ブルームーンに恋して

sae

第1話 さやかとこたろうの場合

 朝起きたらびっくりした。


 いつも感じる熱にあまり違和感はなかったのだけど、寝返って抱きしめた感触があきらかに硬くて抱き心地が悪かったからだ。

 眠気眼のまままだはっきりと見えない視界と脳、その中でさわさわとその熱をまさぐっていると低い声が笑いながら言った。


「ちょ……くすぐってー」


(ん?)


 まだ私はこの時寝ぼけていたんだ。だって、ありえないから。若い男の子とそんなピンク色に染まりそうな甘い時間を過ごすような生活とは程遠い暮らしをしているもの。


 私は一人暮らし、彼氏なんか激務のブラック企業に勤めてからできた試しもなくて恋愛からかなり遠ざかっている。さすがにヤバいなと思っても慣れてしまった社畜生活になかなか色恋に染まる時間は持てない。このまま枯れてしまう、そんな危機感は多少あったのにそこで私は出会ってしまうのだ。


(保護犬?)


 たまたま通りかかった大きな広場でボランティア団体が保護活動していた。数匹ゲージに入れられて可愛い声をあげて鳴いていたからふと目に留まった。


 何となく近寄ってしまって何となくゲージに寄り添ってしまって、何となく見た子と目が合った。黒メインの豆柴で、白まろのくりくりした茶色の瞳のその子は私を釘付けにした。


 〈里親になりませんか?〉


 のぼりにそんな言葉があって一瞬心と頭が無になった。


「その子、元気いっぱいなんです~。一緒にいるとこっちまで元気をもらえますよ」


 団体の人らしきお姉さんがにこにこして話しかけてきて「そうなんですねー」なんて愛想のような返事をしていたのだけど、私はもう目の前のこの子から視線を外せない。

 とてもまっすぐ見つめてくる。舌を出してハッハッと息を乱しながらしっぽをぶんぶん振っている。




「お姉さんのこと一目で大好きになっちゃったのかなぁ?人見知りではないんですけど誰にでもしっぽ振る子じゃないんですよぉ、ねぇこた~」

「こた?」

「こたろうです、もうすぐ一歳です。もうほとんど成長は止まってきてるかな……大きさはこれくらいなので室内でも十分飼えるワンちゃんですよ」

「か……」

「か?」


 私のつぶやきにお姉さんが不思議そうに同じ言葉をかぶせて覗き込んできたからその顔を思いっきり見つめ返して叫んだ。


「可愛い!私、この子欲しいです!!」



「仕事が忙しいって自分の世話さえろくにできないくせに何言ってるの!」

 犬を飼うことに決めたと母親に話したら耳の鼓膜が破れるかと思うくらい電話口で怒鳴られた。言い分は分かる、自分でも大丈夫かと心配がないわけじゃない。でも――。


 欲しいと思った。


 久しぶりに心の奥から湧き上がったこの感情にもし名前を付けるならそれは――恋だ。



「……あんた誰」

「だからそここしょばい~、さやかやめてよぉ~」

 ひゃっひゃと笑う目の前の推定ハタチ前後の若い男がなぜか私のベッドで裸になって眠っていた。


「あんた誰!!ふ、不法侵入!?てか、こた!!なんで吠えないの!?こらぁ!番犬!!こたろう!!嚙みつきに来い!!不審者!変態!!」

 いつも朝はたいてい寝室にいるのにどうして今日に限って部屋を出てるの?ごはん?おしっこ?なんで今日に限って……そんなことを脳内で考えていたらハタと思考が止まる。


「あんたなんで私の名前知ってんの」

「俺、こたろう」

「は?」

「こただよ、なんでだろうね。なんか俺、人になっちゃってるね」

「は??」

 目の前の若い男はそう言った。


 そしてやはり、私の可愛い可愛い豆柴のこたろうは何度呼んでもどこを探しても家の中から出てこなかった。



「ねぇ、さやかのスウエット、足たらない」

「しかたないでしょぉ!?足の長さが悔しいけど違うのよ!豆柴のくせに大きくない?ヒト型になったら大きくない?!」

「これもさぁ、俺が着たら全然ビッグサイズじゃな……「男モンじゃないんだから当たり前でしょぉが!女モン着てサイズ抜かすな!!」


(そもそも受け入れがたい現実をなんとか受け入れようとしている私にごちゃごちゃ抜かすな!)


