでいく。

 わずかにその悲鳴が聞こえたような気がしたが、それを確認する間もなくモンスターはまばゆい光の中へと消え、輝きの粒子となって弾け飛んだ。

「や、やった……」

 ひどく荒い息をしながら、つい先ほどまで魔物が立っていたはずの場所を見つめる。

 今は何事もなかったかのように静かだが、あれはこのダンジョンに仕掛けられたはずの〝トラップ〟だ。

 ネットの情報によるとーー信用できるのか否かわからないがーーあれは罠床トラップ・フロアで、あからさまに見た目が違うのですぐにそれとわかるという。

 ーーホントにこんな目立ってるとは思わなかったけど。

 大きくため息をつきつつ、沙里人はいつの間にか大量にかいていた汗をぬぐった。

 逆にもしあそこに自分が乗っていたらと思うとぞっとするが、今はまったく別の感情もあった。

 自分があのモンスターを倒した。いつも動画で他の人がやっているのを見ていることしかできなかった自分が。

 不思議な高揚感があり、少しだけ指先が震えている。

 思った以上に怖い経験だったが、勇気を出してやってみてよかった。

「へ、へへへ……」

 我知らず、笑いがこみ上げてくる。決して正面から正々堂々と戦うやり方ではなかったが、これもまぎれもなくひとつの方法だ。

 言いたければなんとでも言えばいい、批判されることには慣れている。これからどんな卑怯な方法であっても勝つためにやりつづけてやると、妙な方向に決意を固めた沙里人であったがーー

 その背後から忍び寄る影に、まるで気がついていなかった。

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