隣国での生活 -2


 その晩もリオレティウスは寝室にやってきたが、初日と同様何もしなかった。今夜はもしかしたらと身構えていたシェリエンのうれいは、取り越し苦労に終わった。


 でも次こそは何か起こるかもしれない――不安を抱え続け、彼の姿を見る度に身を縮こませていたシェリエン。

 こうした幼妻の気も知らず、寝室を訪れる彼は毎夜すぐに寝入ってしまう。そして朝は早くに出て行く。そんな日が数日続いた。



 日中は、持て余すほどの自由時間。

 ティモンが差し入れてくれた簡単な本を眺めたり、部屋でぼうっと目的もなく過ごしたり。食事は侍女が控える中、三食一人で取った。


 決して悪い生活ではない。

 一応姫とはいえ、少し前まで村娘であったただの少女、ましてや元敵国の者だ。牢のような部屋に閉じ込められるだとか、ひどい扱いを受ける可能性もあった。

 だが部屋は清潔で何不自由なく、ティモンをはじめ侍女や王宮の人たちは丁寧に接してくれる。




 恵まれたことと理解しつつ。

 けれどもシェリエンの心には、少しずつ寂しさが広がっていた。


 これまでは、目まぐるしく変わる生活についていくのがやっとだった。

 しかし時間ができたことで嫌でも考えてしまう。故郷の村での生活は、もう自分にはないのだと。


 以前の生活は、住まいも食事もこことは比べ物にならないくらい質素だった。それでも日々を助け合って過ごす村の人たちとの時間は、彼女にとってかけがえのないものだ。


 どこの家も余裕がないくせに、困った者があればこぞって助けにいった。

 シェリエンと母が揃って風邪を引いたときには、近所のおばさんが薬膳スープを煮込んでくれた。


 ――あれは苦かったな……。



 ある夜、眠れずそんな考えにふけっていたシェリエンは、不意に自分の目から涙が落ちたことに気がついた。


 あ……。


 気づいたときにはもう遅く、涙はぽろぽろ溢れた。ひっく、と、しゃくり上げる音が寝室に響く。


 隣では、いつものようにリオレティウスが眠っている。

 起こしてしまうかもしれない。頭ではそう思うのに、もはや自らの意志で止めることはかなわず、彼女は肩を震わせて泣き続けた。



「ん……」


 背後にごろんと寝返りを打つ気配を感じ、シェリエンは、背を向け合って眠っていた夫のことを思う。――まずい、起こしてしまった?


「……泣いてんのか」

 低く、囁くような彼の声が聞こえる。


「も、申し訳ありませ……」


 謝らねばと、シェリエンは慌てて起き上がろうとしたのだが。おもむろにリオレティウスの手が伸びてきて、これを制止する。

 そして先ほどと同じく彼に背を向ける形で寝かされたかと思えば、ぽん、ぽんと、優しく背中を叩かれた。



 え……? 


 この状況が、シェリエンにはすぐに理解できなくて。されるがままになっていると、彼はまた低い声で囁いた。


「あー……、まあ気にするな。泣きたいなら泣けばいい」

「…………」



 もしかして、慰めてくれているのだろうか――。そう思い至ればなんだか不思議な気持ちがした。


 毎晩寝室に来ながらも、何もせず、大した会話もせず、自分に興味もなさそうな結婚相手。

 その彼が、泣くシェリエンの背をなだめるように叩いている。



 少女がしゃくり上げる声は次第に小さくなり、薄暗い部屋には沈黙が満ちた。

 自らの鼓動とは異なる速さの振動が、意外にも自然と馴染んで彼女の身体を伝う。



 しばらくそうしているうち、ぽんと背に伝わる感覚が徐々に弱まり。遂にはその手が止まった。


 シェリエンが上半身をひねってそっと後ろを覗き見ると、リオレティウスは再びすやと寝息を立てていた。

 まさか他人の背を叩く振動によって、自分自身が寝てしまったのだろうか。


 すっきり整った目元や鼻筋に、寝乱れた黒髪がかかって。彼は他人が隣にいることなど忘れたように熟睡している。



 ――変な人……。


 彼の身体が寝息によってゆるやかに上下する数呼吸分、シェリエンはぽけっとその姿を見つめた。

 それから、思わずくすりと小さな笑みをこぼす。



 体勢を戻して布団に潜り込むと、彼女はゆっくり目を閉じた。涙はいつの間にか止まっている。


 そうして先ほど背に受けた温かな感覚を思い出しながら、シェリエンは安らかな眠りに落ちていった。

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