 ここからは回想である。


「なんであんたがこたなのよ。頭おかしいじゃん、そもそもおかしいじゃん」

「なんでなんだろう。でも俺こたろうなんだもん、どうしようもなくない?」

「いやいや。こたろうは犬なの、豆柴の、可愛い可愛い私の愛犬なの。二歳、わかる?あんたなによ、人間の顔は……まぁちょっと可愛いにしても何歳よ、え?何歳?未成年じゃないよね?」

 未成年ならこの子が捕まるんじゃなくて私が捕まったりしないか?


「歳~?そんなのわかんないけど……犬と人間って年齢換算しないとダメじゃんね?豆柴の二歳って何歳になんの?」

「え」

 裸の男の言葉にハッとして携帯をすぐさま取り出し検索。豆柴の人年齢に換算したとき、二歳は……二十三歳だった。


(あ、良かった……成人しとったぁぁぁ)


 って、私は何をここで素直にこの子がこたと同一人物(人物?犬?)と認めかけているんだ。


「待って待ってよ、そんなバカな。そんな犬が勝手にヒト型になったらえらいこっちゃなのよ、そんなことをはいそうですかって言えないよ。言えるわけがないわ」

「じゃあ犬のこたろうはどこにいるのさ」

「それだよ!こたぁ!どこ行ったの、こたろぉぉぉ!朝はこたをぎゅってしないと始まらないのに……」

「だから俺をぎゅってしたら……「近寄んなぁ!あんた裸だから!わかってる!?裸!全裸!!ハウス!!」

 そう言ったら、ビクッとしてベッドの隅によって身を縮めた。


「……こた?」

 その感じがよく見る光景すぎて思わず名前を呼んでしまった。


「こわーさやかぁぁ」

 ビクビクしながら上目遣いの茶色い瞳、その瞳のもう少し上、目と耳の間くらいにある薄い傷跡が目についた。


「ちょっと……あんたこれ……」

 さらっとかきあげた髪の毛は黒色にハイライトの様に茶色く染まっている。おでこをなでるように髪の毛を撫であげたら気持ちよさそうに瞳を閉じるから、その顔がとても可愛い。


「この傷って……」

「あぁ。さやかの家に来てすぐくらいに俺がテーブルに突っ込んでコップ落として切っちゃったやつ」

 テンションのあがりまくったこたと、片づけが十分にできていなかった私の部屋の中で起きた不運な事故。たいした怪我にはならずただの擦り傷ですんだが、かけこんだ病院の先生には目や耳だったら大変なことになってたから気を付ける様にとお叱りを受けた。


「ほんとに……こたなの?」

「そうみたいだよ?」

「本当にこたなの?人間になっちゃったの?」

「どうしようね?」


 ――どうしようか。


 けれど社畜の私に気軽にお休みなんか取れる現実はないのだよ。


「とりあえず、今日はなるべく、できるだけ早く帰るようにするからこたは家から一歩も出ちゃダメ、ピンポン出てもダメだよ!?てか、いつも通り家の中でお留守番、わかるね?犬なんだよ?ヒトの形したからって調子乗っちゃダメだからね?あんたは犬!!」

「わかってるよぉ」

 そう言って腰回りにへばりついてくる可愛い顔した男の子に言い聞かせているのは実は私の方かもしれない。


「ちょ!ちか、近い!なんでそんなくっつくのよぉ!!」

「いつも俺さやかにくっついてるよー、それにぎゅってしてくれるじゃあん、今日俺一回もさやかにギュウしてもらってないー、一回もナデナデもギュウもギュッもチュウだって……「するかぁ!!」

「ひどーー」

 うるうるした瞳、クゥン……と鳴いているこたろうが想像できすぎて息を呑む。


(いや。ヒト化やばくない?こんな可愛いペット、やばくない?)


