異世界で猫になったからのんびり暮らしたい

猫柳渚

プロローグ

とある男の終わり

 夜中の十時を回った頃、俺はご機嫌な足取りで帰路に就いていた。


 脳天まで回ったアルコールが思考と視界を歪ませ、気分を高揚させている。いや、気分が良いのはアルコールのせいだけじゃない。


 大きな仕事を成し遂げた達成感、そしてこれからの人生を想像しての期待感。それらが合わさり無意識に鼻歌まで奏で始めるほど有頂天となっていた。


 きっと今、自分は満面の笑みを浮かべているんだろう。すれ違う人たちに奇異な視線を向けられるのがその証拠。しかし、これが笑わずにいられるかってんだ。


 今日は競合他社や自社のライバルを押し退けプレゼン勝負を勝ち抜いた。その成果により、三十代前半にして出世は約束されたも同然となった。これで晴れて俺も勝ち組の仲間入りだ。


 仕事仲間にも祝福され、いつもは接待や付き合いで嗜む程度にしか飲まない酒を煽られるまましこたま飲んで、この有様である。


 夜風に当たり、高揚が落ち着くと、次にやって来たのはこれまで歩んできた苦労と努力の行程への感慨だった。


 あぁ、ここまで来るのにどれだけ苦労したことか……とても裕福とは呼べない家庭に生まれたが、名門高校、名門大学へ入るため必死になって勉強して、大手と呼ばれる会社に入ってからは仕事や接待、人間関係に至るまで全力で努力した。


 仕事による成功一筋に生きて来たから、これまで女っけの欠片もなく恋人の一人も出来たことはないが……なぁに出世した今、女なんて選り取り見取り、俺から行動を起こさなくても向こうから寄ってくるさ。

 

 今まで頑張った分、これから楽しめばいい。


 なんて俗物的な事を考えながら千鳥足でいつもの帰り道を歩いていれば「にゃーん」と聞き馴染んだ声が耳朶を打った。視線を向ければ道の右側にある塀の上から、一匹の黒猫が俺を見下ろしていた。


「おー、お前ぇ、まさか待っててくれたのかぁ?」


 通じるはずもないと分かりながらも、語り掛けながら俺が近寄ると黒猫は逃げるどころか塀から飛び降りて足元にすり寄って来た。抱き上げて頬擦りしようとすれば、酒の匂いが嫌なのか二つの肉球が俺の顔を押し返そうと抵抗する。


 彼女は俺の唯一とも言える癒しの存在だった。仕事で疲れ果てた帰り道、ほぼ毎回遭遇する黒猫さん。首輪を付けているからどこかの飼い猫なのは間違いないが、名前は分からない。


「お前がどこかの子じゃなかったら、俺がお持ち帰りしちゃうんだけどなぁ」


 そしたら家に帰る楽しみが増えるだろう。いや、帰っても疲れ果てて飯を食って寝るだけであまり構えないかもしれないな。もしかしたらこういう行きずり程度の関係性が、俺たちにはちょうどいいのかもしれない。


 スーツに毛が付くことも厭わず撫で回していると、黒猫は急に暴れ出して俺の腕から逃れる。


 いつもならもう少し構ってくれるんだが、そんなに酒の匂いが嫌なのか。そんなことを考えていると、背中に衝撃が走った。


「……あ?」


 誰かに押されるような感覚に振り返ろうとするが、背中が何かで固定されたように動かなかった。加えて体内に異物が入ってくる感触。戸惑っている間に、背中全体に熱さが広がっていき、少し遅れてそれが痛みだと理解する。


