二国の婚姻 -3


 入浴時にはまたも侍女たちがやってきて、シェリエンは彼女らの手で隅々すみずみまで洗い上げられた。髪や肌に塗られた香油は摘みたての花を思わす良い香りだが、それはかえって不安を煽るものでしかない。


 入浴が終わると夜着ナイトウェアの上にガウンを着せられ、寝室で待つよう言われる。夜着はさらりとした手触りの、おそらく上質な生地でできたもの。薄手ではあるが、肌を露出させるような作りではないのが救いだった。



 寝室に足を踏み入れてすぐ、奥に鎮座する大きなベッドが目に入った。その存在感に気圧けおされ、思わず視線をそらしながら、シェリエンは部屋の中央に置かれたソファーにそっと腰掛ける。


 室内はぼやっと薄暗い。部屋の数か所に置かれたランプには、炎に代わり、だいだい色に光る石が込められている。昼間に太陽の光を吸収して輝く、耀光石ようこうせきというものだ。

 こういった照明器具を使えるのは上流階級の人間だけ。シェリエンはこれを、ガイレアでの花嫁修行中に初めて目にした。


 落ち着かない気を紛らわせるため、彼女はその石の光をじっと見つめた。

 ゆらゆら揺らめいて、まるで本物の炎を閉じ込めたような。太陽の光というよりは、石が燃えるかのごとく不思議な輝きを湛えている。




 一心に気持ちを整えようとするうち――どのくらいの時間が経っただろうか。

 扉が開く音が聞こえて、シェリエンは慌てて立ち上がった。


 部屋に入ってきたのはリオレティウスだ。同じく、夜着にガウンという出で立ち。きちんと揃えられた前合わせの部分から、厚い胸板がのぞいている。

 昼間の彼は、重そうな生地でできた暗青色の騎士服を纏っていた。そのかっちりした服装に比べてはるかに薄い夜着は、しなやかに鍛えられた彼の体軀たいくをより鮮明に浮き立たせる。


 目の前までやってきた彼の気配に、シェリエンはぴくりと肩を震わせた。

 相手との身長差は頭二つ分くらい。同年代の中でもシェリエンは体が小さいほうだ。自らがとてもちっぽけに思え、心細さが込み上げる。



「ふむ……」


 昼間見たのと同じ、澄んだ青色の瞳がシェリエンを見下ろしていた。


「そんなにおびえなくても……、まあ、無理な話か」


 リオレティウスは、ふい、とシェリエンを通り越してベッドへ向かった。彼はなんでもない様子で布団に手をかけ、バサッと音を立ててめくると、


「ん」

 短く言って、振り返った。



 ――ベッドに入れということ?


 意図を察したシェリエンは、おずおずと足を踏み出す。なんとか辿り着いたベッドは腰近くまで高さがあり、よじ登るようにして上がった。


 リオレティウスはガウンを脱いで、そばにあった椅子に置いている。次にその手が差し出されて、たぶん、脱げということだろう。

 震える手でガウンを脱いで渡すと、彼はこれも同じように椅子に置いた。


 彼が上がってくる体の重みで、ベッドは音を立ててきしんだ。再び小さく身を震わせたシェリエンは、恐怖を堪えるように、ぎゅっと手を握り締める。



 このときシェリエンにできたのは、俯いて、ただ相手の次の挙動を待つことだけ。

 実際には、ほんの僅かな間だったのかもしれない。しかし、永遠のようにも感じられる瞬間。


 しばらくそうしているうち――


 不意に、頭上でぷっと小さく吹き出す声が聞こえた。



 ――……え?


 状況が飲み込めないまま、シェリエンは咄嗟に顔を上げる。

 と、そこには、片眉をひそめ、困ったような笑みを浮かべるリオレティウスがいた。


「悪い。今から食い殺される小動物にしか見えなくて……」


 ふわりと柔らかな感触が身体を覆ったことに、シェリエンは遅れて気がつく。肩先に掛かっているのは、清潔なリネンに包まれた羽毛の布団。

 横になるのを促すようにこれを掛けてくれたのは、他でもない目の前の青年だ。


「疲れただろう、ゆっくり休め。俺には小動物をいたぶる趣味はない」


 そう言って彼は、シェリエンと逆の方向を向いてごろんと横になった。彼が枕元のスイッチを押すと、耀光石は微かな明かりだけを残し、部屋はほとんど暗くなる。



 何もしない……?


 シェリエンはぽかんと、眼前に横たわる大きな背中を見つめた。

 間もなく、すやすやと規則正しい寝息が聞こえてくる。


 そうっと身体を起こし、膝立ちでめいっぱい背伸びするように様子を窺えば。そこにはなんとも安らかな、自分の夫となるはずの王子の寝顔。



 ……とりあえず、今夜はこれ以上何も起こらないらしい。

 心の中で安堵の溜息を吐き、シェリエンは静かに身を横たえた。


 しかし、胸の鼓動はまだ大きく脈打っている。今日はいろいろありすぎた。というよりこの半年あまり、想像の及ばないことばかりで。


 普通の村娘として暮らしてきたのに、姫と称され花嫁修行をし、元敵国へと嫁ぐことになった。隣には、昼間会ったばかりの王子が眠っている。



 こんな状況で眠れるのだろうか。シェリエンは思ったが、半年以上もの間に慣れない環境で溜まった疲れは相当なもの。

 その疲れはずっしりと重たい眠気に変換され、程なくして彼女を夢の世界へといざなった――。

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