フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊

 ウェスアンダーソンにすっかり(うっかり)ハマってこれで三作目。これもほんとうにいい映画だった。好きな映画がどんどん増えていって嬉しい限りだ。


 どんな映画だったか。あるいは、自分にとってどんなところが素晴らしかったのか。一番大事なことをはじめに書くとすれば、この映画が「枠物語」であるということがそれにあたる。このことは非常に重要だ。わざわざこんな強調をするのは観賞後に見た感想の多くが本作を単なる短編集オムニバスとして捉えたものだったからでもある。もちろん本作は短編集であるのだが、しかしただの短編集ではなく枠物語であって(繰り返すがこの点は重要だ)、この説明をとっとしたいのだけど、そのためにはまずこの映画がどのようなストーリーか、その大枠から話し始める必要がある。


 なのでそうする。今作は雑誌「フレンチ・ディスパッチ」、正式名は「フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊」(アメリカの新聞「ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン」の、フランスで製作される別冊「フレンチ・ディスパッチ」、ということになる)の最終号に掲載されている一つのコラムと三つの記事の映像化、そしてその編集風景が交互に進行する形式を取る(便宜的にそれぞれ「記事パート」「編集部パート」と呼ぼうと思う)。なぜ最終号になってしまったのかについては冒頭で説明される。創刊者でもある編集長が亡くなったから、というのがその理由だ。


 冒頭の編集部パートでは概ね、編集長の人となりについて語られる。彼はアメリカからフランスに渡り、父親の伝手で別冊雑誌を創刊、その後数十年にわたって生涯編集長を続けた。記事については自ら的確な直しを入れる一方、自社の記者についてはなんだかんだで甘やかすが、それ以外のスタッフにはかなり厳しい。小さなオフィスには「ここでは泣かないこと」との掲示がある。


 その後、記事パートでは各記者を語り部に、彼ら彼女らが書いた記事の内容が映像化される。以下の四つである。


 ・「自転車レポート」

 →編集部のあるアンニュイ=シュール=ブラゼの街を自転車で巡りながら、街の風景や歴史について語る。映画の舞台設定を示すパート。


 ・「確固たる(コンクリートの)名作」

 →囚人にして稀代の画家である男と、そのモデルを務めた看守の女の(悲)恋、そして彼女をモデルに描かれたある絵画の顛末についての記事。記者は出所後の画家と一夜を過ごしたこともある美術批評家。


 ・「宣言書の改定」

 →のちにチェス革命と呼ばれることになるフランスのある学生運動を描いた記事。そのリーダーでありチェスの名手の男子学生と、彼と対立しつつも惹かれあう女学生との恋を描く。また、この記事を書く女性記者もまた、その男子学生と浅からぬ関係を持つことになる。


 ・「警察署長の食事室」

 →東洋人の身でありながらも、警察署長お抱えの凄腕料理人で警部補でもあるネスカフィエ氏。彼を取材するため署を訪ねた黒人記者は、警察署長の息子が誘拐されるという事件に偶然巻き込まれてしまう。


 各記事パートのおわりには、記者とともにその記事を推敲する編集長の姿が描かれる。そしてラストシーンは、編集長がオフィスで亡くなり編集部員と記者たちが追悼記事を作成し始める様子で締めくくりとなる(そして、ここで書かれた内容が映画の冒頭で語られる内容と重なり、初手に返る形となる)。


 この映画は枠物語である、ということを説明する材料はこれで整った。


 では枠物語とはなにか。いくつかの短い物語を、それより大きい物語で枠を嵌めるように包む形式のことを言う。今作で言えば「記事パート」が「編集部パート」で包まれている。そして、これは必須というわけではないのだが、大枠となる物語と内包される物語とは何らかの形で連動している方が望ましい。要するに、部分と全体が類似した構造やテーマ性を持っている方が望ましい。そして、本作はまさにそういうかたちをしている。その点こそが素晴らしい。


「枠」となる物語は当然、老編集長の追悼記事だ。生まれた国を出て孤独に異国に渡り、自身の作品としての雑誌を立ち上げ、多くの人と関わりながらそれをライフワークとしてやり遂げて死んでいった彼についての。


 そして枠の中に収まる各作品は、この編集長の人生と要素要素で、あるいはイメージで、ときにはアナロジックに、呼応する。「確固たる(コンクリートの)名作」では生まれた土地を離れた芸術家、その彼を愛しながらも自分がかつて産んだ子のもとに戻った刑務官、そして芸術家と一夜かぎりの関係を持った評論家である書き手、「宣言書の改定」では学生運動を指導する二人の学生の新しいことをしようという衝動と、それに近づきながらも自身の職業や年齢によって、一定の距離をとったところから観るしかない孤独な書き手、「警察署長の食事室」では人種差別や同性愛差別にさらされながらも異国で信頼を勝ち取り身を立てていこうとする警察/料理人と書き手、彼ら彼女らとその語りは、どれも編集長の人生と呼応する。たとえば人と出会い別れることの哀切と、たとえば人を指導しつつも客観的であろうとする寂しさと、たとえば故郷を離れながらも想うことと、たとえば信頼できる人々と創造的な仕事に取り組むことと。そのあたたかさと。


 それらがひとつの枠にきちんと収められるからこそ、この映画は単に短編集なのではなく、より複層的な、フラクタルな、バラバラではない作品としてまとまりを見せている。また、、それは「雑誌」というもの自体のありかたとも重なっている。そして、ひとりのひとの人生を語ることが多くのひとを語ることでありうるということを示してもいる。


 先にも書いたが、この老編集長氏はオフィスで亡くなる。そしてスタッフたちがその場で追悼記事をつくりはじめるところでこの映画は終わっていく。一枚の似顔絵がまず描かれる。専属イラストレーターの彼は、編集長からは厳しく当たられることもあった。けれどその顔はよく似ている(実はこの映画で最も感動的なシーンはここかもしれないと思っている)。そして記者たちは口述とタイプライターで、記事の本文をつくりはじめる。。この場面で、すべての孤独と寂しさはあたたかくつつまれる。それらはきれいに並べられて収まっていく。ひとりの人生に、あるいは雑誌に、もしかしたら、棺に。

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