 背中から異物が引き抜かれ、俺の身体は空気が抜けるように力が入らなくなって両膝を着いた。そこでようやく振り返ることが出来て、俺の背後に立つ存在の正体を知った。


 それは、今日の仕事でプレゼン勝負をした男だった。


 会社の同僚だが、俺とは違うグループで発表をしていたはずだ。名前は……森奴。手には包丁が握られていて、憎悪の籠った瞳で俺を見下ろしていた。


 背中の痛みと突然の出来事に困惑していると、森奴が何かを呟いているのに気が付いた。


「お前さえ、お前さえいなければ……今頃は、俺が……!」


 そして振り上げられる包丁。俺は殺意から逃れるために立ち上がろうとするが足に力が入らず前のめりに倒れ込む。なんとか仰向けになって、森奴と向かい合った。


 話し合い、そうだ話し合いで解決を。どうにかして彼の殺意を鎮めなければ。


「お、おい……! 待てよ。そんなことしたって、どうにもならないだろ?」


 お前は負けたんだから。という言葉を飲み込んで、必死にやっていることの愚かしさを説く。これまで数多の顧客を口説いてきた経験を生かして、目前の殺意に立ち向かう。ついでに後ずさって距離を取るのも忘れない。


「お、俺を殺したところであなたにメリットは何もないはずだ。あなたの人生に、損害しか出ませんよ? 今ならまだ間に合います。俺も、あなたに襲われたって口外しませんから。だから、今すぐ包丁を捨てて、救急車を」


「うるさい!」


 森奴の怒号が俺の言葉を遮った。その眼は、更に憎悪に染まっていく。


「お前、お前はいつもそうやって、て、適当なことばかり言いやがって! ちょっと話が上手いからって、チヤホヤされやがって、もううんざりなんだよ!」


 声を荒げながら森奴は一歩、二歩と俺に近づいてくる。そこで思い出す。こいつは激情家で、一度癇癪を起すとまるで話が通じない男だったことを。


 あ、ダメだ。


 そう悟った刹那、包丁が振り下ろされた。避けることもままならず、刃は首元に突き刺さる。激痛が全身を駆け巡り、叫び声を上げようとするが、声は外に出ることなく肺の中へと戻って行く。


 そうだ。最初から叫べばよかったんだと思い当たるが、もう遅かった。全身から力が抜けて視界が傾き、頭が地面に落ちる。


「は、はは、ざまあ見やがれ……!」


 森奴は引き攣った笑みを残し、駆け出した。


 その背中に向けて、俺は「おい、包丁忘れてるぞ。詰めが甘いから、お前はプレゼンでも選ばれないんだよ」と言ってやろうと思ったが、口から出たのは自分の血液だけだった。


 というか俺、ここで死ぬのか? 嘘だろ? 今まで必死に頑張って来たのに、俺の人生これからだってのに、こんな訳の分からない逆恨みで、全部無駄になって終わるのか?


 嫌だ、死にたくない。と願っても、じわりと近づく死を感じる。助けを呼ぼうにも、近くに人の気配はなく、声も出なければもう指一本動かせない。


 そんな中で、視界を黒い影が覆う。日向のような猫の匂いが鼻孔を通過した。


「にゃー?」


 さっきまで一緒にいた黒猫の声。きっと俺の状況が分かっていないのだろう。その声は「どうしたの?」と問いかけるような、呑気な声だった。


 まったく、猫は気楽でいいよな。諦観の中で思考は巡る。


 人間なんて、どんなに努力したって報われない時は報われない。成果が認められなかったり、横取りされたり……ようやく認められたとしてもこうやって理不尽に奪われる。


 そりゃ、清廉潔白な仕事ぶりだったわけじゃないが、少なくとも刺されるような事はやってない。仕事に関しては、正々堂々と、やってきたつもりだ。


 それなのにこの仕打ち……これならいっそ、最初から頑張らなければよかった。勉強も、人づきあいも適当にして遊んで暮らしてればよかった。


 つぅ、と瞳から涙が零れ、頬を伝うのを感じる。


 俺も猫に生まれていれば、こんな思いをしなくて済んだのかもしれない。もしも生まれ変われるなら、今度は人間なんかじゃなく、俺も猫に――。


 ざらりと、猫が頬を舐める舌を感じながら、俺の意識は途絶えた。

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