史上最悪の女

古邑岡早紀

史上最悪の女

 最初の出会いは会社の入社式だった。

 胸元まである黒く長い髪が印象的だった。黙っていればかなりの美人。大人しそうな雰囲気の漂う、いわゆる古風な大和撫子。

 それが須磨慧子の最初の印象。

 しかし、俺のそんな印象がまったくもって間違いであることに気がついたのはそれからまもなくだった。



「お、菅谷、なんだいつ帰ってきたんだ?」

 デスクスクからひょいと顔を上げて、企画部のヤツらが俺を笑顔で迎えてくれた。   

 俺はとりあえず一人一人におみやげの月餅を渡しつつ、メンバーを確認する。

 一年前にここを後にしたときと何ら変わっていない。ちらりと見知らぬ顔が二名ほどいたが、その初々しい態度からすると新人だろう。

「俺の席、まだある?」

 俺も負けずにけらけら笑い返して、自分の席へと足を運ぶ。

 余った月餅を庶務事務の女性へと手渡し、久々に自分のデスクへ腰を下ろした。

 おみやげが月餅なんてベタすぎますよと少々毒舌を吐かれつつ、それでも笑顔で迎えてもらえれば、やはりほっとする。

 俺が大連へ出向で出かけたのが一年前。もともと企画自体が頓挫しかねない状態で現地に飛び、三か月で何とかなるだろうと思っていたものが、政治情勢の影響でここまで伸びてしまった。

 企画を軌道に乗せるためとはいえ、これだけ長く部署を離れて戻ってくるとなると、さすがに少しばかり不安を感じていたが、それが取り越し苦労とわかってほっとした。

 デスクの位置も変わっていないし、皆も相変わらずだ。

「部長は?」

「あー。今日は出張。……お前、帰ってくるんだったらあらかじめ電話の一つくらい入れろよな」

「ああごめんごめん。予定より早く着いちゃったんだよな。正式には来週の月曜から」

 一年前と変わらない調子での会話に気をよくし、再度俺は周囲を見回した。

 ……いないな。

 フロア内を一瞥し、俺のデスクの隣へと目をやる。

 どうやら俺のその視線に気がついたのか、同期の名取がぼそりと呟いた。

「須磨なら、いないよ」

「なに? 出張?」

 にしてはデスクが綺麗過ぎるほど綺麗だ。もともと須磨はかなりの綺麗好きではあった。隣のデスクの俺はいつも嫌味の嵐に合ってたくらいだったが、今俺の隣の席は仕事をしている形跡のないまっさらなデスクだった。

「いや、辞めたんだ」

「辞めた?」

「そう。三か月前に」

 あの須磨が?

「俺たちにとっちゃ、結構な痛手だけどな。──ほっとしたか? 菅谷。お前の悪魔はもういない」

「え、……なんかかえって不気味だ」

 そりゃ、今日だって顔を合わせたくはないと思いつつ来たわけだけど。覚悟して企画部に顔を出した身としては拍子抜けする。

「どうして、辞めたんだ?」

「さあ……? 一身上の都合としか教えられてないんだ。部長もなんだかやけにあっさり退職承諾してるし。まあいいだろ。これで二度と仕事もプライベートも邪魔されることはないわけだし」

 そう言って名取は再びデスクワークに戻った。

 そうだな。

 須磨がいないなら、俺はこれから平和に会社で過ごすことができる。

 それは俺が長年望んでいたことだった。



 この世で一番苦手な女を一人あげろと言われれば、母親でも、初恋の女でも、初めて身体を重ねた女でも、それこそ別れた妻でもなく、俺は迷わず須磨慧子を上げるだろう。

 俺にとって須磨慧子はライバルで天敵で魔女で悪魔な史上最悪の女だった。

 最初はそんなことはなかった。入社式で隣に座っていたときはそれなりに好印象をもっていた。

 そしてうぬぼれではなく、須磨自身も俺に対して好印象を持っていたと思う。

 しかしそんな俺の世迷言は入社三年目にしてもろくも崩れ去る。

 須磨から最初にかけられた攻勢は企画書に対する反論だった。企画部に異動して初の、社内全体会議で発表された企画書だった。

 初の、ということもあり、メンターにチェックをしてもらい、それから直属上司にもチェックをしてもらうほど入念に準備をした代物だった。

 それに対し須磨は、小さな針の穴のような欠点に着目し、そこから徐々に崩しに入り、挙句の果てにはその巧みな話術で企画書自体が欠陥品であるがごとく吊るし上げをしてくれた。

