居酒屋『うみ』
五月連休いわゆるゴールデンウイークが明けてから、レストラン『雪月花』は、大掃除のため、三日間お休みした。
ゴールデンウィーク中は、フル稼働していたので、この三日間はスタッフにとっては、その代わりの連休にしてもらうつもりだ。
大掃除は、専門業者へお願いすることにした。
雪月花のオーナーである北条悠は、掃除の立ち合いをするために、本来なら休みはないのだが、一番仲の良いスタッフの前田が交代を申し出てくれた。
前田は、悠と高校からの同級生で、今は、雪月花のバーテンダーを担当している。
正月、夫婦で地元に帰った時、神社で悠の父親と会った。
悠は、実家に帰らなかったので、この機会に帰ったらどうかと勧められたのだ。
「正月帰ってないんだろう? 親父さん心配してたからな。ちょうど良い機会だな」
心配というのは、大袈裟のようだが、近況を知りたがっている様子だったと前田が言っていた。
前田の好意を有難く受け取り、一泊二日で実家へ帰ることにした。
悠の地元は、今の生活拠点からは、電車で二時間程度の海が見える街で、二十歳まで住んでいた。
実家は、居酒屋を営んでいて、夜だけでなく、昼もランチ営業をしている。
店の近くで働く工場勤務の人たちの腹の足しになっていて、夜は、会社帰りの人たちの憩いの場所になっている。
アットホームな店を作りたかったのだと、酒を飲んでは、楽しそうに父と母が話しているのをよく聞いていた。
その通り、二人で切り盛りする居酒屋『うみ』は、地域で皆んなに愛されていて、いつも賑やかな声が聞こえる。
詳しいことは知らないが、父と母は、いわゆる駆け落ちみたいな形で、この街に越してきて結婚したらしい。
――海が見える街に住みたかったのよ。で、お父さんが、ここに住むことを決めてくれたのよね。
母の語り口から昔話を大袈裟にしているように思っていたのだが、実際、祖父母の話は出たことがない。
だから、駆け落ちは本当なのかもしれないな。とは、少し感じていたが、そんなことを気にすることもないくらい、いつも明るく父と母は仲が良い。
今日は、店が休みなので、夕飯を家で食べるつもりで、午後二時過ぎに店の隣に構える家へ足を踏み入れた。
「ただいま」
玄関を開けて声をかけると、妹の麗が顔を出してきた。
「おかえり」
「なんだ、お前も帰ってきたのか」
就職して独り立ちした二十四歳は、すっぴんで長い前髪をちょこんと結び、学生時代のジャージに身を包んでいる。
妹の背から母親も顔を出してきた。
台所から流れる音楽にノリノリで「おかえり」と言われた。
母が最近ハマっているのは、テレビのオーディション番組で勝ち上がったダンスグループがデビューするというもので、流れている音楽もそのデビュー曲だ。
熱しやすく冷めやすい母の趣味は、韓流ドラマやらスポーツ観戦と多岐に及んでいるので、実家に帰るたび、いつも何か違うものが見られて面白い。
七歳下の弟が生活している元自分の部屋へ荷物を置く。
自分の部屋だった時と変わらない机とベッドの配置だが、置かれている本はまるで違う。
漫画一色だった本棚は、参考書や、図鑑、標本のようなものまで置いてある。
極め付けは、亀を飼育している。
弟が通う大学の研究室で飼っているニホンイシガメを自宅に持ち帰り、研究レポートを書いているらしい。
海の生物が好きで、奨学金制度を利用して、希望の大学に進んだ。
そして研究に毎日明け暮れている。
帰りも遅いし、大学に泊まってくることなんか年中あるらしいが……今日は、早く帰ってくると連絡があった。
「よ、亀次郎、元気か?」
名前は、違うみたいだが、なんとなく勝手に付けて水槽に近づいて声をかける。
首を出して挨拶してくれるところが、可愛らしい。
またな。と声をかけて部屋から出た。
リビングに行くと、妹と母が煎餅を食べながら、録画したオーディション番組を見ていた。
「この子、このリョウくんが、受け答えがハキハキしていて、笑顔が良いいのよ。やっぱり1番人気よね」
母が話しかけているが、妹は、スマホを弄りながら適当に相槌を打っていた。
「父さんは?」
