第63話 「禅の思想」もどきのお話

 今回のお話は、「禅の思想」に関するお話ですが、あくまでも「もどき」のお話です。ぼくはきちんと禅を学んだことはありません。禅寺に行ったりとか、禅師にお話を伺ったりしたことはありません。十数冊ぐらいの本と、実験と思考実験の結果として見つけた、ぼくだけの禅のお話です。

 「禅」という言葉を使うのもおこがましいとは思っていますが、ぼくのきっかけが禅だったので、「もどき」ということで、禅関係、とくに臨済宗の皆様にはご容赦いただきたいと思います。


 禅とは簡単にまとめると、自分を律して、自分を磨いて、悟りに至る、というプロセスです。

 誰もが自分の内側に仏性を持ち合わせていて、生まれながらの仏であるという前提があります。なので、修行して仏になろうとするのでははなく、自分が本来持ち合わせている仏性を表側に出す、あるいは自分が仏であることに気づく、というのが禅だと思っています。

 禅の修行は、その仏性が表側に出やすい自分になるように、あるいは生まれながらの仏であると気づきやすいように、自分を律して、磨き続けます。

 ぼくの個人的な考えですが、完全な悟りを得ることはできないと考えています。生きているかぎり、どうしたってエゴが頑張ってくれるわけです。エゴのおかげで社会生活は営めますが、煩悩もセットで頑張ってくれるので、まず無理だと思ってます。自分が死んでやっと、真の悟りだと考えています。

 ではなぜ修行するのか。

 すこしでも仏に近づくためだと思われます。

 そもそも僧侶の方々の目的は「衆生を救う」ということですから、仏に近づいて、仏の心で人々を救いたいという思いから修行されているのではないかと思います。

 衆生を救えるかどうかは、ぼくには分かりません。ぼくは他人を変えられないという考えなので、他人を本質的に救うことはできないと考えています。社会に生きて、悩んだり苦しんだりしている人の心が、すこしでも軽くなるのであれば、お寺の意味もあるのではないでしょうか。


 今回のお話でお伝えしたいのは、禅の思想で学んだことが、今のぼくを作っているということです。

 どういうことかというと、禅の本をたくさん読んで、実験したり、思考実験したりして得たぼくが見つけた答えは、のちにスピリチュアル系の本で答え合わせをしたとき、かなりの部分が合致したという事実があるということです。

 「すべてはひとつである」ことや「今・ここ」に生きること、「受け入れて許す」ことや、「感謝する」ことなど、今のぼくの思想の重要な部分で、禅の思想とスピリチュアルの思想が一致していました。

 洋の東西を超えて、単語や言いかたは違っても同じことを指しているということが分かったんです。こうなると、それがとりあえずの正解としか思えません。

 ぼくの考えかたとしては、洋の東西が変われば、意味が変わったり通じなかったりするものは排除するようにしています。日本で「四」という数字が「死」を連想させるからと、昔から縁起が悪いとされていますが、海外では「十三」に変わります。とくに「十三」は宗教的な意味合いですから、その中では不吉でも、宗教に関係なければ意味はありません。こういうのはぼくの中では排除しています。

 また海外では、黒い生き物は魔女の使い魔、ということで不吉とされています。しかし日本ではカラスは神の使いです。ヤタガラスですね。サッカー日本代表のユニフォームにも飾られていました。こういうのも排除しています。

 こういった、民族的や宗教的な考えは、本来ただの生き物である人間の人生を左右するものではありません。習俗的な考えや慣習をないがしろにするということではなく、「人が生きる」という根本的な問題に対しては、それらを外して考えなければならないということです。「生きる」という行為は、人の原点ですからね。この世に生まれたなら、生き切って死ぬ。それ以外は付録のようなものだと考えています。

 そういう意味で、禅の思想はとても原点に近いものです。

 たとえば「すべてはひとつである」という思想は、まさに悟りのことです。唯一無二である「この世界」のすべてが分かるということですから、すべては仏、あるいは仏性として存在しているということだと考えています。宗教的には「すべては仏である」ということも言えます。

 また「今・ここ」に生きるという思想も、悟りの状況を示しています。小さくても本当の悟りを体験したことがある人ならわかってもらえると思いますが、悟りを得ているその瞬間、時空間がすっ飛びます。いつでもない、どこでもないポイントで、自分すらその中に溶け込んでいるような感覚になります。視覚の話ではないですが、感覚的にはサイケデリックな世界にいるような感じです。ちなみに危ない薬はしていません。

 おそらくエゴが自分から離れた瞬間なのではないかと思っています。しばらくしてエゴが戻ってきて自意識が目覚めたとき、すべてが分かります。それは嬉しかったり楽しかったりして、人生で最高に幸せな時間を味わいます。これがしばらく続いたあと、冷静に状況を把握できるようになったとき、物理的な意味でのモノの見えかたというは、いつも見ている風景であっても、別物に見えます。言葉にするのは難しいのですが、あえて言葉にするなら、「目に入るものすべてが輝いて見える」とか、「生命が燃え上がっている」ような感覚です。今はもうそれが普通で、区別がつかなくなっていますが、そのときは一回死んで生まれ直したぐらいの変化を感じました。

 その間、体感では一~二時間ぐらいでしたが、実際にはほんの二~三分です。まさに「今・ここ」に生きるということを実感しました。その当時は「今・ここ」に生きるということを知りませんでしたから、その時間の感覚も面白い体験でした。