 当然俺は反論に転じていたが、

「そもそもこんな簡単な計算ミスを起こしていること自体が問題だと思いますけど」

 その一言で会議でのプレゼンは中止となり、俺は人生において最初の屈辱を味わったわけだ。

 もともと生まれてきてからこの方大した挫折を味わったことのない俺にとって、この事件はかなりのダメージだった。

 それからはほんとにもう、俺の人生を邪魔することに生きがいを感じているんじゃないかというくらい俺に牽制をかけてきた。

 俺が企画書を出せば、須磨も同じ題材のモノを出す。その上どこにそんなバイタリティがあるのか俺の企画書の欠点を事細かにあげつらい、攻勢をかけてくる。

 プレゼンでは相変わらず詳細に俺を叩く。

 不用意な発言をすれば、セクハラだの差別だの騒ぎ出す。

 着ているものに少しでも手を抜けばセンスがないとすっぱり言い捨てる。

 女子社員の間での俺の噂は須磨のカンペキな観察のおかげで最悪。

 そりゃ、全部当たってるし、須磨の言っていることは正論過ぎて反論の仕様がないが、その容赦ない言動に同性の同僚たちは半ば同情の目を持って俺を見ていた。

 そしてきわめつけが、俺の結婚式での行動。

 本当、義理だてして須磨なんかを呼ぶんじゃなかったと俺は一生で一番の後悔をした。

 こともあろうに須磨は俺の控室にかつて俺がつきあっていた女を連れてきやがった。

 その控室に麗しい花嫁もいたわけで。俺はいいわけにすごい苦慮した思い出がある。

 さすがに俺も頭にきて披露宴前に須磨を呼び出し、すさまじい剣幕で文句を並び立てた。

 ところがアイツはそれに動じるでもなく平然と一言。

「そんなことぐらいで壊れるような結婚なら、どのみちすぐに破綻するでしょ」

 ああそうだ。あまりの正論に反論もできなかったよ。

 そしてまあ、それが主な原因というわけではないが、その二年後、須磨の予告どおり俺は短くも儚い結婚生活に終止符を打った。

 別れた妻の最後のセリフは。

「あのとき、あなたの同僚が昔の女を連れてきたとき、結婚やめとけばこんなことにはならなかったのかもね」

 俺が別れたと知るや、須磨は隣の席で意味ありげに──そう、皮肉ったらしく冷笑した。

 それが俺が大連へ出向するつい半年前。

 アイツは見送りにも来なかったし、送別会でも俺とは一番離れた席に腰を下ろしていた。だから口は全くきいていない。

 覚えているのは総てを見透かしたようなあの独特の冷笑だけだった。



 一年ぶりに戻ってきた本社での生活はそれなりに忙しく、須磨のことなんかすっかり忘れ去っていた。

 いや。それは嘘だな。

 あれだけ俺を目の敵にして、あれだけ行く手を阻んできた女だ。ところどころでふと思い出すことがあった。

 仕事でつまったときや、上司に注意されたとき。必ずあの女はここぞとばかり責めたてた。そんなときにふとあいつの顔を思い出してうんざりすることなんてしばしばだった。

 嫌いなのに思い出してしまう。

 嫌いだからこそ、思い出してしまう。

 そんなときだった。

 俺のデスクに見覚えのないスケジュール帳がまぎれていることに気がついたのは。

 悪いと思いつつ、しかし中を見なければ誰のものなのかはわからないので、俺は覗きこんだ。

 それは几帳面な字で事細かにスケジュールが書かれており、その上日々の感想までが書かれていた。

 その字は一目瞭然。須磨のものだった。

 どうせもう辞めてしまった人間だ。このまま捨ててしまおうかとも思った。

 でも。それができない辺りが俺のバカさ加減を表しているようだった。あんな目に合わされた女に今更何を?

