燃える闘魂アントニオ猪木のワールドワーⅢ
しおとれもん
第1話迷わず行けよ行けば解かるさ」
第1章 「迷わず行けよ行けば解かるさ」
第三次世界大戦が勃発した!
それは計画的だったし、用意周到だったから、日本国民はテレビの前で固唾を飲んで手に汗握りハラハラして観ていた。
モハメド・アリ対アントニオ猪木、世紀のデスマッチ!
ミサイルは撃たない! 殺し合わない!憎しみ合わない!
この戦争はアメリカと日本がレスリングのスポーツを通してグローバルに友好を拡散していた。
リングネーム、アントニオ猪木。(享年79)心不全だった。
終戦から16年目の9月に僕がうまれて7年経ちプロレスを観るようになった頃、まさかジャイアント馬場やアントニオ猪木が死ぬなんて事は考えても無かった。
僕が7歳の頃プロレスが好きで、若いアントニオ猪木が物凄く強くて・・・、ファンだったジャイアント馬場が、負けそうなくらいに強く昇って行く様を壊れかけの白黒テレビの前にお爺ちゃんと一緒に観ていた。
プロレスの外人選手の中で印象に残っている選手は、カールゴッチ、ビル・ロビンソン、ミルマスカラス、ジンキニスキー、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・デストロイヤー、ボボ・ブラジル、ブラッシー、アイアンクローと、こんな具合だった。
日本人選手は、アントニオ猪木、ジャイアント馬場が断トツで好きだった。
ジャンボ鶴田、サンダー・杉山も存在していたが・・・。
この頃は小学校に登校したら右手を掲げて「アップー。」とジャイアント馬場の真似をするのがステイタスだった。
特に印象に残っている試合が我らのジャイアント馬場対ジンキニスキーの60分一本勝負だった。インターナショナルヘビー級選手権の戦いだ。
日本のジャイアント馬場が絶対勝つものと思っていた僕はテレビの前に座って試合の中継を見守っていた。
結局ジンキニスキーと引き分け後、リターンマッチの大坂球場特設リングでジャイアント馬場が勝ち王座奪還を果した。16文キックが必殺技だった。僕にとっては・・・。
ジンキニスキーは手強かったし、呆然とテレビを見詰める僕に「コイツはアメリカの軍人やったからなあ強いわ。日本が戦争で負ける訳や。」爺ちゃんの言葉を聴いて筋肉の鎧を纏った彼は生きるか死ぬか、毎日生と死の鬩ぎ合いを知って生きている! 彼は途轍もなく強い!実践で鍛え上げた肉体、メンタル、非常なまでの戦いの心得を持ってして、試合に挑んでいる! これはゲームではなく果し合いだったんだ! ジャイアント馬場は確かに強いが、ジン・キニスキーはその上を行くカナダ人。
プロレスの勝負に真剣勝負を見た! 9歳の時だった。思い出は尽きぬ・・・。
ある6歳の夏休み前の事、自宅北側にある日曜学校には、アメリカ人の子供が常駐していて、たまに顔を出したかと思うと30秒程度で屋内に引っ込む。
一緒にあ錆びたいのだが言葉が通じなくてすれ違いになっていた。
今朝はこの日曜学校に生えているに常緑樹のハイノキに留まるクマゼミを採集に来た。
見上げれば、3mの石積みの擁壁に2mのフェンス。フェンスを突き抜けハイノキの幹が天に伸びる!その枝葉に数十匹ものクマゼミが留まっていた。
白い虫取網の竿部分を長く伸ばして、日曜学校用の虫取網を改良した!だから取れない筈は無かった。
調子良く数匹はモノにして虫かごにいれたその時、見馴れたアメリカ人の子供がフェンス立端から顔をだした。
「おっ!あの子やでじいちゃん?」といった刹那!
ブルーのポリバケツを持ち上げひっくり返した!
ザッバーン! ナニが起こったのか、暫くしないと、分からなかった!
