仮面シスターはニヤつけない

栗尾りお

眠れぬ夜


 目を開ける。



 薄暗い部屋。木目の天井。鈴虫の鳴き声。夜の風。背中から伝わるソファーの感触。少し動くだけで毛布が擦れる音がした。


 ソファーで寝ること慣れていないのか。それとも体に慣れていないのか。


 見慣れぬ天井を見つめ、全身の力を抜く。そしてゆっくりと目を閉じた。

 筋肉が緩み、血が全身へと駆け巡る。もう余計な力は入らない。動くのは呼吸のたびに上下するお腹だけ。

 次第にホコリっぽいソファーの感触が薄れてきた。


 ぬるま湯に浸かっているような心地よい感覚。脱力のあまり体の輪郭がほどける。頭の中を駆け巡る光景は、理屈では説明出来ない。その違和感も徐々に薄れ始めた。



 そう。このまま。



 身も心も全てを眠りに捧げる。しかし、わずかに一歩届かなった。



 目を開ける。


 

 夢の寸前で追い出された。眠るのを諦めた俺は仕方なく体を起こす。


 ……ギィ


 ソファーがきしんだのか、床がきしんだのか。いずれにせよ、その小さな音が神経を過敏にした。


 息を止め、そのまま固まる。



 1……2……3……



 心の中で3秒を数えた。しかし、他にも物音は聞こえない。

 そっと胸を撫で下ろし、ゆっくりとソファーを降りる。



 1人用の部屋。その中央に布を取り付け、間仕切まじきりをする。


 急な話だったから仕方がないのだろう。2枚のシーツらしき布を無数の画鋲を使い、天井に取り付ける。やや大雑把なやり方に微笑ましく思う俺がいた。



 ソファーしかない俺の空間を進み、そっと境界線を目指す。ゆっくりと、音を立てないように、慎重に。


 重なった布の間に手を入れ、境界線の向こうを覗き見る。


 1人部屋のもう半分。少し手狭に思えるのは、本棚や机といった私物があるからだろう。

 随分と掃除された殺風景な部屋。その大半を占めるのがベッドだ。

 小窓から差し込む月明かりがブロンドの髪を照らす。手を組み仰向けに寝る彼女の姿は、月明かりに負けないくらい美しかった。



 この境界線を越えるわけにはいかない。頭でそれを理解していたはず。

 しかし、近くで見たいと思う衝動が理性に勝る。


 いけないと知りながら一歩踏み出す。そしてもう一歩。気付けば彼女の枕元に跪いていた。


 聖母のような優しい寝顔。触れたくなる頬。へその上で組まれた手には、遠くからでは気付かない怪我の跡がたくさんある。



 子供の時から憧れていた女性。仕事中の彼女も、街中の彼女も、誰にも知らていない彼女も。外見が変わったとしても抱く感情は同じだった。


 他の女性とは明らかに違う。そのことを伝えても相手にされなかった。

 

 せめて、俺がもう少し早く産まれたならば。そう思う日々。正攻法では願いを叶えられない。



 なら、この体で側にいられるうちに。



 立ち上がり、ベッドに腰をかける。

 ベッドが沈み、軋む音がした。ここに来るまでに出したどの音よりも大きい。だが、彼女が目を覚ます気配はない。心臓の鼓動がうるさい。今なら指先ですら脈が取れそうだ。


 ブロンドの髪に当たらないように左手を置き、覆い被さるように顔を覗き込む。


 寝る前に飲んだ水は汗に変わってしまったのだろうか。

 異様に水分を欲した喉が生唾を飲み込む。喉仏が大きく上がり、水分と共に下に降りる。

 こんな些細な動きでも、今は心臓に悪い。


 唇まであと20センチもない。彼女の寝息が肌で感じられる距離。



 このまま。このまま近づけば――



 どのくらい時間が経ったのだろう。ゆっくりと左手をどけ、慎重に立ち上がる。

 どうやら呼吸を忘れていたようだ。速まる鼓動と共に荒い呼吸を繰り返す。しばらくして、脈が落ち着いた俺は再び境界線へと足を進めた。


 シーツで出来た間仕切りに手をかけ、向こう側に足を踏み入れる。さっきは感じなかった綿の感触が妙に心地よかった。


 振り返り、もう一度彼女を見つめる。

 月明かりを浴びる彼女は今も夢の中にいるのだろう。踏み出した勇気も彼女には伝わらない。


 あのまま近づけば唇は奪えた。でも、それだと今までと同じだ。

 一方的に思いを寄せるだけの恋。そうじゃなくて、今度はあの人に振り向いて欲しい。それまでは口付けは取っておこう。



 「おやすみシスター。大好きだよ」



 そう言葉を残しソファーへと戻る。そして夢の中へと沈んでいった。

 


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