「……ちゃ、ちゃんと、待ってるんだよ」

 そう言って軽くぎゅっと抱きしめたらこたの体がぴくっと反応していきなり襲い掛かってくる。


「待ってる待ってる!さやか帰ってくるの待ってる!早く帰ってきてね、すぐ帰ってきてね、行っちゃうの寂しいけど俺賢く待ってるから!!」

 中型よりは小型のこた、人間になると普通に大型じゃんか。

 押し倒されて羽交い絞めにされて窒息しかける。


「ハ、ハウスゥゥーーーー!!」


 えらいこっちゃ。


 どうしてこんなことが起きてしまったんだ。これは夢なのだろうか。通勤電車に揺られながらいろいろ考えてみるものの答えなんか出るわけもない。


 犬がいきなりヒトになっている?

 なぜ?


 携帯のつぶったーを開いてぼんやりといろんなぼやきを見ているとフト目についた一件のつぶやき。


 〈都市伝説かと思っていたらマジだった。愛犬が翌朝めちゃかわな女の子に変わってる!うちの子超かわいくない!?〉


(え?都市伝説?犬が女の子?)


 スクロールしていくとまだ追加でいろんなつぶやきがされている。


 〈家にいきなりおっさんいてビビるwww〉

 〈ブルームーン現象かな〉

 〈ありえない事が起こるってありえなさすぎん??〉

 〈チワワ、ヒト型なったら目でかすぎ!!〉

 〈それブルームーンの奇跡じゃない?大切な人と一緒に満月を見れると幸せになるっていうけど願い事も叶うのかな〉

 〈愛犬が人になるって夢みたい!!〉


 都市伝説やら奇跡やらなんだかえらい言葉が飛び交っているが、気になるブルームーン。


(昨夜こたを抱っこして、ベランダから夜風に当たってビール片手に満月だぁって飲んでたな……)


 あれのこと?

 あの月が、今回この不思議な現象を呼び起こしてるの?

 どうやらこの摩訶不思議な出来事は私以外にも世の中で起きているようだった。


 認めるべきなのだろうか、うちの豆柴こたろうは推定二十三歳ほどのなかなかイケメン青年に変身を遂げたらしいということを。

 犬に戻るのかは不明、中身もしっかり人なのか不明、今のところ未知なる存在だけれどおさらいをしようと思う。


 身長は175センチほど、黒髪短髪に茶色いハイライトのようなまだら髪をしてそこそこ筋肉質のわりとモテそうなかっこかわいい男の子だった。

 目元には飼い始めた頃に私の不注意で付けてしまった傷跡、私にまとわりつく習性は同じ、ハウスと言えば必ず距離を開けてお座りするように躾けたそれも今のところ効き目がある。


 見た目はヒトだけれど、こたの特徴として似つかわしくないところは現時点では見つからない。


「さやかぁー」


(可愛かったな……)


 先ほどまでへばりついて私の名前を呼んでいた男の子を思い出す。

 あんなに無条件に、全面的な信頼を寄せて私を求めてくれるもの、そんな愛しい姿を人間の形をして目の前に突きつけないでほしい。


 私が好きなのは、豆柴のこたろうなのに――。


 安定のブラック企業は定時でなんか帰れるわけもなく、結局時計は20時前。これでも早い方だ。とにかくなにか食べ物を調達して帰ろう。犬の時はドックフードを与えられたけどヒトの形ではそれはまずいだろう、お昼はとりあえず家にあった冷凍ご飯を解凍させておにぎりを作っておいてきた(足りてるか不明、食べているのかも不明)なんにせよお腹は減っているだろう、家まで急いで玄関の扉を開けた――ら、タックル。