 しかしその一方で、俺がそのまま捨てたと知り、あとで何を突っ込まれるか判らないと思うと気が滅入るのも確かだった。

 俺は仕方なく須磨の携帯に電話したもののすでに電話は使われておらず、やむなく部長から実家の電話番号を聞き出し、渋々電話をかけた。

 電話の局番からすると都内でないことは間違いなかった。

 なるべく早いところすませたい。

 それが俺の正直な感想だった。

 だからすぐに電話をかけて簡素に用件だけ告げて終わりにしようと思っていたのだ。

『……はい。須磨です』

 長いコールのあと、ようやくでたのは若い女性だった。──この声。須磨だ。

「もしもし。須磨か? 菅谷だ。つい最近大連から帰ってきたんだが、荷物整理をしていたらお前のスケジュール帳が出てきたんだが。どうする? 処分してかまわなければ俺が捨てるし、送ってもかまわないけど」

 俺は一気にまくし立てた。

 本当に、早くすませてしまいたかったのだ。

 ところが相手は一向に返事をしない。

「須磨?」

 俺はイライラして再度催促する。

『……菅谷さん、ですね』

 そのしおらしい口調にもしかしてこれは須磨慧子じゃないのか? という疑いが初めて頭をもたげた。

 でもその声は間違いなく須磨のもの。

「あの……。須磨慧子さんです、よね」

 一応、遠慮しつつ聞いてみる。

『いえ。慧子は姉です。──あの、菅谷紘一さんですか?』

 妹? ああ、そうか。道理で声が似ているはずだ。──それはそうと、どうして妹が俺の名前を知っている。

「ええ、そうですが。……慧子さんは」

『あの、ちょっと今はいないんですが』

 いない、か。まあいい。好都合だ。アイツとはできればあまり接触を持ちたくない。

「じゃ、お伝え願えますか? スケジュール帳、送らせていただきますって。それと慧子さんの現在の住所を」

 妹さんはちょっととまどいつつも、はっきりと言った。

『できれば、届けて頂けませんでしょうか……』

「は?」

『あの、姉に届けて欲しいんです。……できればすぐにでも』

 電話の向こうで控えめだが、それでも頑なな意思を感じさせる口調だった。

「届けるんですか? 俺が?」

『はい……。無理を申しあげているのは充分承知しているんですが、お願いしたいんです。あの……。姉は今、ちょっと取りにうかがうことができないと思いますので』

 なんかそれって、なんじゃないか?

