加来凪子は口裂け女と口裂けババアを許さない
たってぃ/増森海晶
一
あの日、私が落としたものは、【戻ってくるもの】だったのか、それとも【もう二度と戻ってこないもの】なのか。
命を拾い、人として大切なものをその場に落としてきた私に、生きる価値はあるのだろうか。
「口裂けババア? 口裂け女じゃないの?」
今年、小学校に入学した
大きくて赤いランドセルと、ぶかぶかとした黄色の通学帽に感慨深いものを感じ、胸の奥がきゅっと切なくなった。
「うん! 出たの、出たの! きのうの帰りの通学路で、ゆっちゃんが追いかけまわされたの」
ゆっちゃんと言うのは、娘のクラスメイトの佐々木 弓子のことだ。
凪子は娘のクラスの名簿と娘の友人の顔を、頭の中で照らし合わせて、背の高いおさげの女の子を思い浮かべる。
「ゆっちゃん、怖くて学校休んだのっ! 髪の毛掴まれて、怒鳴られたらしいの」
確か、その子は両親が共働きの子だ。こちらが声をかけない限り反応を示さない静かな子で、うちの遊びに来た時も所在なさそうにぽつんと輪から離れていた。
保護者会で何度か彼女の親と顔をあわせたことがあるが、仕事が忙しすぎて最近は娘の寝顔を見る余裕がないと愚痴られた記憶がある。
特に朝は、娘を寝かせたままご飯を冷蔵庫に放り込んで仕事に出るのだそうだ。
そのせいなのか、朝に両親に放置される弓子はよく学校を遅刻するらしい。
「それは怖いわね。学校を休むのは仕方がないわ」
襲われた少女の恐怖を想像して、娘を守れなかった親の心情を想像して、凪子は悲しい気持ちになった。
「それでね、お母さん」
もじもじと小さな体をくねらせる娘に、凪子は娘がなにを言いたいのか察した。
「莉生は学校が好きだから、学校を休みたいって言うハズないものね」
つい先日に言ったのだ。
学校は楽しいか? という母親の問いに、娘が元気いっぱいに「大好き」と答えたのを。
「……っ!」
図星をつかれて娘は固まった。瞳にたちまち玉のような涙がたまり、全身を小刻みに震わせている。
莉生の頭の中では、今「なんで」「どうして」という感情が化学反応を起こして、大きく黒い渦を巻いているはずだ。
思った以上に深刻だと分析して、凪子は切り口をかえた。
「だからね、莉生。お母さんに、教えてくれないかな。口裂けババアって、どれくらい怖いのか」
母親の言葉に娘は顔をあげる。涙にぬれた瞳をぱっと輝かせて、すがるような視線を母にむける。
「うん! わかった」
元気よく頷く姿が健気で、凪子は娘を抱きしめたくなった。
いや、自分が思うよりもはやく体が勝手に動いて、いつの間にか娘の身体を抱きしめていた。
莉生の小さな体からは暖かな乾いた草の香りがして、泣きたくなるくらい懐かしい気分になった。
「え、お母さん」
「莉生。お母さんは、莉生の味方だからね」
せめて、この子だけは自分と同じ轍を踏ませてはならない。
自分の中で強く固まっていく意思の中心に、凪子は幼い自分の姿を見た気がした。
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