43話 彼女は陸上選手
多くの群衆が目当ての大会の為に市内で一番広い西公園陸上競技場へと流れ込んでいた。天気予報では午後から雨だと言っていたが、空には雲一つない晴天である。風も強くない天候で走るのにはもってこいの日といえる。
そんな混み合った中を、流れ通り進んでいき、スケジュール表をスタッフの方からもらう。まぁ、橘からあと三十分後の十時二十分スタートと聞いているから、必要ないが。
観客席には向かわず、自動販売機の横の壁に背持たれながらスケジュール表を見る。
ウチの政明高校は、一年から三年で構成されており、橘はアンカーを任されている。それは、彼女が誰かにバトンを繋ぐ為に走っていない事を陸上の顧問が感じ取ったからかもしれない。
ただ、何方にせよ、中学時代にインハイでベスト八だからな。その期待は彼女にプレッシャーを与えているのは言うまでも無い。
そのプレッシャーを与えているかのように、今日走るであろうユニフォームを着た学生達から橘の話が聞こえてきた。
『中学の県大会で優勝した橘来るらしいぞ?』
『マジっ?! あの時の走りは化け物だったよな。二位と圧倒的な差をつけて』
『そうそう、私も最初は程よいペースで先頭集団に居たんだけど、急にギアを三段階あげたみたいに走り出して。だから、私含めた何人かが、『えっ?』って本番なのに声を出したのを今でも覚えてる』
『バケモンじゃん』
『そりゃ、先輩達がこぞって橘をスカウトに行った訳だな』
『でも、なんで
『……さぁな。てか、さっき一人でストレッチしてたの見たけど、すっっげぇ可愛くなってるの!』
『まっマジっ? 走れて可愛いとか最高だろっ』
『見にいくか?』
『当たり前だろっ、どこだよ、教えろよっ』
『…………はぁ〜〜〜』
男子二人と女子一人の学生達は自動販売機でスポドリを購入して去っていった。なんか、知らない女子だが、少し可哀想である。
オレも中へ競技場の中へ入ると、観客達が明らかに一箇所へと目線を向けているのがわかった。学校の顧問? だろうか、大人達や学生達もある一人の少女に釘付けだった。
小さな身体にも関わらず、狂おしいほどに洗練された足と筋肉をほぐすように平らな場所でストレッチをする橘がそこにいた。
誰もがその静謐に行われている神事を見守るかのように言葉を漏らさ無いでいた。彼らが喋り始めるのは、目を逸らして声が邪魔にならないところでやっと話し出している。
それが掟かのように。
オレは、観客席前のフェンスで橘を見て居た。
橘は、終えると、アップをする為か競技場をぐるんと一周するように走り出した。その走りは、余りにもアップと言えるほど生易しいものではなく、ほぼ全力疾走で、周りの選手に圧迫感と緊張感を与えるような走り。
これを急遽、先頭集団でやられたら、胸を裂くには十分過ぎるほどだろう。
その怒涛の走りを見せられて、オレを含めた全員が固唾を吞み、感嘆を漏らした。
陸上競技場のトラックより大回りで走ったので、おそらく五百メートルは走ったであろうのにケロんとした顔で元の位置まで戻って来る。
学生達は、その光景に少し青い顔になりながら顧問の場所まで戻って居た。
顧問達も、腕を組みながら宙を見上げるほどに、段違いのスピードなのだろう。
橘は、近くに置いていたジャージを拾うなり、着込んで、顧問の方まで戻ろうとした際、オレと目があう。
そしたら、ひょいひょいといつものリスっぽい橘がこっちへ寄ってきては、フェンスの向こうから話しかけて来る。
観客席とフィールドをフェンスで区切っているのが本当に陸上の選手なのだなと初めて実感した。
「どうでした? 私の走り」
ざわざわと周りからの視線とか気にしないのが、本気の現れと見るか、それとも眼中に無いと見るか。
……いや、そうじゃ無いんだよな、
「あぁ、良かった……本番もその走りを待ってる」
後輩の発する言葉が、誰かに、戦意喪失させないようオレは、気をつけて言葉を発した。
後輩が悪意なき純粋さを持っているのだと、知っていたから。
「はい。……待っててください、先輩」ニコッと満面の笑みを披露する。