 あくまでもぼくの体験としてお話を書かせていただいているので、修行されてる禅僧の方々とは違うと思いますが、お釈迦さんが悟ったときのお話を読むかぎり、似たようなことが書いてあったので、だいたいこんな感じではないかと思います。


 これらの体験は、臨済宗の修行のひとつである「公案」からでした。

 公案とは禅問答のことで、答えのないような問いを師匠から与えられて、一生懸命考えて見つけた答えを師匠に伝えて、悟ったかどうかを見極めてもらうというものです。この説明はものすごくざっくりしていますので、ご了承ください。

 実際には、ひとつの問いに対して、一生をかけて答えを探すものらしいです。そう簡単に答えは見つかりません。

 たとえばこういう問いがあります。

 「両手を打つと音が鳴る。では片手ではどんな音が鳴るか」とか、

 「門無き門より入ってこい」

 そんな感じです。

 ぼくが取り組んだ公案をざっくり書かせていただくと、

 師匠と弟子が散歩していると、野原からカモの群れが飛び立ちます。師匠はそれを見て「どこへ飛んで行ったのか」と訊ねます。弟子は「分かりません。どこかへ飛び去って行きました」と答えます。すると師匠は弟子の鼻を強くつまみ上げます。弟子は「痛い」と言いますが、師匠は「飛び去って行ったと言うが、ここにいるじゃないか」と言います。そのとき、弟子はおおいに悟ります。

 というのが、ぼくが小悟したときの公案です。「百丈野鴨子」という問いです。

 師匠の「ここにいるじゃないか」の意味をずっと考えて、一〇年ぐらいして、ドライブ中に急に分かったんです。「今・ここ」にいる、ということが。

 四六時中考えていたというわけではありませんが、頭の片隅にはいつも存在していて、何かの拍子に問いが蘇ってきて、その度に考えていました。そして、その答えに出会うまで十数年かかりました。

 それをきっかけにして、ぼくはこういう生きかたになってしまいました。もちろん幸せに、心豊かに、平穏に生きさせてもらっているので、不満は何一つありません。


 禅の修行をしましょう、とは言いません。ぼく個人の考えですが、形式化しすぎた今の宗教は、どの宗教にしてもお勧めできません。ただ他の宗教は、洋の東西を問わず「他力本願」が多い中で、禅だけは「自力本願」です。そんな言葉があるかどうかは分かりませんが。

 「他力本願」とは、神さま仏さまに祈ったり、文言を唱えたりして、人生を導いてもらうとか、救ってもらう、願いをかなえてもらうという考えのことです。ただ、裏を返せばこれは、自分の人生を自分以外に明け渡すということでもあります。

 人生を導いてもらって生きていくなら、その人はその人だけの体験をするのではなく、神か仏の指示によって人生を創造していくことになります。それなら最初から神や仏の人生なわけですから、道に迷うということはありえません。しかし人生で道に迷う人はいくらでもいて、そのたびに導いてくれと祈っています。これは矛盾にしか思えません。

 このことを踏まえると、自分を律して、自分を磨いて、生きていくという禅の「自力本願」は、自分に決定権のある人生になりますし、自分オリジナルの体験の積み重ねということになりますから、ぼくには信頼に値しています。

 今の時代、インターネットでも本でも、禅について学ぶことはできますから、禅寺に入門することなく、禅の思想を学んだり身につけることは可能だと思います。それが自分オリジナルになったとしても、それで幸せであったり、これまでより生きやすいと感じられるのであれば、それが正解ということだと思います。

 すべての人が悟りをひらく必要はありません。どうせ正式な形で死ぬまで、完全な悟りは得られませんから、無理をする必要はないと思います。まず、「今・ここ」が幸せであり、楽しく生きていること、これが何より最優先です。

 誰かや何かに、精神的な部分で依存するタイプのものは、本人が気づく、気づかないにかかわらず、たいてい裏切られます。

 依存するということは、自分の思いがある上で誰かや何かにゆだねるわけですが、自分の思いはあくまでも自分だけのもので、他人が知る由もありません。そこにつけこむのが霊感商法だったりするわけです。訳知り顔で寄ってくる人は怪しんでください。人生を変えるのはお金ではなく、自分の意思や意図であることを忘れないでください。自分を信頼し、自分の心に依存して、人生をゆだねていれば、そういう偽物はすぐに分かります。

 そのためにも「自分の足で立つ」ことが大切になってきます。

 自分の足で立つためには、自分を律して、自分で自分を磨くしかありません。そういうとき「禅の思想」はとても役に立つ、素晴らしいものになります。

 巷には禅語と呼ばれる禅の言葉を集めたものや、それを平易な表現にしたもの、禅僧の本など、さまざまな禅関連の本が出ています。何かのきっかけがあれば、立ち読みでもいいので、手にしてページをめくってみてください。

 そこに書いてあることを、頭で分かったような気になるのではなく、実生活に落としこんでみてください。頭で分かるというのは、理解して記憶しただけで、本当に分かっているのとは違います。学校の勉強でもそうです。記憶することが優秀だと考えられていますが、どれだけ理解したか、体にどれだけ沁み込んだかが大切なんです。

 自分の思考や行動、生活に反映させて体験したときにやっとわかったと言えるのです。マニュアルを読んだだけで飛行機は操縦できません。


 このお話はあくまでもぼくの考える禅「もどき」のお話ですので、本物の禅とは違っているところも多々あると思います。興味がわくようでしたら、ご自身で禅の世界に触れてみてください。依存のない厳しく見える世界ですが、自分を磨くという意味では、信頼度の高い世界です。

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