撃退
危ないと判断して、俺は咄嗟に屋根から飛び降りて男に飛び掛かる。
「うわっ! なんだ、こいつ――猫!?」
泡を食って男は叫びながら引き剥がそうとしてくるが、爪を立てて抵抗する。
「え、な、なに?」
騒ぎを耳にして振り返ったアリィは困惑しながら立ち止まっている。
『ニャウッ!(なにやってる、逃げろ!)』
俺は思わず叫んだが、その隙を突かれて引き剥がされてしまった。完全に捕まる前に男の手から逃れて、アリィを背に男と向かい合う。
「ヨ、ヨゾラ!?」
アリィが俺の名前を呼ぶが反応する余裕はない。奇襲に失敗した男は逃げることなく、未だ当初の目的を実行しようとその場に留まっていたのだ。人目もなく、相手は子供と猫一匹。脅威はないという判断なのだろう。
男は舌打ちをしながらもこちらへ迫ろうとしてくる。俺は威嚇の唸り声を上げた。
「チッ、鬱陶しい猫だな!」
容赦のない蹴りが繰り出されるが、余裕を持って躱してカウンター気味に飛び掛かり、体を伝って再び顔に絡みつく。耳や鼻に噛みつき、爪で皮膚を裂きながらアリィが逃げるための時間を稼ぐ。
だが、そんな俺の思惑とは裏腹にアリィは立ち尽くしたままその場を離れようとはしなかった。
どうして逃げようとしない? 俺だって長くは持たないぞ。別に恐怖で足が竦んでいる様子はない。
アリィの視線は男、ではなく俺を追っていて、不安を滲ませていた。彼女が俺を置いて行くことに躊躇しているのだと察する。
そもそもアリィはこの男が自分に害を与えようとしていることに気づいていないのだ。ただ後ろを歩いていた男が、自分と交流のある猫に襲われている。もしくは猫と喧嘩しているくらいの認識なのかもしれない。
もしも男とやり合っているのが全く知らない猫であるなら、アリィは登校を急いだだろう。
彼女の性格を鑑みれば予期出来た事態だ。何も考えずに飛び出したのが仇となってしまった。
自分の失態を心中で嘆いていると、視界の端でキラリと輝く物体を見た。正体を理解する前に背筋を悪寒が駆け抜け、本能的に離脱する。地に足を着けて男に振り返ると、その手にはナイフが握られていた。
「このクソ猫……いい加減にしやがれ!」
怒気を露に、男は俺を見下ろしている。瞬間、前世の記憶が脳裏を過った。
背中に刺さった刃物の痛み、憎悪に染まった森奴の瞳――恐怖が身体を支配し、すぐにでも逃げ出したい衝動に駆られる。だが、アリィを放置して俺だけ逃げるわけにもいかない。
引くに引けない状況の中、男はじりじりと距離を詰めてくる。サバイバルナイフくらいの刃物で刺されれば致命傷は避けられない、猫の身であればなおさらだ。
どうする、どうやって切り抜ける。思考を巡らせる俺の身体に、何かが触れた。その刹那、足が地面を離れて視界が塞がる。
驚く間もなく、俺はアリィに抱き上げられたのだと理解した。流石に相手が普通じゃないことを悟ったのだろう。
アリィの肩越しに男が追いかけて来る姿が確認できる。長い路地、まだ大通りに出られるまで距離がある。周りに助けを求められそうな人の気配もない。子供と大人の走力では道に出る前に追い付かれる。
ここから顔に飛び掛かったとしても返り討ちにされるだろう。このままじゃ、アリィを守れず俺も殺される。せめて数秒でも足止めが出来れば、人目に付く場所まで到達できるのに――。
数秒の逡巡の後、俺はアリィの腕から抜け出し、少女の肩を蹴って進行方向とは逆側に飛んだ。
「ヨゾラ!?」
アリィが俺の名前を呼ぶが振りまかない。男はナイフを構えたが、俺の向かう方向が自身からは逸れていることに気づき、俺からは興味を失う。
俺は路地の壁を蹴って男の背後に着地した。
直後に振り返って駆け出す。アリィが俺の奇行に驚いて振り向いているのが見えた。立ち止まってしまい一気に男との距離が縮まる。
目的の達成を確信したであろう男の足元へ潜り込み、走行中の足へと絡みついた。
完全に油断していた男は突然に入り込んだ俺に躓き、盛大に転倒する。その拍子にナイフが男の手を離れて地面を転がった。
