5. 憧憬と献身

5-1 偽善と不可逆

 ウルカが隣の部屋に泊まってから、五日ほどが経っていた。そのあいだもジンは、毎日仕事のあとにウルカの店を訪ねた。ウルカはぎこちないながら、前のように拒絶することはせずにジンを迎えてくれるようになった。ヘテヤの店の監獄を、おみやげに下宿に持って帰ってほしいと渡されたこともあった。それならまた来ればいいと言ったら、そんなにしょっちゅう行くことはできないと頑固に断られたけれど。でも今は、店に入るといつも暖炉には火が灯っているし、空気も悪くない。食器や本なんかも増えたようだった。顔色も少しましになってきたような気がする。

 ジンは今日もピョルダルの店に入り込み、芋のつぶてを食べていた。近頃、ドゥイルとネイレがよく一緒に作るので、ジンの昼ご飯はたいていこれだった。大きさはきれいに揃っている。作るとき、ふたりは並んで黙々と潰した芋を丸めており、我慢比べみたいにも見える。でも何度もやっているので、なんとなく心地いいのだろう。あまりいろいろ聞くとドゥイルがあちこちにたんこぶなど作りかねないので、ジンは黙って見守ることにしていた。チャミンも、たぶんそうだ。

 「なあ公示係さん」

 近くの机から声がかかった。芋に集中していたジンは、はっと顔を上げた。

 「はい?」

 「コダコの王子が婿入りしてくるってほんとなのか?」

 「えっそうなんですか?」

 ジンは目をむいた。初耳だ。

 「公示係さんの仕事は公示だよ」

 別の誰かが言った。

 「国が言わないことは知らないよ」

 そのとおりだった。ジンがやっているのは、国からの正式な発表を伝えるということだけだ。あと、聖殿からのお知らせも伝えているけれど、聖殿にはコダコの王子の婿入りなど関係ない。

 「噂になってるよね」

 「わたしも聞いた」

 好奇心の旺盛な人たちが割り込んでくる。

 「そうなの?」

 「王女さまがコダコの王子と結婚するかもって」

 みんなが一瞬しんとする。お互い顔を見合わせて何やら無言で通じ合っていた。

 「……結局コダコじゃん」

 「確かにコダコじゃん」

 「結局な」

 「コダコじゃん」

 そのあとしばらく、店の中では「結局コダコじゃん」が流行した。きっと今日だけだと思う。

 なくなった王太子には、妹がいたはずだ。その王女が、コダコの王子と結婚するかもしれないらしい。あくまで噂だけれど。ジンは寡黙に作られたつぶてを、黙々と食べた。もしも、サンセクエの王女とコダコの王子が夫婦になったら、つぎの王になるのはどちらなのだろう。結局コダコじゃん、ということになるのだろうか。サンセクエは、力を失いすぎている。

 「ジン」

 声をかけられて、またびくりとしてしまった。いつの間にかそばにピョルダルがいた。ジンは立ち上がって挨拶した。

 「ピョルさん、こんにちは」

 「毎度ご丁寧にどうも」

 ピョルダルは穏やかに言って、ジンの前に器を置いてくれた。

 「ありがとうございます」

 「牛の婚姻だよ」

 ピョルダルは言った。器に入っているのは柔らかな白色をした、とろみのある汁物だ。細かく刻まれた緑色が表面を彩っている。牛乳を使って煮込んだものは全部、牛の婚姻という料理だ。

 「芋と結婚したよ」

 ピョルダルは器をゆびさした。

 「相性は抜群」

 ジンは笑った。まあ座りなよ、と言われて素直に腰を下ろす。

 「昨日、ウルカが来たよ」

 見上げると、ピョルダルはどこか謎めいた笑みを浮かべていた。ジンは、ウルカがピョルダルのことを知っている様子だったことを思い出した。ウルカもピョルダルを、ピョルさんと呼んでいるようだった。