「さやかぁー!!遅い遅い!!心配した、帰ってこないかと思った!!お腹空いた、寂しかった、会いたかった、待ってた、さやかさやかさやか!!!!」


(帰宅したらきゃんきゃん吠えてたけど、こんな感じだったのかな……しゃべりすぎだろ)


 それでも可愛さが勝つ。

 胸がじんわり熱くなって、愛しさが沸いた。


 ぎゅ――。


「ただいまぁ、こた……」


 いつも帰ってきた私に飛びついて抱きついてくる熱は同じ。

 私を好きだと全身で伝えてくれるその気持ちが伝わる、だから私はこたろうが好きなの。


 こただけが、この世界で私を必要としてくれているみたいだから――。


「さやか、すき」

「私もこたが大好きだよ……世界で一番だいす――ぎゃあ!なに抱きついてんの!!」

 バシィ!っと頭をはたいて圧し掛かっている体を押し上げた。


「ひどいー、さやかひどいよー、ぎゅってしてきたの自分じゃんー、いたいー、ひどいー」

「いや、ごめん、えっと忘れてた、ヒトだった、ごめん、ちょっと疲れて脳が正常に動いてなかったごめん」

「いたいー頭われるー、頭は叩いたらダメだってちゃんと勉強しただろー、ひどいよさやかぁ」

「ごめん、ほんとごめん!今のは私が悪かったよ、どこ痛い?ここ?ごめんね、こた」

 頭や後頭部をなでなでしながらとりあえず謝る。躾けでは手を出さないがモットー、最終的に叩くときはお尻がいい、そんなことを飼う時にはきちんと読んで学んでいた。

 やってしまった……生き物を育てると反省がつきもの。自分の感情で理不尽に怒ってしまうときもあるしうっとうしいと思う時はないがしろにしたり。寂しい時だけ無駄にかまったり、ひどい話だ。



「お腹空いてるよね?ごはんしよっか」

「うん!」

 見上げてくる瞳が可愛い。ここにしっぽがあったらきっとぐるんぐるん振り回してるんだろうな、そんなことを想像しながらキッチンに向かった。


「今日なにしてたの?」

「寝たり、ゴロゴロしたり?テレビもみたよ。リモコン操作が楽だった」

「おにぎり美味しかった?」

「うん」

 そう言いながら今はごはんと焼いた鮭をおいしそうに食べている。お箸は使えるかわからないからスプーン、鮭はほぐしてごはんに乗せてあげたら勢いよくかきこんでいる。


「これ美味しい、すき!!」

「鮭気に入った?骨一応見たけどもし残ってたら危ないから気を付けて……ってこた、ちょっとあーんして?」

 食べているところを無視して顎を掴んで上を向かせる。こたはそれに抵抗もせずされるがままだ。


「あ?」

 ちゃんと犬歯が生えている、そこまで鋭利そうではないけれど、犬歯のある男の子、なんか可愛いな、そんなことを考えつつジッと目を見たらこたもジッと目を見つめ返してくる。目の色は同じ、潤んだ綺麗な瞳は何も変わらないんだな……なんだか距離が近いのはなぜ?


