隣国での生活 -4


 小さな王子妃へと向けた微笑はそのままに、ティモンは再度眉尻を下げた。

 心苦しそうにも見えるその眼差しに、シェリエンはなんだか申し訳ない気持ちになって。何か言わなければと口を開き、しかし何も言えずに口を閉じる。


 ティモンは椅子に座ったまま姿勢を正し、改めて彼女に向き合った。


「シェリエン様。あなたがこの国に嫁がれることで、長年の戦は止み、多くの人が救われました。あなたは大役を果たされたのです」


「…………」


「申し訳ないことに、故郷にお帰しするというのは難しいですが……。あなたにはできる限り、ここで幸せに過ごしてほしいのです。そのためにできることがあれば、何でもいたします」



 じわりと、シェリエンの胸に温かいものが広がった。


 村での生活が戻ってこないことは、寂しい。どんなに泣いて少しばかり気が晴れようと、それはなくなることのない事実。


 それでも、自分のことをこんなにも気にかけてくれる人がいるのだと。

 先ほどとは別の感情で、彼女は再び何も言えなくなった。



 その僅かな表情の変化を察してか、ティモンは三日月のように瞳を細めてにこっと彼女に笑いかけた。


 ――やっぱりこの人は、村のおじさんに似ているな……。

 臣から王子妃へというより、身内の子どもへ向けるようになごやかな彼の笑みを受けて。そんなことを考え始めていたシェリエンが、次に聞いた言葉は予想外のものだった。



「……と、リオレティウス殿下が仰っています。もちろん今の話は、私の願いでもありますが」


 ――え? リオレティウス殿下?

 シェリエンは目を丸くした。



 今朝、いつものように早く寝室を出る夫を見送った。


 シェリエンは朝は大抵、彼がベッドを出る物音で目覚める。

 何も言わないのもどうかと思い、おはようございますと遠慮がちに声をかけてみている。彼はそれに気づくと、ん、とか、おはようとか、短く答えて部屋を出て行く。


 いつもどおりの朝を、今日も繰り返した。彼に特段変わった様子はなかった。

 シェリエンが寝起きの頭でぼんやり昨晩の出来事を思い出し、何かお礼の言葉をと思い付いたときには、ちょうど彼が出てゆく扉が閉まるところだった。



 瞳をぱちぱちさせていると、ティモンが続けて言う。


「殿下はシェリエン様のこと、心配しておいでですよ」



 そのとき――彼女がティモンの話を自身の中で整理し終わるより先に――カチャッと小気味よい音を立てて部屋の扉が開いた。


 姿を現したのはリオレティウスだ。大分見慣れた夜着姿ではなく、初めて会ったときと同じ濃い色の騎士服を纏っている。

 ご予定はと尋ねるティモンに対し、少し遅れると伝えたから大丈夫だろう、などと返事をする。



「それで、話は終わったか?」


 はい、とティモンが答えるのを聞くと、彼はシェリエンのほうへ向き直った。


「ということだ。既に大きな役を果たしたのだから、あとは好きに生きればいい。帰してやることはかなわないが、他にできることは何でもしよう」


 空のような二つの瞳が、真っ直ぐにシェリエンを捉える。


「お前はここで、自分のことだけ……自分の幸せだけ考えるんだ。遠慮はするな。責任は俺が持つ」


 静かな声で、しかしはっきりと彼は言い切った。



 ――ああ、また。


 初めて顔を合わせたときと同じ、青色に吸い込まれそうな感覚。

 時が止まったみたいに、シェリエンは身動きができなくなる。


 なんとも身に余るような言葉をかけてもらったような、頭の端でそんな気がして――けれどもそんなことはどうでもいいと思うくらい、彼の瞳は澄んで、美しく光っていた。



 暫しの沈黙が過ぎ。

 やっとのことで、シェリエンは彼に向かってこくんと頷いた。


 その頷きを認めると、リオレティウスは満足そうに口元をちょっとだけ上げた。

 そしてまたティモンに後は任せたとかなんとか言って、彼はさっさと部屋を出ていった。

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