 「ウルカ、前も来てたんですか?」

 ジンは皿を持ち上げながらたずねた。

 「来てたよ。もう二年ぶりぐらいだったけどな、昨日は」

 牛の婚姻をひとくち飲むと、まろやかなぬくもりがゆっくりと喉を滑っていった。

 「おれのこと、なんか言ってましたか?」

 ウルカが何か言ったから、ピョルダルはウルカとジンがつながっていることがわかったのだろう。ピョルダルはうなずいた。

 「なんでまたうちに来る気になったんだって聞いたら、声がでかい変なやつに毒されたって言ってたよ。そいつはジンっていうんじゃないかって聞いたら、そうだって」

 「うわあ」

 ジンは笑い出してしまった。あんまりな言い草だ。でも、それでもよかった。なんでもよかった。ウルカが二年越しに、ここに来るような気になったなら、それでいい。

 いや、やっぱりあまりよくない。さっきの話だと、ピョルダルまでジンを「声がでかい変なやつ」と認識していることになる。ジンはピョルダルに湿った視線を向けた。

 「言い方はひどくなかったよ」

 ピョルダルは素知らぬ顔でそう教えてくれた。

 「照れてるんじゃないか」

 「そうですかね」

 ジンは器を両手で包み込んだ。あたたかい。あたたかくて、やっぱり少し痛い。でも、熱さも痛みも感じられるなら、まだ人間だろうか。結局コダコじゃん、と向こうのほうで盛り上がっているのが遠く聞こえる。

 「ウルカ、二年前はなんでここに来たんですか? それまでは何してたとか」

 ジンはそこまで言って口をつぐんだ。

 「うん、わしもよく知らんな」

 ピョルダルはとぼけたように言った。

 「そうですよね」

 「そうですよ。じゃあまあゆっくりな」

 ピョルダルは杖をついて、足を引きずりながら戻っていった。

 「ピョルさん、こっちも牛の婚姻」

 「ちょっと待ってな」

 「わたし手伝うよ」

 今日もウルカに会いに行く。




***




 ウルカはいつもどおり、以前とは違って、ジンを待っていてくれた。少しかわいそうになるようなかすれた音を出す呼び鈴を鳴らしてから、でかい声で呼ばわると、ウルカはすぐに出てきた。おつかれさま、と床に向かってぼそりと言うのはお決まりだった。今日もぽつぽつと話をして、というよりジンがいろいろと一方的に喋って、帰ってきた。ピョルさんの店に行ったらしいなとは、言わなかった。

 ウルカは、ジンがピョルダルの店に毎日通っていることは知っている。でも、昨日わたしも行ったとかは何も言わなかった。だから、踏み込むならもう少し様子を見てからにしようと思ったのだ。ピョルダルは、ウルカが自分は人間じゃないと言うようになった原因を知っているのかもしれないし、関係があるのかもしれない。だからこそピョルダルの話を出すことには慎重でいたかった。ウルカには、経験してきたことを話して見つめなおして、楽になってほしかった。そういうのがたぶん大事だって、普通は、考えると思うから。