「どうして俺が」

『どうしても、……菅谷紘一さんにお願いしたいんです』

 そうして妹君はゆっくりと話しはじめた。



「なんで菅谷がここにいるの?」

 明らかに不機嫌にベッドに横たわる女は言い放った。

「あのね、姉さん。菅谷さん、お姉さんがなくしたスケジュール帳をわざわざ届けてくれたのよ」

 妹君は困った顔をして俺と須磨の間をなんとかとりなそうとした。

 須磨はゆっくりと身体を起こして、俺を睨んだ。

 厳しい視線は間違いなく以前の須磨と変わりなかったが、その姿は俺の記憶にある須磨とは明らかに違っていた。

 入社式で目を奪われたあの黒く艶やかな髪はもうない。頬がこけた。なんだか少しばかり小さくなったように感じるのは気のせいじゃないだろう。

「──捨ててしまってかまわなかったのに」

「でも姉さん、ずっと捜していたじゃないの」

 妹の突っ込みにぎろりと視線を返して、須磨はそっぽを向いた。

 妹君は軽く会釈をしてそっと病室から出ていった。

 妙な沈黙と、緊迫感と、病院独特の匂いが漂っていた。

「痩せたな、須磨」

「あんたは肥えたわね」

 その毒舌は相変わらず。

「萱子に頼まれてわざわざきたの?」

 萱子。ああ。妹さんのことか。

「いや。俺がわざわざ須磨の見舞いに来ると思う?」

「さあ? あんた、わりとこういう不治の病系のお涙ちょうだい話に弱いじゃない。同情することもありえる」

 確かに妹さんから聞いた話は過酷だった。もともと十代に長い闘病生活を送っていたこと。完治したとはいえいつ再発するかわからない不安を抱えていたこと。そして半年前再発したこと。今は化学療法の結果待ちだということ。

 しばらく視線を合わせることはなかった。

 俺は布団の上に置かれた須磨の両手を見つめており、須磨はずっと窓の外へと視線を向けていた。

 須磨の、細くなった手首と、いくつかの針の後をぼんやりと見つめて、それからおもむろに口を開く。

「俺は報復にきたんだ」

 その言葉に、ようやく窓から視線を戻し、これまたすごい形相で睨んできた。

「須磨は散々俺を痛めつけてくれたから」

「痛めつけられるような仕事をしてるあんたが悪い。──じゃあなに? 弱っているあたしを見て一笑しようってこと?」

 全く、相変わらず口は悪い。

 俺はまだ毒舌の足りなさそうな須磨を無視して続けた。

「いや、もっといい報復の方法を見つけたんだ」

 須磨はますます険しい顔をする。

「お前のことを好きになってやる」

「なによ、それ」

 須磨は得意の冷笑を浮かべた。また馬鹿なことを言っている、そう思っているんだろう。

「あんたがあたしを好きになるですって? それって同情? あんたバカ?」

「まあ努力はするさ」

 今までされてきたことを考えるとすぐには無理だろうが。すくなくとも第一印象はよかったんだし。顔は俺の好みだし。不可能じゃあないだろ?

「あたしはお断りよ」

 案の定の拒否。だが、それに引く俺ではない。

「須磨の意志なんて関係ない。萱子さんから聞いた。お前の望みは俺にこの世で一番嫌われることだって。だとしたら須磨への一番の嫌がらせは俺がお前のことを好きになること。これが一番だろう?」

 俺の言葉に須磨はほんのわずか動揺を見せた。

 会社ではそんな隙、微塵たりともみせなかったのにな。

 しかし瞬時にいつもの能面のような顔を取り戻す。

「できもしないくせに」

「さあどうかな。少なくとも『至上最悪の女』の地位は危ういぞ。その地位を奪還したかったら早いところ社会復帰に勤しむんだな」 

 俺は立ちあがってイスを片付けた。

 なあんか、須磨の怒りのボルテージは最高潮らしいし、今日はこの辺で帰るのが無難だろう。

「あんたなんか、だいっきらいよっ!」

「俺も嫌いだよ」

 そう言って俺はにっこり笑いながらドアを閉めた。

 閉めながら軽く溜息をつく。

 さてと。また来週にでも来るか。

 なんとなく笑みをもらして俺は妹さんと電話で話した言葉を思い出していた。

『姉の願いだったんです。

 もし、とっても好きな人ができたら、その人にとって至上最悪の女になってやるって。

 たとえ両思いになっても、死んでしまったら忘れ去られてしまうかもしれないけど、最低最悪の女ならいつまでも覚えていてもらえるからって。嫌な思い出でも忘れられるよりずうっとましだって。

 ……ごめんなさい。姉ってちょっと屈折してるんです』

 ほんとに、こんな変わり者、他にいないって。

 そして俺も変わり者なんだろうか? 

 自分にとって至上最悪の女を好きになる?

 もう一度自分に説いてみる。これは同情か、それとも本当に報復か?

 同情?

 報復?

 まあいずれにしろ、俺はアイツの術中にはまったことに違いはない。

 嵌められたままなんて、俺としても耐え難い。

 本当。至上最悪の女だよ。

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