悠が、声をかけると、母が時計を見遣り、「そろそろ会合から帰ってくると思う」と言った。
定期的にある商店街の会合で、外に出ているらしい。
夕飯の準備しなきゃと言いながら台所へ向かう母に手伝いを申し出た。
「新じゃがあるから、お願い」
それだけ言って、母は、台所の場所を空けてくれた。
悠が作る料理については、特に何も指示はしない。昔から好きなように作らせてくれる。
新じゃがをどう調理するか冷蔵庫の中身を見ながら考える。
浮かぶのは、蒼の美味しそうに食べる顔だ。
蒼は、サッパリしたものが好きだから、塩サバとジャガイモのマリネにしようか。
鶏肉も好きだから、鶏肉で肉じゃがもいいな。
つまみになるようにバターで絡めるだけのシンプルなものも用意しよう。
新じゃがを手に取りふと気づく。
――あ、実家だった。
徳永蒼とクリスマスに晴れて恋人になった。
離れたくなくて、この正月は実家には帰らなかった。
今日は、蒼と一緒に住むことを報告しにきたのだ。
しかしそれは、同棲ではなく、シャアハウスしているということで話す。
蒼から、そういうことにしようとお願いされたのだ……。
俺が、付き合っていることを親に話すから一緒に実家へ行こうと話した時に蒼から言われた。
「引っ越す。誰かと住む。っていうだけでも内容としては充分なのに、それが同性と付き合ってるっていうことまで言うのは、ハードル高いと思うよ……今回は、悠だけ行ってきて」
冷静に考えてみたら、蒼の言う通りで、少し焦ってしまった自分が情けなかった。
さっき考えたメニューは、そのまま作ることにした。
帰ったら蒼に作ってあげようと思いながら……。
夕方、弟と父が帰ってきた。
夕飯は、母の推しのダンスグループの話題だったが、悠の手料理を食べるや否や、「腕を上げたわね」と調味料や火入れの時間とか料理の話に変わる。
父も母も料理が好きだ。息子に負けじと、自分の作ったものを自慢するところが母らしい。
小さい頃は、店も忙しく、夜終わるのが遅かったので、家族全員で食卓を囲むという習慣はなかった。
夜は、居酒屋にバイトの人が来てくれていたので、母が家に戻ってきて、母と子供達だけで食べるということが多かった。店が休みの日だけ、父を入れた家族全員で食卓を囲むことができたが、それもあまり多くなかったような気がする。
バイトの人が休みだと、店の片隅で夕飯を食べていたこともあった。
子供ながらに大人の空間に足を踏み入れたことが嬉しくて、ドキドキしたのを覚えている。
こうやって、家族全員で食べることが増えたのは、俺が家を出てからだったかな……。
ぼんやり昔のことを考えていた時に父親から声をかけられた。
「で? 引越しは、済んだのか?」
家族が、一斉に父を見た後、悠に向く。
「ああ。済んだ」
「シェアハウス? 間借りさせてもらってるんだろ? その相手さんは迷惑していないのか?」
前に住んでいたところが、契約更新時期になっていたのもあって、引っ越すことに決めていた。
蒼と一緒に住むつもりでいたのだけど、図々しいかなと思い留まり、同じ街に住もうと思うと話したら、蒼からの思いもよらぬ言葉があった。
「引っ越すって、俺んちにこんだけ荷物置いといて、しかも三階はもう悠の部屋だよね? ここに住んでしまえばいいと思うが……」
大胆なことを言ったと思って、頬を赤く染めた蒼が、たまらなく可愛かった。
「悠にい、にやにやして気持ち悪い」
麗からの厳しい一言に、咳払いをする。
引っ越すことと、部屋を間借りさせてもらうことは、今日、実家に行くという連絡をしたときに何気なく母には話しておいた。それが父に伝わっていたのだろう。
「徳永さんは、そこで店をやっていて、いろいろお世話になってて……まあ、よく会ってたからさ……」
悠が話し終えないうちに、父が店という言葉に反応した。
「なんだ、店やってるのか? 飲食か?」
「いや、ネイルサロン」
今度は、ネイルサロンという言葉に麗が反応した。
「はぁ? なに? なんでネイルサロンと知り合うのよ」
昨年の秋に、爪が割れて施術してもらったことがきっかけだった。