 ジンは自分の部屋で寝台の上に座っていた。ふたつ並んだ角灯の明かりが、床にちらちらと揺れているのを眺めていた。

 ネイレは、今日のウルカの様子はどうだったかと毎日聞いてくる。それが鞄の奪い合いに加えて日課となっていた。そろそろもう一度、連れてこようと思っている。

 戸を柔らかく叩く音がした。ドゥイルが帰ってきたようだ。ジンは角灯をひとつ掴んで戸を開けた。

 「おかえり」

 扉の前に立っていたドゥイルは、静かにうなずいた。

 「今日も芋のつぶて、うまかったよ」

 ジンが言うと、ドゥイルはぎこちなく会釈した。ジンは笑った。

 「ウルカさんは、元気か」

 急にドゥイルが聞いてきた。ジンは思わず目を見張った。でも、うれしいことだと思った。今まで何も言わなかったけれど、ドゥイルもウルカを気にかけてくれていたのだ。

 「元気そうだよ。今日も喋ってきた」

 「そうか」

 ドゥイルは少し頬を緩めた。そして、まっすぐなまなざしを向けてきた。

 「前に言ってたのは、ウルカさんのことか?」

 「……え」

 ジンは間の抜けた声をもらしてしまった。

 「前に、助けてほしいのにそうじゃないふりをする人がいるかもしれない、と言ってた」

 ドゥイルの目は角灯の赤い光を映していた。確かな温度と小さな揺らぎが、瞳の中にあった。ちゃんと生きている人の目だった。

 「うん……? そんなことも言ったかもな……?」

 ジンはしらばくれた。ドゥイルが眉をひそめる。

 「言ったぞ。そうかもしれないと思った」

 覚えていた。確かにジンはドゥイルにそう言った。ネイレが泣いているところに踏み込んでしまったと後悔していたドゥイルに、言った。そういえばあのあとドゥイルは、ネイレによく声をかけるようになっている。

 ジンはドゥイルに角灯を差し出しながら激励した。

 「ネイレさん、たぶん喜んでくれてると思うぞ。がんばれよ」

 「ネイレさんは関係ない」

 ネイレさん。あの人、ではなくて。

 ジンはドゥイルの肩を軽く押した。

 「そう? 最近よく一緒にいるだろ」

 「自己満足だ」

 押してもびくともしなかったドゥイルは言った。

 「受け入れてもらってるだけだ」

 そっか、とジンは返した。

 「でも、ドゥイルならだいじょうぶ」

 ジンはドゥイルの肩を今度は強めに押して、戸を閉めた。

 「ジン」

 ドゥイルが何か言いたそうに呼ぶ。ふざけて聞こえないふりをした。そう、ふざけたのだ。

 

 

 

 寝台に座る。ドゥイルは本当に、いいやつだと思う。ネイレも、ドゥイルのことが嫌いなはずはない。ふたりがうまくいけばいいのにななんて、考えてみる。

 いいやつだ。

 そう。

 ロンデだって、本当にいいやつだった。

 同い年のロンデとは、生まれたときから一緒だった。幼馴染で、きっと親友だったのだと思う。ロンデは五人きょうだいの長男で、しっかりしたみんなのお兄ちゃんだった。もしかしたらロンデは、村でいたずらばかりしていたジンのことを手のかかる弟くらいに思っていたかもしれない。面倒見がよくて、いつも笑顔を絶やさない人だった。

 ロンデやジンが生まれたときから、サンセクエ王国は戦争をしていた。なんなら生まれる二十年以上前から、ずっと戦争状態だった。十歳になるころには、国の力がじりじりと削られていることがわかり始めた。それでも戦争は続いた。

 やがて、敵のデウカンデ帝国に最も近いセポラ特預使領とくよしりょうが、激しい攻撃を受けるようになった。主要都市は落ちたし、そばの農村は帝国軍や傭兵たちの略奪を受けた。帝国軍はサンセクエの人々を恐怖に陥れて厭戦の機運を高めるために、傭兵たちは稼ぐために、村を襲った。そういうものだと、あとからピョルダルが教えてくれた。

 十六になるころ、ジンの生まれた村があるセロック特預使領にも帝国軍が迫ってきていた。いつ、セポラの村々のように襲われて奪われて殺されるかわからない。そばの村の中には、まだ被害を受けておらず強固な城壁を持つ王都ガルパに避難する人たちも現れた。ガルパならきっと安全だし、ガルパが落とされるならもう仕方がないという考えだった。ジンの村でも、王都に逃げる計画が持ち上がっていた。

 そこで、ロンデとジンが先に下見に行くことになった。ほかに頼れる大人はたいてい兵士になっていたから、十六のロンデとジンが村を守るために先頭に立つことになっていた。寒い、寒い冬だったけれど、急を要することなのでふたりですぐに出かけた。

