部屋

第1話

 男は迷っていた。この小さな部屋から出るか否か。外に出ればそこは童話のような世界かもしれない。新たな出会い、未知との遭遇、世界の壮大さを想像し心を躍らせた。しかし、外がなんの救いのない地獄であれば…。そう扉の前で考え今日も一喜一憂するのだった。もう部屋からでなくなってどれほど経つのだろう、彼自身もわかっていない。いや、わかりたくもないのだろう。時間を確認する手段は山ほどあるのにそれを使わないのがその証拠だ。

 初めはほんの気まぐれだった。

  「今日は眠たいし、大学サボって二度寝しよう。」

 その程度の心構えだった。なにか嫌なことがあったわけではない、しいて言うのなら緩慢に繰り返される日常が嫌だった。

 部屋から出なくなって彼は自由になった。好きに起き、好きに眠り、好きに食べ、好きに生きた。幸い食料や金銭の備蓄も多く、本を読むことしか趣味のない彼にとっては十分であったが傍から見れば安上がりで質素な生活だった。彼はほとんどの時間を読書に費やし、本の世界に飲み込まれていった。

 本の世界は良い。そこには退屈な日常はなく、非現実的な体験が私を満たしてくれた。彼がここまで本に熱中するのには彼の平坦な人生が関係している。平凡な人生は良く聞くだろうが彼の場合は平坦だ。家族関係は悪くない、友人もいる。学業においても特別良いわけではないが悪くもない。学校での評価も悪いものではなかった。しかし、恋人や親友はなく人と深い関係が築けず部活や趣味など打ち込めるものが無かった。朝起きて学校に行き授業を受け帰り眠る、学校では会話するが校外で遊ぶことはなかった。失敗も挫折にも縁がなかったが成功や達成感とも無縁だった。ただなにもない日常に不満を感じわけもなく焦っていた。彼女を持つ友人、路上ライブをするバンドマン、部活に打ち込むクラスメイト、ゲーム廃人すら羨ましかった。羨めば羨むほど逃避のためにほんの世界にのめりこんでいった。この生活にも変化が現れた。いつものように本を読み終え少し休憩をしようと椅子を立った時だった。

 ふいに扉が目に入った。

  「今、外の世界はどうなっているだろう。」

 昔は見られたはずの世界は今では思い出せず、物語が自身の世界となっていることに気が付いた。

  「今の自分は昔とは違う、今なら物語の主人公のように外でも生きられるので             はないか。」

 得も言われぬ自信が無自覚に彼の心に根を張っていた。


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