第39話 灰色の星職者

「あなたは鶏が鳴く前に3度、私を知らないというだろう」

                            -とある殉教者-



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 温暖なティレニア海の潮風が香る某宗教国



 某宗教における世界最大の教会建築であり、総本山とされる『とある使徒の大聖堂』を有するこの国は、数百名の職員を兼ねた住人による最低限の営利活動のほか、世界数十億人の信者から賄われる寄付によって運営されている世界でも特異な存在である。


 その国の始まりは、とある神に仕える使徒の墓場から始まり、またさらにその使徒の人生は、彼の妻が神によって不治の病を癒された夜に始まった。


 彼は神に従い、ある時は人を獲る漁師となって自らが救われた教えを広め、またある時は多くの病人を神の名のもとに癒し、その力を振るった。

 いつしか彼の名は、神の名と尊敬に比肩するものとなり、現代では彼によって広められた数十億人の宗教の信者の子孫たちが、彼の墓石の上に建てられた小国を寄付によって支えているのである。


 しかし、単に宗教上の理由から小国とはいえ国の運営を賄えるほどの継続的かつ多量の寄付金が世界中から集まってくることを不思議に感じるものは多い。

 人は忘れる生き物であるから、信仰心はやがて個人の中では人生の経過と共に薄まってゆくものだからだ。

 では、この宗教と特異な小国にまつわる恒久的な信仰心の理由とは......?


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「おぉ、私たちの神の前に差し出すことも憚られる汚れたこの子を、この子を、どうかお助けくださいっ!!ソレイラ・メルクリオ!!」



 小さな教会のような部屋の中で、赤ん坊を抱いた中年のやせ細った女が、とある濃い灰色の聖職者の風貌をした者の前に跪きながら声を震わせ、叫んだ。



 ソレイラ・メルクリオと呼ばれたその聖職者は無言で女の元にしゃがみこみ、赤ん坊を覆う布を、ゆっくりと解いた。

 見るとその赤ん坊は、全身の肌がかさぶたの様に赤く荒れており、その様相は赤い溶岩が流れる落ちる火山のようであった。

 その子は明らかに先天的な肌の疾患を抱えているようであった。



「......あぁ......シグノーラ(奥様)......私にこの子を抱きしめさせてください。」


「.....あぁ.....!!......おぉ......!!ソレイラ......!」



 聖職者は灰色のフードを首元を下し、自らの顔を露にした。

 その聖職者は女性で、少し大人びた美貌をした顔だちをしており、灰色をしたウェーブのかかった長い髪の毛と瞳が特徴であった。それらは不思議なことに、ステンドグラスを通して様々な色にろ過された光が当てられているにも関わらず、一片の光を反射しなかった。

 腕から足首まで覆う灰色の聖職服も、わずかに覗かせる白い手も、まるで厚い雲に差し掛かった光が際限なく飲み込まれていった。


 白い手でメルクリオは、赤ん坊を受け取り、その子の痛々しい皮膚を優しく撫でた。

 2、3度優しく撫でた後、彼女は母親に赤ん坊を返した。



「......シグノーラ、この子のツァラアト(皮膚病)は清くなりました。」



 信じられないことに彼女に撫でられた赤ん坊の皮膚には年相応の潤いと透明感が満ちていた。

 それを見た母親は驚き、震えながら赤ん坊を頬ずりして、強く抱きしめた。

 母親の涙で、赤ん坊の肌が濡れると不思議とそこもまた皮膚病が癒えて清くなった。


際限なく流れだす女の涙が、赤ん坊を包み込み、瞬く間にその子の肌はすべて清くなった。



「あぁ......っ!!坊や!!坊や!!!......ソレイラ....奇跡をありがとうございます!!本当にありがとうございます......!!」


「......シグノーラ、このことは誰にも話してはなりません......しかし、ただ、あなたの家族や大切な人に見せなさい。そしてあなた方が救われたように、隣人を救うために施しを行いなさい。」


「ソレイラ・メルクリオ!!おっしゃる通りに!!あなたは地を照らす光です!」


「私は主のような偉大なものではありません。あなた方と同じ人間であり、元々人間は良き行いをするために主より創造されたのです。この奇跡の代行はその一部です。」


「主に感謝し、その栄光を伝えます......!」


「さぁ、シグノーラ、その子と共に行きなさい。主の栄光を伝える貴女方に光あらんことを祈ります。」



 母親は何度も深く赤ん坊を抱えながら跪き、そして部屋をあとにした。


 母子が去ったあと、ステンドグラスからわずかに差し込む光しか光源のない薄暗い部屋で、メルクリオは草臥れた厚い一冊のノートを開き、鉛筆で母子の名前を書き入れた。



「......これで子羊がまた2頭救われた......。」



 彼女が目を細めて眺めていたノートには、その母子のほかにびっしりと様々な人物の名前が書かれていた。

 東西南北、ありとあらゆる国々の男女の名前が書かれていた。


 突然、ガチャリと金属のノブが回る音が響いた。

 彼女は、はっとしてノートを閉じ、とっさにチャーチチェアの下に蹴り込んだ。


 ドアが開くと一人の黒衣の老人が部屋に入り、こういった。



「ソレイラ・メルクリオ、また今日も子羊たちを救われたのですね。とても熱心に働かれているようですが、そろそろ休息なさってください。」


「はい、お気遣いありがとうございます。休息は眠らない主からの贈り物、ありがたくとらせていただきますわ。」


「加えて休息の前に食事もとられてください。今日は魚とパンとオリーブ油を、あなたが満腹するまで。」


「うふふ......そうですか。本来、私は食事は不要なのですが、楽しませていただきます。」


「......本当にあなたは不思議な方ですな。主は、口に入れるものはいずれも不浄ではなく、ただ身体から出るものが不浄であり、身体を汚すと説いているものですが、まさか信仰のために食事さえも必須ではないとは。」


「......ふふふ......では、失礼いたしますわ。」



 メルクリオは灰色の目を細めて、口に手を当てながら笑い、老人を背にして足音もなく部屋を出た。



 独りとなった老人は、光を含み極彩色に輝くステンドグラスを眺めてつぶやいた。



「......主よ、あの方は本当に私たち子羊たちを導く存在です。しかし、あの方は本当に私たちと同じ人なのでしょうか?......奇跡を代行する力は、疑いもなく、今ではその力のおかげでこの宗教と施設には多大な寄付がもたらされています......。」



 老人はそう言いながら、ステンドグラスを通して差し込む緑色の光の筋をなでるようにして触れた。



「......このガラスを通る美しい緑色の光は、猛毒と知られているウランによるもの......主よ、私は彼女の美貌と輝かしい栄光や奇跡には何か恐ろしいものが含まれているような気がするのです。これは私の杞憂なのでしょうか......。」



 老人は、小脇に抱えた聖書を開くとある一説を探した。

 そこにはこう書かれていた。





「だから言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の身体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、身体は衣服よりも大切ではないか。(中略)信仰の薄い者たちよ。だから『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。」

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