本当は、その年の夏に蒼を見かけてからストーカーのように連日、店の前をランニングと称して通っていたが、流石にこれは伏せておいた。
「徳永さんて、男の人だよね?」
母が尋ねる。
一瞬、自分の心に緊張が走ったが、普通に頷いた。
「男性でネイリストさんて珍しいね。私見たことないや。でも悠にいは、女の人苦手だもんね。男の人の方が好きでしょ? 施術してくれて良かったじゃん」
麗の突拍子もない発言に悠は、目を丸くした。
「……っ、苦手? えっ、好き?」
何を驚いてんだと言わんばかりに、片手にビール缶を持ち、グイっと飲み干して、麗は言った。
「だって、昔から前田君とばかり遊んでたじゃん。夢ちゃんとは、たまに話すことあったっけ? でも、いつも前田君と一緒にいたよね。夢ちゃんと前田君が結婚してからも、二人とも店のスタッフとして雇うし、どんだけ好きなのよって感じ」
前田は高校の同級生で、悠の料理の話を一緒に楽しんでくれた気の合う一番の親友だ。
夢は、近くに住んでいて、よく両親と一緒に店へ来ていたので、小さい頃から知っている。
歳は4つ離れているので、学生生活とは無縁だったが、夢も料理やレストラン経営の話をできる唯一の友達だ。
――悠と前田夫婦のくだりは「素敵なオーナー」を読んでください(作者より)
今日、悠が実家に帰るということも前田の言葉がなければ実現していなかった。
そして、蒼との関係も知っている。
しかし、そんな風に思われていたのか……。
なんて返したらいいかわからず、もやもやした気持ちを落ち着かせようと、悠もビールに手を伸ばす。それを母が察知して手渡すついでに、とんでもないことを言い出した。
「でも、悠ちゃんはモテたわよ。年中、女の子に告白されてたし、付き合ってたじゃない? でも、あんまり長続きしないのよね。せっかく見た目はいいのに。――つまらない男なのかしら。って我が息子ながら哀れに思ったこともあるわよ」
「……」
それを聞いた麗が、腹を抱えて笑っている。
「なにそれ、悠にいが可哀そうだよ」
つられて、弟の蘭丸まで笑っている。それを見て、母がムキになって話しを続けてきた。
「だって、蘭ちゃんは、結構長く付き合っている彼女いるみたいだけど、悠は、とっかえひっかえだったじゃない?」
「言い方……」
「本当に気が合う子って、中々見つからないのかなって話よ」
そんな母の言葉をよそに、麗は、蘭丸の彼女の話が気になるようで、弟に突っかかっている。
悠は、話しを戻した。
「徳永さんは、純太と夢とも仲良いよ。店に来てくれるからさ、常連さんになってるよ」
何げなく発したその言葉に、父が口の端を上げて、小さくつぶやいた。
「常連さんがいるようなら、たいしたもんだ。しっかり掴まえておけよ」
父はそういう意味で言ったわけではないのだろうが、――掴まえておけ。という言葉がじりじりと焦がれていくように頭から離れなかった。
翌朝八時、居酒屋『うみ』を開けるので、朝から父は店に行ってしまった。散歩がてら掃除とか、商店街に挨拶周りをしている。どうやらこれが日課らしい。
母は、朝食を用意してくれていた。
昨日は遅くまで、麗と蘭丸の話を聞いていたので、寝るのが遅くなった。
二人ともまだ起きてこない。
麗は、商社勤務で、会社の寮に住んでいる。なんの不便もないが、郊外のため遊び場がないと嘆いてた。
蘭丸は、研究室にいる仲間がさぼろうとするので気に入らないとか、彼女が自分よりも良い成績をとっているとか、そんなことを愚痴っていた。
いずれにせよ、二人とも、元気そうだ。
「おはよう。手伝うよ」
台所で母の隣に立つ。
味噌汁の匂いが胃袋を刺激して、急にお腹が減ってきた。
「一緒に住むってことは、家事とか分担でしょ? そういうところルールは守っていないと、甘えてばかりじゃ駄目よ」
急に母からそんなことを言われて、ご飯をよそおうと持っていた茶碗を落としそうになった。
生活時間帯が違うから、蒼に洗濯や掃除をお願いすることはよくある。
何か見透かされているような気がして、落ち着かなかった。
そうこうしているうちに、麗と蘭丸が起きてきた。
朝食を食べ終え、そろそろ店の仕込みに出る母から、新しい住まいの住所はこれでいいのよね? と冷蔵庫に張り付いた伝票を指さした。