僕の横に立っているじいちゃんチラ見したら頭から足の先までずぶ濡れだった!
顔は真っ赤な茹でダコみたいに頭のテッペンから白い湯気が出ていた!
「私達のセミを取らないでくださーイ!」片言の日本語で言われた。
「お前らセミに名前でも書いとんか!これは戦争やぞ!第三次世界対戦や!」
僕は本気で戦争が起こると信じてお父ちゃんとお母ちゃんに話をしたが・・・。
「ふうんそうなん。」と言って余り相手にしてくれなかった。
後日、小学校に登校途中、見た事の有るそばかすの金髪アメリカンが道向こうからやって来るではないか!3人くらい居た。
知らん振りしておこうと、真っ直ぐ前を向いて足早に通り過ぎようとした時、ソバカスの金髪少年が僕を降り向いて「セミを採らないでくださーい△※~○♯×。」
全員セーターを着ていた。「もう秋やから採らんよ。」と言ったが一人で喋っていた。
「グランファーは元気ですか?」バイバイ! と言って行ってしまった。
子供でも英語を話す事にビビッてしまい、この日はソバカスの金髪少年が、夜寝るまで頭から離れなかった。
第2章 「燃える外交・スポーツ交流」
ある夏の日、お父ちゃんと近所のお大師山に登った。
この山は 、兵庫区の清水町にある通称オダイシと言うが、園山の手前の山には、首吊り山と恐ろしげな呼ばれ方をしている山がある。
山肌には松の木が生い茂り昆虫の姿さえ皆無」だった。
首吊り山に一人で登った時、四つんばいに為らないと登れないほどの急斜面に疲れてふと、頭を上げると、もう成人している年端のお兄さんが、腕を組んで立ちはだかり通せんぼをしていた。
大人が通せんぼをするから通ってはいけないと思い方向転換をして登り始めた。
が、又もや通せんぼをして来る! 諦めて降りたが、今思うとお兄さんの容姿はお笑いコンビロッジの片岡さんお様だった。家族に言うと「それはね、おまえが登ったら危ないから止めさせたんだよ?でも何で首吊り山に登ったん?」と、聞かれ僕が独りで山に行っていると打ち明けたから「子供が独りで山登りしたらイカン! お大師山に登ってどんな処に行っているのか親として、知る必要がある。」と、お大師山の道案内をする事になり僕は得意気に案内をした。
お大師山の麓には頂上から水が湧いているので、小さな小川が出来ていた。
そこには沢蟹が居て、大きいのを採ってやろうと、小川を覗いていたら「そんなん採らんぞ! 早うしなさい行くぞ。」と、先を急がされ泣く泣く沢蟹に別れを告げ、立ち上がった。
大人は何で急ぐんだ?
次に予定が有るでなし、いつも大人は早く速くと言って急がされるけど大した実績を上げている訳では無いのに・・・。
子供の頃の心持はこうだったが、興味の無い事は見ず興味の有るがままに動くのが世の大人の常・・・。
もっと子供に興味を
持ってあげたら子供の行方不明・死亡事故も減るのでは無いか?と思う今日この頃・・・。
山肌は保々垂直に切り立ち山肌の地肌が剥き出しになっていた。
大きい岩が穴に嵌まっているように見えるのは、戦時中防空壕があった名残らしい。
その防空壕跡にスレスレに階段がある。
踏み面は、巾が広く僕が3人くらい立てる程の奥行きがある。
5段くらい上ると大人2人で歩けるぐらいの道幅があって何時もは昆虫のハンミョウが先に立ち道案内をしてくれるが、今日は居ない。
頂上への道をお父ちゃんが先に歩いて行く。
僕は4m程度離れて歩いていた。
白いポロシャツの背中を見ながら歩いていると、頂上から数人人が下りて来る。山肌の左を歩いていた。
お父ちゃんは山肌の右を歩いている。
「お父ちゃんぶつかるで?」赤いシャツの人が迫る!
