ちょっとした息抜き……のはずが

 翌朝、パンの香ばしい匂いで目を覚ます。ひと月も離れていないはずなのに、この感覚はどこか懐かしかった。朝日を浴びつつグッと体を伸ばしてパン屋の屋根裏から這い出す。


 昨晩はシャム猫と眠くなるまで語り合うという学生みたいな過ごし方が出来て久しぶりに良い気分転換になったな。


 起きたらシャム猫は寝床にいなかった。朝飯の調達に行ったのだろう。パンも毎日貰えるわけではないから、たまに外へ探しに行かなければならない。野良の悲しいさがである。


 開店準備に出て来たアリィを見つけて道路へと飛び降りれば、俺に気づいたアリィは笑顔を咲かせた。


「ヨゾラ、最近ご無沙汰だってね。どこに行ってたの?」


 答えは期待していないだろう質問を口にしながら俺を撫でるアリィ。あー、これこれ。最近はやさぐれてたり、疲れてる人間としか接していなかったから、純粋な癒しが五臓六腑に染み渡る。


 ちなみに首輪は外して屋根裏に置いて来ている。別に深い意味はないのだが、首輪をしたままアリィの前に出るのは気が引けた。なんとなく、悲しい顔をさせてしまうと思ったから。いや、自意識過剰か。


「あら、ヨゾラ。戻って来たのね」


 アリィと戯れているとレノアが顔を出す。以前と変わらず元気そうだ。いや、悩みの種が消えたから前よりも雰囲気が明るくなった気もする。


 開店準備をするためにアリィが離れて行く。その間にレノアは騎士団の駐屯所へ売りに行く分の用意をしているようだった。


 その光景を外から眺めていると、不意に威圧感を覚えて毛が逆立った。反射的に顔を向けると、道の向こうからオルトと――ドレイナ皇帝が歩いてくるのが見えた。


 早朝にも関わらずオルトはフル装備だ。ドレイナも昨日と同じようなドレスと鎧が合わさったような服装を身に纏っている。違うのはドレスの色合いが黒から赤色に変わったくらいだろうか。


 な、なんで国のトップがこんな所に?


 二人は真っすぐにこちらへ向かって来ている。どうしよう、逃げた方がいいだろうか。流石に皇帝との接し方なんて知らないぞ。


「あら、あの猫は」


 もたもたしている間に見つかってしまった。ここで逃げ出すわけにもいかず、ひとまず道の端に寄っておく。


 近づくにつれて鼓動は激しくなっていく。言い知れぬ緊張感が全身を包み込む。


 そんな中で店の扉が開いて、アリィが出てきた。


「行ってきまーす!」


 と、元気に飛び出してきたアリィが二人と邂逅する。


「あ! オルトさん、おはようございます!」


「おはよう、アリィ」


 ペコリ、と頭を下げながら気持ちのいい挨拶をする少女に対してオルトは微笑みを浮かべながら挨拶を返す。


 そうしてアリィは再び顔を上げて、オルトの隣に立つ人物へと注目した。


 いつもであれば即座に挨拶を続けただろう。だが、親しい人物の隣に見知らぬ人間がいる。といういつもと違う状況が、アリィに混乱を招き行動を抑制した。


 それをいち早く悟ったオルトが「このお方は」と紹介しかけたタイミングでドレイナは右手を挙げて制止すると、一歩アリィへ歩み寄り自ら口を開いた。


「お嬢さん、こんな朝早くからどこへ行くのかしら?」


 その声音には威圧感の欠片もなく、人当たりのいいお姉さんのような穏やかさがあった。それでアリィも完全に警戒を解いたのか、従来の人懐こさを取り戻して朗らかに質問に答える。