実家へ来る前に、母の日の花を贈っておいた、その伝票に新しい住所を書いておいたのだ。
うん。と頷いた様子を麗が見て、自分のスマホで写真を撮っていた。
「いつかネイルやりに行くかも」
そう言ってから、さあ、もう一寝入りするかなと伸びをして、部屋に戻っていた。
今日は有給休暇をとっているらしい。
蘭丸は、午後から大学に行くと言って、その場でごろごろしながらテレビをみている。
悠は、店の手伝いをしてから帰ることにした。
久しぶりに、『うみ』の厨房で、仕込みの手伝いをする。
学生時代は、包丁すら握らせてくれなかったが、自分が飲食の仕事をするようになってから、調理を手伝わせてもらえるようになった。
ランチのメインメニューは、五品の中から一品、サイドメニュー六品から三品選べる。
ご飯、味噌汁がついて、定食八百円。
この辺りには、他の飲食店がいくつかあるが、この料金と料理は評判が良い。
「いらっしゃいませ」
元気な母の声が響く。
見たことのある、父と同じくらいの年齢の男の人が入ってきて、目が合う。しばらく見つめられた後、「おー息子か!」と声を掛けてきた。
近くで見て、思い出した。夜、良く呑みに来ていたお客さんだ。たしか……。
「原田さん。お久しぶりです。あ、いらっしゃいませ」
年輪が刻まれた微笑む顔に、時間の流れを感じた。それでも、その笑顔は一瞬にして子供の頃に戻ってしまう効力があった。
原田は、目の前のカウンター席に座って言った。
「悠坊、なんだ、帰ってきたのか? ここで働くんか?」
勢いよく問われた調子は、昔と変わらずで、思わず、笑ってしまった。
「いいえ。母の日だったので、顔みせに来ただけですよ」
そうか。そうか。と何回か頷きながら「元気そうだな」と目を細めて見られる。
なんだか、とても照れくさい。
祖父母が居ないから、親戚も居ない。昔馴染みのお客さんが、親戚の代わりになっているようなところがあって、温かい気持ちにさせてくれる。
原田の背中から、母が口を挟む。
「悠は、都内でレストラン構えてるから、今度、行ってあげてよ」
すかさず、父親がぶっきらぼうに話してきた。
「今日の生姜焼き定食は、悠が作ってるから、それにしとけよ。原さんに、都会は似合わねぇよ」
なんだよ。そりゃ。と文句を言いながらも、父の言う通りに原田はする。
「悠の作るもんは、旨いから……俺の次にな」
そう、ぼそりと呟いた、父の顔を思わず見返してしまった。その様子をみて、原田も母も笑っている。
人前で、褒めてもらえたことが嬉しくて、胸が熱くなった。
昼営業を終えて、レストラン『雪月花』に着いたのは、夕方の六時になっていた。
掃除は、今日の三時には終わったと、前田から連絡をもらっていた。
店の外と中を確認する。
『雪月花』をオープンして、二年が経った。父と母は、あそこで二十七年店を続けている。
自分も、長く続けられるようにしたい。
実家を出るときに、父から言われた言葉を思い出した。
「忙しいだろうから、無理するな。ゆっくり、丁寧に続けていくことだ。感謝を忘れずにな。今度は、その友達と食べに帰ってこい」
――友達……おそらく蒼のことだろう。
妹や母の発言から、自分という人間がこんな風に見えていたことを初めて知った。
行く前は、いつ蒼を紹介しようか焦っていたのに、今はゆっくりと時間をかけて……なんとなくそう思える帰省になった。
店を出ると、蒼が外で待っていた。
あまりにも驚いて、声が出なかった。
悠を見止めて、照れながら言う。
「あ、悠……お、おかえり。えっと、迎えに来たよ」
近寄り、この愛おしい恋人を抱きしめた。
「ただいま」
蒼の髪や頬に口付ける。
「悠、ここ外……」
胸の中でもごもご言いながらも抵抗せずに受け入れる。
日中は汗ばむほどの暑さだが、日が落ちた今は、過ごしやすい風が吹いている。
ゆらゆら揺れる蒼の柔らかい髪の毛に顔を埋めて、家族と同じように大事にしたい人がいることに幸せを感じていた。
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