 たどりついた王都はさびれていて、ここに来れば安心だと言えるような場所ではなさそうに見えた。でも、村の五十人余りをどうにか生き延びさせることができるように、おおまかにでもめどを立てようと努力した。そのあいだ、ピョルダルが店の二階にある自分の家に、ロンデとジンを泊めてくれていた。

 そんなある日、ふと耳にした。

 セロック特預使領のディプル村が、所属不明の軍団に襲われ、五十名余りの村人が殺された。周りのほかの村々も、踏み荒らされて人々が殺された……。

 路上でその冗談みたいな噂が聞こえたとき、ジンはそんな馬鹿なことがあるわけないと思った。だいたい所属不明ってなんだよ。しょうもないな。でたらめ言うなよ。

 そんなことを考えていると、ロンデがものすごい剣幕で噂をしていた人たちに掴みかかった。それは本当なのか、どこの誰から聞いたのか、おまえはどこの誰なんだと問い詰めた。いつも明るくて笑顔のロンデが、人の胸倉を鷲掴んでほとんど絶叫している。嘘みたいだった。ジンはただ、呆然とそれを眺めていた。

 その噂は、本当だった。

 ロンデとジンは、普通に過ごした。食べるものは食べたし、しっかり寝たし、笑い合うこともあった。今までと変わらずに、王都で時間を過ごしていた。

 そして、ロンデは死んだ。

 全部がちぎれ飛びそうな嵐の日だった。ロンデは急にいなくなって、嵐が去ったあと、崖の下で見つかった。その姿を、ジンは見ていない。見たのは、棺におさまった厚ぼったい布のかたまりだけだ。

 有り金はたいて、聖殿でランサに簡単な弔いをしてもらった。ピョルダルや、ロンデの世話をしてくれた巡察官たちの助けで、公示係の仕事をもらって下宿を始めた。

 しばらくしてから、ロンデの時計が帰ってきた。海の近くに落ちていたらしい。ロンデのものではないかと、巡察官が届けてくれた。

 ロンデが大切にしていた時計は、自慢なんかしないロンデが唯一得意そうに見せてくれていた時計は、ぼろぼろに傷ついていた。それでも、動いていた。

 一年前から、正確な時刻を示さなくなった。それでも、動いていた。きっと、動き続けるのだ。ずっと、動き続けるのだ。




 ジンも動き続けている。

 動き続けるしかなくて。もう、戻ることはできないから。

 誰がどうなっても、特に何も感じない。どうなったって別にかまわない。死んだ家族や、ロンデのことも、平気で思い出せる。思い出さないこともできる。

 いつの間にか、気がついたら、そうなっていた。

 どうでもいい。

 今までと変わりなく振る舞っていてもそれは惰性のようなもので、気を抜くと全部が遠ざかっていくような感覚にとらわれている。

 そのままずっと遠くにはじき出されて終わりを迎えることになっても、きっと何も感じない。そのほうが、いいかもしれないとすら思う。

 そんなふうなのは、人としておかしいのだ。

 きっと、人間では、なくなった。

 そうは言っても、もう戻らないのだと、わかっている。

 前のように何かを心からおもうことなどもうできない。

 そうしたいとも、思えなくなった。いつ消されても消えてもかまわない。突然正体不明の何かが現れて、ねえあんたを消しましょうかと言ってきたら、あっお願いしまぁす、などとすぐにこたえると思う。

 でも、世界はそれをなかなか許してくれない。

 そういうやつは、気味悪いし恐ろしいしかなしいと感じる人が、きっと多い。

 それだけではなく、ともすれば、こたえることのできない心を寄せてくれる人たちが現れる。救われてと、言ってくれる。

 頼って、すがって、泣いて、吐き出して、そして立ち直って、前を向いて。

 そうやって「救われる」。

 そして今度は、誰かを「救う」。

 それが、正しいから。

 そうしないと。

 そう見せかけでもしないと、人間たちの中で生きていくことはできない。

 だから。

 人間でいなくちゃいけない。

 人間で、いなければならない。

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