「これからパンを騎士サマたちの所へ持って行くんです! その後は学校へ」


「そうなの。とても働き者ね、偉いわ」


 誉め言葉を述べながらドレイナはアリィの頭を優しく撫でる。


「えへへ、ありがとうございます!」


「引き止めてごめんなさいね。気を付けて、行ってらっしゃい」


「はい! 行ってきまーす!」


 無邪気な返事を残してアリィは駆け出した。少し走ってから振り返り、一度手を振ってから再び走り出す。そんな彼女を微笑ましそうに見送ってから、俺へと視線を向けた。


「そういえば、この猫は?」


「そいつはここに住み着いてる野良猫ですね。たまに人のパンとか盗ってくるので、気を付けてください」


 おい、余計なこと言うんじゃねぇよ。というか前にパンを盗って逃げたことまだ根に持ってたのかコイツ。


 ドレイナは俺をまじまじと見つめて、興味を失ったかのように視線を逸らした。そうしてそのままパン店へと入って行く。


 あぁ、ビビった。出先で皇帝なんかに会うなんてツイてるのか、ツイていないのか……。


 いや、それよりも店に入って行ったぞ。皇帝陛下が下町のパン屋に何の用だ?


 窓から覗き込んでみれば、レノアが片膝を着いて二人を出迎えていた。


「これは皇帝陛下。ようこそお越しくださいました。娘が何か、失礼を致しましたでしょうか」


 どうやら外でのやり取りを見ていたらしい。アリィが何か失敗して、それの苦情を言いに来たと思ったのだろう。俺がレノアの立場でも同じことを考えたと思う。


「そう警戒しなくても、娘から無礼は受けていないわ」


「では、今日はどのようなご用件で……」


 かなり緊張しているのだろうか、恐る恐る上げたその顔にいつもの笑顔はなく、冷や汗さえ流れていた。


「彼から、良い店があると聞いてね。町を見て回りがてら立ち寄ったの。確かに美味しそうなパン。それにこの形は猫ね、面白いわ。十ほど包んでくれる?」


「は、はい。只今」


 レノアがパンを袋に詰めていると、ドレイナは静かに言った。


「それと、一つ聞きたいことがあるのだけど」


「なんでしょうか」


「以前、この店は化け物に襲われたと聞いたわ。その時のことを詳しく教えてもらえる?」


 化け物、と聞いてドキリとする。ここでもまたあの化け物か。


 問われたレノアは戸惑いながらも、申し訳なさそうに口を開いた。


「詳しく、と言われましても……突然のことだったのでお役に立てそうな情報はなにも……それにあれは、身を守るため仕方なくやったことで、ノーレンスさんへの対応で私情は挟んでおりません」


「えぇ、わかっているわ。大丈夫、あなたを疑っている訳ではないから。ただ、エルフの視点で見て、何か気づいたことはなかった?」


 さらに問われてレノアは逡巡する。そうしておずおずと返答を告げた。


「ノーレンスさんが使っていた魔法、あれは少し変な感じがしました。魔法はそれなりに見てきましたが、あれは今までに感じたことがないほどに歪で、恐ろしい感じでした。行使の仕方も魔法陣ではなく言葉で呼び出していたような気がします」


「言葉で魔法をね……」


「それと、ノーレンスさんが人から化け物へ変異する際、なんの魔力も感じませんでした。まるで内側から、別の何かが飛び出してきたような……」


 そこで新たに客が入ってくる。この時間にしては珍しい、二人組の男だ。


「いらっしゃいませ――」


 反射的にレノアが出迎えの言葉を発する。少しだけ、レノアが眉を顰めたような気がした。


「ありがとう。参考になったわ。オルト、パンのお代と、情報提供のお礼をお願い」


「はい」


 命令を受けてオルトが金を払う。その間にドレイナは受付から離れてパンを見渡した。


「可愛らしいパンと良い匂いに囲まれて、確かにとてもいい場所ね。たまにはこういうのも楽しいわ。本当ならもっとゆっくりしていきたいんだけど……せっかちな客人が来てしまったみたいね」


 刹那、ドレイナから殺気が吹き上がる。痛いほどのプレッシャーが容赦なく周囲にばらまかれた。なんだ、どうしたんだ?


「そこの二人、少しでも動いたら――殺すわ」


 パンを物色していた男たちへ振り向くこともなく、ドレイナが告げる。そう言われて、男たちは懐に手を入れる寸前の体制で固まった。

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