「あ、鼻が短いのか……」

 犬と人間の違い、距離感がいまいち掴めない。

 油断する、勘違いする、こたなのに、こたじゃない。こたじゃないのにこただから……。


「近い!!」

 ほっぺをグイーッと押しのけて顔を反らしたらこたが「いてー!」と悲鳴をあげた。


「ひどいー、さやかひどいー!!自分が勝手にしてるのに俺に対する仕打ちがひどすぎる!!」

「ごめん、ほんとごめん、堪忍」

「ひどいよぉ」

 メソメソしながら鮭ごはんをかきこんでいる。こたは、ごはんの時間が好きだ、食べることが好き。それは人間になっても同じようだった。



「こたー、お風呂するよ」

「……やだ」

「やだじゃないよ、犬とはまた違うんだから。ヒトならもう毎日入るよ、おいで」

「やだやだやだやだやだぁぁぁーーーー!!」

 こたはお風呂が嫌い。いつもお風呂に入れる時は手を焼いている。


「お風呂の入り方教えるからおいで!」

「え!なんでさやかがいれてくれないの!?余計嫌だ!!」

「だってあんた今ヒト型じゃん!犬でもないのに私が洗えるわけないでしょ!!自分で洗いなさい!!」

「やだ!絶対入らない!!風呂嫌いなのにさやかが洗ってくれるから何とか我慢してるのに一人で入るなら絶対入らない!!いやだ!!」

 ヒト型になっても風呂は嫌なようだ。やはり、こたろうなんだな、それを要所要所で感じるからもう認めるしかない。


「……わかったよ。入れてあげるからおいで?」

 つとめて優しく呼びかけるとビクビクして振り向く。それでもまだこちらに寄り添う感じはない。


「大丈夫だよ、ヒトだとまた感覚違うかもしれないよ?湯船つかっちゃう?」

「ゆぶね?なにそれ」

「温めにお湯張ってくるね、ちょっと待ってて」

 不思議顔のこたを置いて私は風呂場へ足を運んだ。



「さやかは服のまま入るの?」

 けろっとした顔で舐めたことを言うから無駄に大きな声で言い返してしまった。


「当たり前です!!あんた犬じゃないから!!」

「犬だけど?」

「犬じゃないじゃん!!見た目普通に青年男性だから!!理性的に無理だわ、もう黙ってろ!!」

「いつもはもっとほとんど着てないみたいなカッコ……「黙れ!その口!!」

「そんで目に何つけてるの?それなに?「だから黙れ!!その口はぁ!!」



(いろいろ直視出来るほどまだ心の準備は出来ていなんだよ!!)


 せめてもの抵抗でサングラスを装着した。


「こたがちゃんと指示は出して?ここ洗ってほしいとか、聞いたことには答えてくれる?」

「はーい」

 返事だけはやたらいいが、とにかく犬の時の様に暴れる感じはなさそうなのでサラッと洗って風呂につけて上がらせられそうだな、と呑気に思っていた。




 わしゃわしゃと頭にシャンプーをつけて洗うと「あ~」となんだか気持ちよさそうな声を出すから笑ってしまった。


「気持ちいいの?」

「……うん、でもいつも別に体洗われてるときは気持ちいいよ?」

「そうなの?ならなんであんなに入る前抵抗するの」

「最初にシャワーをかけられる瞬間が怖いんだよ、あの上からかけられる感じ?ヒトだとそうでもないね」

「お風呂好きになれそう?」

「さやかが洗ってくれるならね」

「今日しっかり覚えましょう」

 そう言ってもこたは返事をしない、まぁいいか、そんな気持ちで頭を流してあげた。


「はい、頭完了~」

 その瞬間頭をすごい勢いでぶんぶん振るからびしょびしょの頭から水しぶきが浴室内に弾け飛ぶ。


「あ、こらぁ!!」

 いつもそうだ、終わったら全身の毛を振り乱すこた。もう濡れてもオッケーなカッコでしかお風呂をしないのはそのため。夏ならもうそのまま私もシャワーして上がることもある。なんなら裸で洗うことだってある。


「もぉーびしょびしょになるでしょぉ~」

 笑いながら濡れた髪や顔をぬぐおうとしてうっかりサングラスを外してしまった。


「……あ」

 濡れ髪で綺麗な肌に水晶の玉のような透き通る水を弾かせて私を背中越しで見つめている瞳はなんだか熱を帯びている気がする。


「こた……?」

「いっぱい濡れちゃってる。もう脱いじゃえばいいじゃん」


(え)


