26.逢いに行くよ

 地響じひびきが、潮騒しおさいのように続いている。風も、大量の空気がゆるやかに、行く先を見失って動いていた。雲は、固まることができないのか、不穏な赤い星空に一つもなかった。


 台風前夜のような夕暮れだ。


 月が移動している。一際に大きい、赤い光が引っぱって、他の赤い光と一緒に地球との距離をちぢめている。地球の全天周を囲んだ、無数の赤い光点が、直径の観測値を増している。


 地球の公転に、それまで存在していなかった大質量が上乗せされて、軌道も周期も変化した。自転も、でたらめな相互の引力に影響を受ける。月の公転軌道も、螺旋状らせんじょうにゆがめられている。


 地球の半径の三倍以内、ロシュ限界を超えてしまえば、月は潮汐破壊ちょうせきはかいで永遠に失われる。安定した天体としての地球も崩壊し、いずれ新しい重力バランスへ遷移せんいした頃には、有機生命体がする環境ですらなくなっているだろう。


 ゆうは、マンションに背中を向けた。父親と母親の輪から離れた。


「よろしいのですか」


 ゆうの目の前に、他の誰も、なにもない車道のまん中に、志津花しづかが立っていた。


 黄昏たそがれ薄暗うすくらがりに、ほの明るい肌と長い黒髪、白い小袖こそで緋袴ひばかまの、美貌びぼう巫女みこがたたずんでいた。


 ゆうがマンションの、エントランスの光がとどく路上から、志津花しづかの待つ薄暗うすくらがりへ進んだ。


「まあ、ね。こんな状況で急にいなくなったら、死んだと思われるでしょ。それなら、最初からいなかったって認識に変えておいた方が……なんて言うか、余計なことで悲しくなる必要、ないからさ」


 志津花しづか分神ぶんしんとしての力、本人のいわ職権しょっけんの範囲内で、両親は夫婦だけの生活を認識している。余っている部屋も、認識に合わせて補間ほかんするだろう。


「失敗したらどっちみち、みんな死んじゃうんだしね」


 自然に、言葉にできた。守るとか背負うとか、そんな大層な気持ちでも、もうなかった。


 考えることをやめたわけでも、あきらめたわけでもない。たくさんの人の中にいて、自分のやることを理解して、できるだけする。いつもの両親と同じで、いつかの自衛官とも同じで、思えば、国も世界も同じだ。


 ゆうは、また学校の制服を着ていた。


 初夏でも、これから少し冷え込む時間帯だ。紺色こんいろブレザーにグレーのタータンチェックのスラックス、シャツのボタンは一番上だけこっそり外して、ネクタイを楽にめている。


 今は、なんとなくじゃない。理解していた。ゆうに最後に残った、あの毎日の欠片かけらだ。


「そんな顔しないでよ。志津花しづかさんらしくないって……大丈夫、全部うまくいったら、また元通り設定し直してもらうんだから」


 笑って見せたゆうに、志津花しづかが、いつものすずしい顔をちょっとだけ崩した。


 鼻水をすする音が大きく響いて、ゆうは聞こえなかったふりをした。端然たんぜんとして見せてるっぽい志津花しづかの頭の上で、見えないくす玉が割れた。


「承知致しました。今度こそ、わたくしを妻と設定し、この身も心もささげましょう」


「全然、承知してないよね。そんな元、どこにもないから」


「破局した未練をふっきるには、いっそ、新たな肉欲におぼれるのもよろしいかと思いまして」


「その顔、すっごく志津花しづかさんらしいよ。ホントにもう……前にも言ったけど、まだ俺、未成年だから! 十六歳だから! お酒も飲めないし、結婚もできないからね!」


 小首をかしげてとぼける志津花しづかを、ゆうは放置して、歩き始めた。


 歩きながらおもう。意志を声にして、手足にとおす。


「本当の俺が、神さまだったとしても……この身体と、この一度の人生は、加々実かがみゆうなんだ。だから、戦えるんだと思う」


 立ち止まらないゆうの、三歩ほど後ろを志津花しづかも続く。二人で歩く。


御心おこころのままに……ゆうさま」


 志津花しづかの声も、ゆうとおった。薄暗うすくらがりでも迷わない。赤い星空の下、向かう先がはっきりと見える。


 市道から国道へ、荒野のような無人の中を進む。井之森市いのもりしの中心部へ向かう。


 警察や自衛隊の通行規制を、認識されずに通り抜ける。敬礼をしたくなったけれど、我ながら可笑おかしくて、ゆう会釈えしゃくで済ませた。志津花しづか目礼もくれいした。


 立入禁止指定区域の標識ひょうしきを超えて、壊滅状態の市街に入る。災害の痕跡こんせき遡上そじょうする。


 被災者、行方不明者の捜索そうさくは、打ち切られていなかった。汗と泥と疲労にまみれて、大勢の自衛隊員が仕事をしていた。明日には地殻ちかくプレートごと砕けて公転軌道にき散らされるかも知れない今日、瓦礫がれきを撤去して、聞こえるかも知れない声を探していた。


 ゆうは歩いた。


 此方ここではない先へ歩いた。


 県立けんりつ井之森いのもり第一高等学校だいいちこうとうがっこうの校庭は、自衛隊の本格的な臨時駐屯地りんじちゅうとんちになっていた。捜索活動そうさくかつどうはもちろん、本当に文字通り驚天動地な特異災害とくいさいがいの震源地として、事態究明の糸口を求めてあきらめず、調査機関や研究者らしい人たちも駆け回っていた。


 ゆう志津花しづかは、半壊した校舎を、苦労して屋上まで出た。先にきていた暁斗あきと桃花ももかが、軽く手を振った。


 夕暮れから、いつしか深夜を過ぎていた。せまってくる質量の引力と慣性かんせいが、自転を早めている。地球だけが、時間の加速する宇宙の終末に、閉じ込められたようだった。


 四人で、屋上に座って少し待つ。いや、人間の感覚なら、まだ違う。少しじゃない時間を、待つ。


 背景の黒と星の赤に、やがて薄群青うすぐんじょうが混ざり合う。紫色に、夜が明けていく。そして太陽よりさきがけて、粒子光りゅうしこうのフレアに輝く月が昇った。


「兄弟」


「お兄ちゃん」


ゆうさま」


 ゆうが立ち上がる。月を見上げて、立つ。


 かしずくように月に遅れて、今日のが昇る。あかつきに天の光が、すべての赤い星が、もう近い。


 近くて遠い。


 宇宙がちてくる日、遠く彼方かなたの君に——


いに行くよ。ゆいちゃん」


 ゆうの握りめた手に、志津花しづかの手が、そっと触れた。

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