月が空へと帰る時

春光 皓

前編

「十五夜までには、何とか溜まりそうだな」


「どうかしら……。今晩は雲が掛かるかもって今朝ニュースで……」


「でもその日を逃したら、次のチャンスはまた――」





 『月の光は保存が出来る』





 そんな話を聞いたのは、月が十五夜の準備を始める前日だった――。






「えー、明日は十五夜です。別名『中秋の名月』といって、秋の真ん中に出る月という意味があります。一年で最も月が美しく見える特別な日です。もちろん、この日以外でも構いませんが、この日に満月を眺めて行う行事を『お月見』といいます」



 達也たつやは頬杖を突きながら、窓から教室の外を眺めていた。


 三センチ程開いた窓の隙間から、心地よい冷気を纏った風が髪を撫でていく。



「はぁ。夏休みが終わって、もうすぐ一ヶ月か。こりゃあっという間に卒業だな」



 体育教師の合図に合わせて、生徒は次々と走り出す。


 体育祭の準備も兼ねて行われている徒競走を見ていたからか、まるで時間も走っているのではないかと、達也は感じていた。



「なーにセンチメンタルに浸ってるんだ?」

「いて」



 頭に覚えた小さな衝撃が、教科書を丸めたモノによるものだとわかるまで、時間は掛からなかった。


 やはり時間は走っている。



「そんなに徒競走がしたいなら、休み時間にでも走ってろー」


 そう言って担任は達也に背を向け、教卓へと歩いていった。



「相変わらず馬鹿ねぇ。足音、気が付かなかった?」


 担任が行ってすぐ、隣の席の綾音あやねが話し掛けてくる。



「綾音……。もう少し早く、教えてくれよ」

「教えたわよ。ほら、机の上」



 綾音は達也の机を指差し、達也は促されるままに机を見た。


 机の上には小さく畳まれた紙切れが、三つ置かれている。



「一つはあんたに当たったのよ」と綾音は笑顔を見せた。



「もっと直接的にだな……、ってか、この距離で外すってやべーだろ」

「達也。先生が言った十五夜の別名、言ってみろ。ほれ、起立」



 担任からの呆れた視線と、教室中の視線を感じながら達也はゆっくり立ち上がり、「すみません、聞いてませんでした」と精一杯の声で答えた。




「はっはっは。達也、お前は相変わらずだな。お前もどっか走って行っちまうんじゃねーか?」

「ほんと。幼稚園から全く変わってないね」


 涼太りょうた歩人あゆと、そして綾音。


 この三人は達也の幼馴染で、幼稚園からの付き合いだった。


 涼太と歩人はクラスこそ違うが、帰り道は今でも四人で一緒に帰っている。



「来年は中学生になるって言うのに……、先が思いやられるわ」

「お前らな……。たまたまだっての。俺だっていっつも外見てるわけじゃねぇ」



 三人は声を合わせるように「どうだかなー」と笑った。



「それはそうと、明日は十五夜なんだろ? 達也ん家で一緒に見ようぜ」

「良いわね! たっくんのおばあちゃんが作ったお団子食べたーい」

「別に良いけど、まずはばあちゃんに相談しないと」

「じゃあこのまま達也ん家に行って、直談判しようよ」



 秋の風までもが駆け抜ける中、四人は揃って達也の自宅へと向かった。


 古びた木製の扉は軋む音を伴いながら、外と中を繋いでいく。


 中の世界が開けると、い草の香りに包まれた。


 達也の両親は共働きで、この時間は会社に行っている。


 玄関にはサンダルの一つ、置いていなかった。



「ばぁちゃん、ただいまー」



 達也は靴を脱ぎながら大きな声で叫ぶ。


「お邪魔しまーす」という挨拶とともに、三人も達也に続いた。



「おやおや、みんなお揃いで。今日はどうしたんかえ?」



 祖母のチヨ子は部屋の引き戸を開けて顔を出し、嬉しそうに言った。



「実はばぁちゃんにちょっと話があってさ」

「あたしにかい? また珍しいこともあるもんだ」



「さぁおいで」とチヨ子は笑顔で手をこまねいた。



「チヨばぁ、元気にしてた?」



 涼太は腰を下ろす前に、チヨ子に尋ねる。


 三人揃って達也の自宅に来るのは久しぶりだったが、個々に来ることは珍しくなく、全員チヨ子ともよく話す仲だった。



「元気だったわよ。涼ちゃんに綾音ちゃん、アユちゃんも元気そうで」

「チヨばぁはいつも元気だもんね。もしかしたら、私たちなんかよりも」



「そうかもしれんねぇ」とチヨ子は笑うと、ゆっくりと腰を下ろす。



 チヨ子に続くように、六畳一間の部屋に、全員が座った。



「それで? あたしに話ってなんだい? もう歳だから、無理はさせないでおくれよ」


「そんなんじゃないよ、ばぁちゃん。明日は十五夜でしょ? だからみんなで家で月見でもしようって話になってさ。それで、その時にばぁちゃんの作ったお団子が食べたいなって思って」