良かった、と人知れず胸を撫で下ろした。
言い終えるなり、橘は顧問の元へと小走りで向かっていく。
その場がオレに対して、興味の対象と化していくのを察知し、橘が走り出す競技場外の地点まで歩き始めた。
その際に、耳元へ容赦ない言葉が届く。
「あの彼氏と橘さん、釣り合わなくね?」
「うん。それに、もっと応援してほしいよね、彼女だったら。……橘さん、見る目ないかも」
グサリと心無い言葉が胸に刺さりながら、ふらふらと去っていった。
春季駅伝大会と呼ばれるこの大会は、男子と女子の部がある。
男子コースは、七区あり、三十八キロ。
女子コースは、五区あり、二十三キロ。
区間は、コースによってバラバラの長さで、橘は女子の中で一番長い区間のアンカー。その距離は、六キロに及ぶ。
要するに、長い区間で逆転されて距離を取られるのは、何としてでも避けたい為に橘を起用したと言う訳だろう。
裏を返せば、三年や二年の先輩達を差し終えて橘の能力が群を抜いている事実をはらんでいた。
だから、橘は、色々と期待をされ、それに応じようとしている。
自分が走る意味、を置いてでも練習した光景を思い返す。
文芸部のメンバーと帰る時に、時々学校の外周を走る橘を遠目で見る日があった。周りには、誰もおらずひとりで黙々と走るのだ。
おそらく、誰かに言われた訳でもないだろう。
ただ、走って今の自分が求められた成果を出そうとしている。
それが、最終的には、憧れの人に届けという意味が内在して居ても、橘は誠実に駅伝という競技に向き合っていた。
『最高の競技』
そう、橘は言っていたっけな。
そんな事を思いながら、五区の場所まで向かう。
競技場からは、そこまで離れておらず、五百メートルほど。
走る並木道の、車道には制限が引かれ、この駅伝の為に通行不能となっている。その光景が異界の地に舞い降りたようで少し面白い。
歩道に、応援しようと近くの住民達が顔を出して競技場へと向かおうとする者や第五区スタート地点まで歩く者もいる。
歩道の両脇には、春の華やかさを失わせた薄い緑がさやさやと靡いている。まだ陽が登りきっていないからだろうか、涼やかな影に包まれていた。
暫く、歩きスタート地点までの一本道に当たる道へと曲がると『わぁ』と声を漏らす。
綺麗な一本道を走る選手をまるで祝福するかのようにハナミズキの街路樹が綺麗に連なっていた。
緑ではなく、真っ白のハナミズキと鮮やかなピンクのハナミズキが交互に花を咲かせた木があるのだ。その素敵すぎる光景に周りの人はパシャパシャと写真を撮るほどに美景で、こんな中を走るのは楽しいだろうなって思う。
その素敵なハナミズキの下を通りながら、足を進めると、遠くから『パン!』という音が聞こえた気がした。
スマホで時刻を確認すると、本当に今始まったのだろう。
その物騒にも聞こえる音が、今だけは誰かの闘志に火を灯す役割を持っている。
第五区のスタート地点には多くの女子選手が集まり、体を冷やさないよう体を動かしていた。一区が始まってもまだまだ自分の時間までは時間があるのだ。
とはいえ、まだ橘もいないので、暇だな。
「ん? なんだあれ」
そんな華やかな大会に似つかわしくないマスク姿でクリーム色のハンチング帽を被り、目には丸いメガネをかけ如何にもアヤシイ装いの奴がいた。
服装は、中にグレーのスリーピースをブラックのシャツの上に着込み、さらにその上にグレーで品のあるジャケットを羽織っている。下は、ロングのブラックスカートでストンと落ちており、女性なのが分かる。
その怪しげな女は、キョロキョロと辺りを見回して、注目され始めたので人気の少ないこっちへ小走りできた。トボトボと下を向きながら歩く姿は、ホント不審者である。
その不審者は足元ばっか見て歩くので、目の前に来たオレは避けようと横へずれたが、ぶつかる。
「あっ、すっすみません!」
胸板に頭が当たり、ムネが脇腹に当たったので謝罪するも見上げた瞬間、硬直した。
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