祭礼の日

上杉きくの

春の渡翼

 からりころり、と。

 羊鈴カトゥルの音が風に乗る。


 萌え出たばかりの若芽を目指して羊たちが傾斜を登る。ゆらゆらと揺れるその背中を眺めていたガジは、ふと薄茶の瞳を空へと向けた。

 雲一つない空に乾いた風が吹き抜ける。降り注ぐ日差しは少しずつだが暖かさを増し、春の渡翼わたりにふさわしい天気といえた。

 視線を動かした先には、空を持ち上げる迫力でそびえる急峻きゅうしゅんな山々の影がある。真っ白な雪化粧を残した一番高い一画が、シシト国の最高峰カムルランギ山だ。


「ガジ―、何を見てんのー?」

 振り返ったアリィが不思議そうに声を上げた。澄んだ目にカムルランギの姿を映したまま、ガジが同じように声を張って答える。

「今日は渡翼わたりの日だろー。雲もないし、もしかしたら空を飛ぶ天の民が見えるかもって」


 ──渡翼わたりの日。

 それは三か月に一度、カムルランギの上空に穴が開く日だ。空の先には天の国シャラークがあり、そこでは翼を持った天の民が暮らしているという。


 ガジの言葉を聞いたアリィは遠目にも分かるほどに顔を強ばらせた。

「止めてよ、そんなの見えたら怖いじゃない!」

「怖いかなー?」

 眩しい日差しにガジは目を細める。ぴかぴかと日に焼けた顔には抑えきれない好奇心が浮かんでいた。

「天の民は僕たちよりも一つ高いところに生まれてるんだよ。それに、とてもきれいな姿をしてるんだって」

「でも、姿を見るのもっていうじゃない。ずっと前、渡翼わたりの日に天の民を見た人がいて、お祝いの香炉を振って声をかけたら怒って槍を落とされたって。おばあちゃん言ってたよ」


 アリィは少し空を見上げた後で、すぐに耳垂れのついた帽子を深くかぶり直した。

「ねえ早く行こう。空よりも羊を見ようよ、ガジ」

「……分かったよ」

 急かすような声にガジは小さく息を吐いた。


 緑まばらな野に着くと、羊たちは散り散りになって草をみはじめた。

 これでもう、羊番はしばらくすることがない。離れすぎた羊を群れに連れ戻すことくらいだろう。


「よいしょ」

 アリィは手ごろな石に腰かけて水筒を傾け、飴の包みを広げている。同じように水筒を取り出そうとしたガジの耳に、ふと小さな音が届いた。


 ……リィ……ン。


「ん?」

 騒がしく響く羊鈴カトゥルの音とは違う。まるで、雨上がりにきらりと光る水滴のような、透き通った鈴の音色だった。

 ガジは耳を澄ませる。

 リィン、ともう一度、たしかに聴こえた。

 少し先に、大人の背丈も隠せるほどの大岩が見える。近づいたガジが岩の向こうにくるりと回りこむと、そこにいたものを見てと息を止めた。


 春の空を溶かした瞳がガジを見上げていた。


 地面に座りこんでいたのは空色の衣を身につけた、細身な体つきの子どもだった。ガジと同じくらいの年の、たぶん少年だろう。

 肩辺りで揃えられた細い髪は朝日を薄めたような眩しい色をしていて、肌は搾りたての山牛ディーの乳のように白い。その瞳も、髪や肌の色も、ガジの知るどんな人たちとも異なる色だった。

 何よりガジの目を引いたのは、少年の背中にある隠しきれないほどに大きな白い翼だ。


 渡翼わたりの日、白い翼で空をくのは──。

「天の、民……?」

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