 チヨ子は一瞬きょとんとしたような表情を見せたが、すぐにいつもの笑顔に戻って口を開く。



「そうか、もう今年も十五夜なんだねぇ……。もちろん構わないよ。美味しいのを作るから、みんな楽しみにしていなね」


「「ありがとう」」



 図らずとも、四人は声を揃えて言った。



「そうか、そうか。もうじき十五夜……」



 チヨ子が小さく呟くように言うと、隣に座った歩人は何かが気になったような表情を見せ、チヨ子に尋ねる。



「どうしたの、チヨばぁ。十五夜に何か思い出でもあるの?」



 チヨ子は力を抜くように肩を落とすと、「ちょっと昔を……、思い出してね」と寂し気な顔を見せた。



「昔……嫌な事でもあったの?」

「アユちゃんは優しいねぇ。そうじゃないよ。その逆さ」

「逆?」



 思わず達也が聞き返していた。




「おや、たっちゃんには話してなかったかね……。十五夜の日、じぃちゃんに会ったって」




 チヨ子は首だけを左に向け、仏壇を見つめた。


 仏壇の真ん中には兵隊の格好をした達也の祖父、キヨシが力強い視線を向けて写っている。


 写真の中のキヨシは二十代後半くらいの見た目で、鼻筋の通った所謂「男前」だった。



「じぃちゃんて確か戦争で……」

「そうさね。もう何十年も前のことになるけど……十五夜の日、じぃちゃんが会いに来てくれたんよ」


「じぃちゃんが……会いに? それってどういう――」



 言葉を失った達也たちを前に、チヨ子はまた一つ笑みを浮かべ、当時を振り返るように話し始めた。



「お月さんの力を借りたんよ」

「月の……力?」



 チヨ子は静かに頷いた。



「といっても、借りたのは月の光さ。光を溜めて、溜めて、溜めて……。一人で少しずつ溜めたもんだから、物凄く時間が掛かったよ」


「チヨばぁ、何を……」



 綾音がチヨ子を心配するような目で問いかける。




 ――頭がおかしくなってしまったんじゃ……。




 達也でさえそう思った。



「月の光はね、保存することが出来るんだよ。そして十五夜の日、溜まった光を月に返すことで願いは届く」


「月の光を保存する?」



 達也が言葉を溢すと、束の間の静寂が訪れる。


 達也はチヨ子を除く全員と視線を合わせたが、三人とも同じように啞然とした表情をしていた。


 そして、この冷えた空気を壊すように、達也は声を絞り出す。



「ばぁちゃん、急にそんな怖い話やめてよ。ほら、みんなビックリしてるから」

「そ……そうだよ、チヨばぁ。疑うわけじゃないけど、それって幻か何かだったんじゃない? チヨばぁが会いたいって強く思ってたから、そういう風に見えた……的なさ」



 綾音は無理やり口元を緩ませて話し、少しでもこの空気を和ませようとしているようだった。



「たとえ幻でも、幽霊だったとしても――あたしは構わないよ。あの日、あの時。確かにじぃちゃんに会えたんだからねぇ」




 ――嘘をついてるわけじゃない。




 ここにいる誰もがそう感じる程に、チヨ子の目は優しさに満ちていた。



「チヨばぁ……。その『保存する』っていうのは、一体どうやったの?」



 黙って話を聞いていた涼太が、眉間に皺を寄せながらチヨ子に聞く。



「溜め方かい? ちょっと待っとくれ……」



 チヨ子はそう言って立ち上がると、押し入れの中を探し始めた。



「達也……。チヨばぁ、大丈夫か?」

「確かもう八十歳になったって言ってたよね? もしかして……」



 涼太と歩人が不安がりながら、ひそひそ話をするように達也の耳元で呟く。



「大丈夫……だと思う。今朝だって、朝からしっかりラジオ体操やってたし」



 確証はなかったが、変わった様子もなかったことも事実だった。


 四人は背を向けたチヨ子を見ながら首を傾げる。


 暫くすると、「お、ここにあった」とチヨ子は箱の中から何かを手に取り、こちらを振り返った。


 チヨ子の手には蓋のついた透明なビンが一本、握られていた。



「ビン……だよね?」



 達也は出来る限りの、いつも通りを心掛けて言った。



「そうさ。このビンは、じぃちゃんがくれたビンなんよ。元々はこのビンの他に、大きなビンも一本あったんだけどね……」



 チヨ子は手にしたビンを机に置くと、それぞれの前に配った。



「その一本って、チヨばぁが――」



 一文字ずつ伺うようにゆっくりした口調で綾音が問いかけると、チヨ子は「そうだ」と眉毛を軽く上げて答えを示した。



「そのビンは、あたしが使った時に割れちまった。ここにある小さなビンも、たぶん一度使ったら割れちまうんだろう」



「じゃ、じゃあ残りの一回も、チヨばぁが使えば良いじゃん」



 涼太はそう言ったが、チヨ子は首を横に振った。



「いんや、あたしはもう充分さ。人間、欲に喰われたらそれまでよ。生きとるうちはあらゆる欲が渦巻きよる。もちろん、悪い欲だってね。それがわかっていながら、人間は欲とともに生きないかんのさ。これを使うことが悪い欲だとは言わん。でも、これ以上使っちまったら、きっと後戻りできん。根拠はないが、には戻ってこれんのじゃろうなぁ……。あたしもじぃちゃんのところに行きたいからね。あの一回を胸にしまうくらいが丁度いいんよ」



 何かを受け入れたかのようなチヨ子の言葉は、達也の心にスッと落ちていく。



 そして、それは「残りの一本は、『その日』が来たら好きなように使ってくれたらええ」と言ったチヨ子の笑顔とともに、身体を内側から温めていった。




「ばぁちゃん。それで、このビンの使い方は――」



 四人は真剣な眼差しで、チヨ子の言葉に耳を傾けた。





「光を屈折させれば良いのさ」

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