 振り向いたこたはそのまま私の手首をつかんで腰を引き寄せるとそのまま着ていたTシャツの裾を掴んでたくし上げた。


「ちょ!こ――」

 言葉が遮られたのはシャツが私の顔面を通過しようとしたからだ。言葉を発しきる前にシャツが頭から脱ぎ取られた。


「それもいらないな、俺、さやかの顔がちゃんと見れないの嫌だよ」

 サングラスをペイッと放り投げ、そんなセリフを濡れた髪と水を垂らしながら裸で言わないでよ。


「こたろう……」

「洗ってくれてありがとう」

 お礼を言いながらこたの体が徐々に近づいて、ベロッと首筋を舐められた。


「――っ!!」

 そのままベロベロ首筋から鎖骨、濡れた胸元を舐めだすから慌てて体を掴んだ。


「ちょ、待って!待ちなさい、こら!!何舐めて……まっ――」

「いつも舐めてる」


(それとこれとはちがーーう!!)


「あ、んん!!」

「さやかの体はいつも甘くておいしい」

「や、ま……んぁ」

 鎖骨から首筋を舐めあげる様に舌が這いあがってきて身体が震えた。体を押し避けようと力を込めているはずなのにこたはビクともしない、いや、私の力が入っていないのか?


 耳の裏、頬、目元、いたるところを舐め始めるこたろう、それに抵抗したくても全然出来ていない情けない私、一体どうしたのだ。

 怒鳴ってもいい、ハウス!と叫べばきっと裸で正座して距離を開けるはずだ。

なのに――。


「さやか……」

 こたが熱を含んだ瞳で見つめながら、はぁ、っと息を吐いた。その声にもやたら熱が含まれていた気がする。


「すきだよ、さやか」

 言葉が耳から脳に届くまでに先に胸に刺さった。そのまま息が止まったのはこたの口が私の口を塞いできたから。


(待って、なにこれ)


「――んっ」


 それは口づけだった。犬にふざけてチューなんてするのではなく、人と人がするマウストゥーマウス。キスともいう、いやこれはキスなのか、いやいや犬と……嫌?今こたろうはヒトで?ならこれは一体……。


そう脳内がフル回転しているのに、全く解析できないのはどうしようもないほど私の胸を締め付けているから。


 久しぶりの行為だった、キスなんかもう何年もしていない。誰かと触れ合わすこの温もりなんか忘れていた。柔らかくて生温ぬるくて気持ち良くて、胸が痛くなる。


 どうしてこんなに胸が痛くなるの?

 キスって、こんなに胸が痛くなるものだった?


「――めて……」

「――え?」

「……会いたい、こたに、会いたっ――ふぅっぅ……」

「……さやか」


 目の前にいるのが本当にこただとしても、私の知っているこたじゃない。

 私が呼んでいるのは黒くて白まろのつぶらな瞳で愛くるしいほどの笑顔を向けて私に飛びついてくるあの子なの。


 こんな水を滴らせて肩幅の広い強引に引き寄せるほどの力を持ったかっこかわいい男の子じゃないの。



 それなのに――。


 どうして私の胸はこんなに締め付けられるほど苦しくてドキドキしてしまうんだろう――。




(いや、ダメだろ。愛犬とキスしてときめくとかダメだろ、大丈夫か、私)


 お風呂から上がって洗面所の鏡に映る自分と向き合って冷静になって脳内で呟いた。突然のキスに頭がついて行かなくて泣きごとのような言葉をこたの前でぶつけてしまった。反省しまくってベッドを覗いたらこたの姿がない。寝るときはいつもベッドで一緒に寝ている。先に布団に潜り込んで定位置を見つけて私が来るのを待っているのに。