「なんや誰もおらへんぞ?」
僕に振り向いた時!
赤いシャツの人がお父ちゃんの肩をフッ!と抜けた!
その後で3人の人が抜けて行った!
「痛く無いのん?」僕は聞いたが、お父ちゃんは誰もおらへんぞ!の一点張り!
大人は嘘つきやなあ~と、その時思った!
その後は何事も無く無事に頂上に辿り着き、次に裏側の山を下りる事になった!山道と言っても獣道だから生い茂るくぬぎの枝葉を払いのけながら下りた。
そこは水道に為っていて大きな石が土中から顔を出していた。
その石の上に足を乗せ滑らない様に互い違いに足を繰り出す。
「お前は猿みたいやな、お父ちゃんはしんどいわ。」と、息を切らしながらやっとの思いで裏の麓に下りれた!下りてみるとそこは烏原の貯水池だった。
「子の道を左に歩いたら滑走路があるねんで?」何気無く呟いたお父ちゃんは、ちょっと行くか?と言い終わらない内に先に歩きだしていた。
「待ってえ!」小走りになったが、追い付けた。
暫く二人は無言で200mほど歩き、左手に小高い丘のような場所にお父ちゃんは先に行けと言いぼくの尻を押してくれた。
上に上るとそこは360度開けていて、台地のような原っぱだったから「どんな滑走路なん?」と聞くと「旧日本軍が零戦を飛ばす為に耕したんや!でも、神戸空襲が先に起こったから何にも為らんねん!」悔しそうにしていた。
本当に悔しかったに違いない。
ただ昭和6年生まれのお父ちゃんは終戦直前14歳だったから、いや学徒出陣は?徴兵は除外されたのか?良く分からなかった!
しかし、この年でお父ちゃんが出陣しても零戦に乗って大切な命を散らすだけだったから不幸中の幸いだし、お父ちゃんが生きて来れたから僕が存在するんだし。
お父ちゃんの悔しさは不毛の一億全部火の玉だ!神戸空襲で日本が勝ってもアメリカ空母のエンタープライズは宮崎県沖に停泊していて艦載機が湧いてくる藪蚊の如く戦艦大和を沈めただろう。
燃える闘魂が、身体を張ってイラクの人質40数名を救出したのは、物凄い功績だった!スポーツのプロレスを通して外交をやりまくるアントニオ猪木は日本の英雄だと僕は心で泣いて心で合掌していた。
国会議員は手を挙げて採決に加わるだけじゃない!
彼は、そういう考えの人だったから単身でイラクに乗り込んだ!
イラクの暴君ウダイ氏との交渉でアントニオ猪木が人質解放に成功した訳だ!
もう僕は胸がスカッとしてたね・・・。そしてリスペクトした。
命乞いの上手な国会議員が多い中、アントニオ猪木議員は違う!
彼には可能性が有る!
胸中にはワクワクと踊ったものだが、暫く見ない内に車椅子になり、それを見たとき僕は眼を疑った。
日本の英雄が、弱っている?まさかそんな!僕は仕事に忙しくなって内閣の動きしか見ない日々があり、英雄の事を薄れてしまっていた。
その英雄を思い起こさせた報道が、アントニオ猪木議員の訃報だった・・・。
燃える闘魂の外交はワールドワー3を想定して居る様だった。
膝蹴りで戦車をぶっ潰し!戦闘機を拳で叩き落とし!ジャーマンスープレックスで戦艦を二つ折りにし!威圧した。
猪木歩く道は道なき道、アントニオ猪木が開拓した道だ!危ぶむなかれ、危ぶめば道は無し。踏み出せばその一歩が道となりその一歩が道となる。
迷わず行けよ、行けば解るさ。
闘魂をありがとう!アントニオ猪木!(了)。
燃える闘魂アントニオ猪木のワールドワーⅢ しおとれもん @siotoremmon
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