「きゃっ!」
『ニャアッ!(立ち止まるな!)』
倒れ込む男の下敷きにならないよう躱し、アリィを追い越して呼びかける。俺の意図を理解してか、彼女は後ろ髪を引かれる様子を見せながらも俺と共に駆け出した。
そこからは一目散に路地を走り、なんとか無事に人通りの多い場所まで辿り着いた。
「な、なんだったの……? いまの人」
人の多い場所で立ち止まり、息を切らしながら後ろを確認する。男は諦めたのか、追ってくる様子はなかった。
「助けてくれたんだよね。ヨゾラ、ありがとう」
そう言って俺の頭を撫でるアリィ。恐怖で震えている様子もなかったので、俺は彼女の手に軽く擦り寄ってから、男の正体を確かめるべく近場の家を駆け上って、屋根伝いに路地を駆け戻る。
アリィを一人にするのは不安が残るが、人目の多い場所ならこれ以上襲われることもないだろう。
それよりもあの男が個人の犯行なのか、それとも誰かに依頼されてアリィを襲おうとしたのかを確認する必要があった。
個人であればそこまで問題じゃない。もうこの道は使わないようにすれば済む話だ。
だが、組織的な犯行であれば男を放置するのはマズい。仮に男は誰かの指示に従っただけだとしても、黒幕の正体を知らなければ今後の対策も練りにくい。
だから急いで戻る必要があったのだが――俺は目前の人物を目にして立ち止まる。
真っ白な仮面を着けた、借金取りたちと密会していた男がいた。何をするでもなく、男は俺の方を見たまま屋根の上でじっと佇んでいる。
自然と毛が逆立ち、喉から低い唸り声が漏れ出そうになる。最初に見た時とは違う、得体の知れない感じがした。仮面越しに見られている感覚がするのは相変わらずだが。
しばらく睨み合いが続いて、男が首を傾げた。
「誰かの使い魔でもなく、変身魔法で姿を変えているわけでもない。オマエはいったい何者だ? どうしてあの少女を助ける」
男は俺に問いかける。だが答えようもない。言葉を発することなんて出来ないし、そもそもこの世界で俺はただの猫なのだから。
何も応えずにいると、男は呟くように言った。
「始末しておいた方がいいか」
凄まじい殺気を肌身に感じて、俺は脱兎の如く逃げ出した。
ヤバい、ヤバい! あいつは本気だ。人間が真正面から猫にどうこうできるとは思えないが、ここは魔法の存在する異世界だ。俺の常識はあてにならない。
今はとにかく本能に従って男から離れることだけを優先する。
そうして大通りまで戻って来た俺は躊躇なく屋根から飛び降りて人混みの中へと紛れ込んだ。
充分に距離を取ってから振り返ると、屋根の上で男は未だに俺を見据えていた。けれど追いかけて来ることはなく、人目を避けるようにして屋根伝いにどこかへと去っていく。
路地で襲ってきた男の正体を確かめることは出来なかったが、仮面の男がいたということは十中八九あの借金取り共の仲間だろう。
しかしなんなんだあの仮面は。雰囲気が普通の人間じゃないぞ。しかも俺の正体を見抜きかけていた。いや、正体も何も、俺は普通の猫なのだが……対面した時にすぐ逃げなかったのは失敗だったかもしれない。
それに、ついに奴らは強硬手段に出て来た。今回の失敗でさらに手段が手荒になるかもしれない。そろそろ俺からも騎士にアプローチをかけておいた方がいいだろう。
アリィは、学校へ向かったのかさっき別れた場所にはいなかった。大丈夫だとは思うが、一応安全を確認する意味も込めて俺も学校へと向かうことにした。
その後は何事もなく学校へ到着する。一応、仮面の男の存在は気にしていたが、本当に帰ったらしく気配すらない。
魔法があるから油断は出来ないが、ひとまずは安心だろう。アリィも無事に学校へ登校出来ていた。遅刻したかどうかは分からないが。
ひとまずホッと安堵しながらも、俺は今後の対策について思考を巡らせた。
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