「……こた?」

 シンッとした室内。狭い部屋の中で自分以外の息づかいは気づきやすいものなのに。


「こたぁ!」

 自分の声じゃないみたいな声が出た。幼い子が親を探すみたいな泣きそうな声。この部屋で独りきりになってしまった、そう感じて思わず叫ぶようにこたを呼んだ。


「こたあ、こたぁ……こたろう……」

 カラッと窓が開く音がして、バタバタした足音が聞こえると思ったら寝室の扉がバンッと開いた。


「さやか!?なに、どうしたの!?なにがあった?!」

 慌てたように心配した顔で部屋へ飛び込んできたこた。しゃがみこんで半泣きの私の顔をペタペタ触って覗き込んでくる。


「なに?大丈夫?どうしたの……また、泣いちゃってる」

「ちが……こたが……」

「俺が何?」

「こたがぁ、もう、いなくなったかと思ったぁ……犬じゃなくなってヒトになって、もう今度は消えちゃったのかと……こた、やだよ、行かないで、どこにも行っちゃやだ……離れていかないで、ここにいて、私のそばにいて、ずっと……」

「……ここにいて、いいの?」


(え)


「俺はもう、さやかの思うこたろうじゃないよ。戻れるかもわからない、これからさやかの役に立てるかもわからない、俺が、こんな風にさやかをまた泣かせることになる……それがもう、本音は耐えられない」

 震えた声でそんなことを言われて戸惑った。


 私だけじゃない、こたろうも不安を抱いて過ごしていたことに私はどうして気づいてあげられなかったんだろう。ありえない現実に一番戸惑っているのはこたろうの方なのに、どうして私はそれを否定するような言葉ばかり投げてしまったんだ――。


「ごめん、こた……違う、私が悪かったよ、ごめん、ごめ――」

「さやか、泣かないでほしい」

「ごめ、ごめんね、違うよ?こたのせいじゃない、これは、私が自分に情けなくて泣いてるの」

 ぎゅっと抱き締めて頭をさする。広い肩幅、熱い身体、息づかいも、匂いも、私の知っているこたろうじゃない、でも――。


「こただよね、私の大好きなこた……」

 目の前に、この腕の中にいるのは間違いなく、私の大好きなこたろうだ――。



 ごそごそしてなかなか定位置を決めないこたろう。


「……はやくしなさい」

「なんか落ち着かなくて。さやかもう少しあっち行って」

「ええ?落ちちゃうじゃん、私が」

 ベッドのサイズが完全にあっていない、そりゃそうだ。シングルベッドに成人男性と私が寝ていたら狭いに決まっている。一緒に寝るには無理があると色々納得させる説明をしたけど、全く聞き入れないこたろう。最後は「そばにいてって言ったよね?」そんな揚げ足まで取られて降参した。


「落ち着かないならソファか床で寝なよ」

「ひでぇ、いつも俺が寝てても抱きついてくるのに扱いの差」

「あのねぇ、サイズ感違うんだから文句言うところおかしんだよ!あんたでかいの!わかってんの!?」

「わかってるよ……んー、ちょっと失礼」

 そう言ったこたはいきなり私の腰回りに腕を回して自分の胸元へ私を背中越しに引き寄せた。



「え……」

「あー、これ、ここでしっくり。はー、寝れそう」

 首筋に頭をグリグリ擦り付けて腰に回した両腕をぎゅっと包むように力を込められた。

 ベッドの中でバッグハグ、いや、私人間の彼氏にだってこんな甘いことしてもらったことないんですけど。


「こた、これは……ちょっと……」

「なんか疲れたねぇ、人間って疲れるんだねぇ……さやか、頑張ってるんだなぁ、すごいねぇ」

 眠そうな声でそんなことを言われて不覚にもほろりとしそうになった。


「俺にできることでこれからはさやかのこと癒せるようにがんばるね」

「え?」

 ちゅっと耳元にキスされて抱き締めていた腕がサワっと胸に触れてきた。当たっただけ?そう思ったのは一瞬、こたの指先があきらかに胸の頂に触れて押し付ける様に刺激してくる。


「あ、え、ぁ……こ、こた?」

「ね?いつも思ってたけど無防備に寝すぎじゃない?暑いときとかさやか寝ぼけて服脱いだりするじゃん、あれ正直困ってたんだよねぇ……さやかのおっぱい大きくて柔らかいからさぁ、寝る時もギュウって抱き締めてくるじゃん、だめだよ、あれ」

「ええ?まって、こた、何言ってるの?」

「俺にとってさやかは飼い主だけど、大事な大事なひとだからさ……犬の時も幸せだったけど、ヒトになれて正直めっちゃ嬉しい、こんな風にさやかに触れたいってずっと思ってたからね」

 さっきまでの可愛い感じのこたろうはどこへ行った?

 お前は可愛い白マロの豆柴こたろうだろう?いきなりイケメン面したお兄ちゃんになってやしないか?


「可愛い、さやか……ずっとずっとさやかに触れたかった。こんな風に俺が抱きしめてさやかをいつも甘やかせてあげたいって思ってたんだ、嬉しい、好きだ、さやか――」

 かぶさるようにこたの顔が降ってきてそのままくちびるを重ねられた。

 熱い吐息と一緒に舌が押し入ってきて戸惑いつつもそれを受け入れてしまう。



「んん――」

「はぁ、さやか……」


 無意識に身体が離れようとしたが、巻き付いている腕に力を込められてさらに押し付けようとしてくる。


「こた、ちょっと……なんか、その……」

「人間って年中発情してんの?そりゃするよな、好きなメスといて発情しないオスいないよね」


(メス言うな)


「待って待って待って、こたろう発情時期終わったよね?」

「ねぇ?俺もうずっと発情期みたいな感じなんですけど、人間ってどうやって処理してんの?犬と同じでいいんだよね?」


(犬がどうかよくわかりませんけど!?)


「はぁ、さやか、好き……おっぱいやわらかい、触っていい?ていうか、舐めていい?」

「ええ!?ちょ……こたぁ!!」

 ぐりん、と私の身体を抱き上げながら器用に反転させて覆いかぶさるように胸元に顔をよせてシャツをひっぱるあげると長い舌がベロッと先端を舐めあげた。


「ひゃぁあ!」

「ヒトの口の方が舐めやすいし噛みやすいね……」

 カミッとされて痛みはなかった、甘噛み、こたの甘噛みは全然痛くない。遊びで噛むじゃれた噛み方、どこを噛まれてもくすぐったいような感じしかしなかったけれど、それを乳首にされると変な気分にしかならない。


「ぁ、やぁ、こたぁ、だ、だめ、だめだよ、私たち……その……」

 なんだ?私たちはなんだ?どういう関係だ?


 飼い主と犬?

 でももう今こたは犬じゃないから飼い主とペットの男?


 んん?こたはヒモみたいな感じになるの?え、なんかそれやだな、そんなつもりでこたを飼ってるわけじゃないし、でもじゃあなに?家族?家族だけど犬だったし、ええ?なに?どうなるの?


「さやか……発情したメスの匂いがする……はぁ、やばい、我慢できない」

「いや、待って、マテ、マテだよこた。ステイ、マテ!!」

「ええー、ここでマテ?……いつまで?どこまで?」

 こたの息が荒い、はぁはぁ言って瞳が完全に血走っている。欲しがっている顔、我慢している顔、マテが解放されるのを心待ちにしている顔――。


「いつって……」

 どうしよう。


「こたは……私とどうなりたいの?」

「愛し合いたいよ?」

「……」

「さやかとずっと一緒にいて死ぬまで愛して傍にいたいだけ。さやかは違った?」


 違わない。私もそう、思ってた。


 出会った瞬間から恋をしたのは――私の方。


「犬じゃない俺にも、これから一生さやかを愛していくことを許してよ」


 甘いキスを落としながらそんなセリフをはくペットなんかいるもんか。そう、いるわけないんだ。でも、私の目の前に現れた……。




「……いいよ」


 愛されたいと、思ってしまった。




 だから私はこの可愛い子に、全身で愛してほしいと、手を広げた。

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