240 後始末の準備


「………………」


 カルナリアは、何が起きたのか、何を見たのか、理解が及ばなかった。

 思考そのものが完全に止まっていた。


 レンカを抱きすくめしがみつき唇を重ねて治癒魔法を流しこみつつ、目だけをそちらに向けた視界の中で。


 巨蛇の、首が、胴体と離れて。


 治ることはなく。

 切れたままで。


 ズン、と落ちて。

 重たく転がって。

 鮮やかな青いものを撒き散らしながら、まだ残っていた小屋のひとつを押し潰した。


 胴体の方は――。


 砦の外まで延々と伸びる巨体が、それまでのような制御された意志を一切感じさせない、無秩序なくねりを幾度か示して、すさまじい地響きが連続し、城壁や砦内の建築物がさらにいくつも破壊され外の方からも岩石が転がり落ちていくような激しい音が響いた。


 それでもその動きは徐々に収まっていった………………が。


 突然、無数の体毛が、立ち上がった。


 発射して騎士を貫いたように、何十本、何百本、それ以上に、一斉に、放たれた。


 誰に当たることもなく、ただ四方八方に放たれただけだったが――カルナリアの近くに落ちてきた一本が、落ちたところから、くねり始めて、動いて……。


 それ自体が明らかに生きていて、自分より大きく強いものから逃れようと、ひものような体をくねらせた。


 直感的にわかった。

 これは、グンダルフォルムの、子供だ。


 大陸の、巨大山脈ごとに一匹ずつ存在するという究極の魔獣は、こうやって子孫を残すのだ。


 この細く短い、人間でも踏みつぶせそうなそれが、他のものに食われることなく、生き延びて、食って、食い続けることができれば……どれほどかかるのかはわからないが、いずれはあの巨蛇になるのだろう。


 ――最強の存在が、子孫を残した。

 つまりそれは。


 新しい世代に命をつなぐ必要ができたから。


 すなわち。



「勝っ…………た…………!?」


 カルナリアは声にした。



 その意味が、発声した後から、押し寄せてきた。


 勝った?


 斬った?


 退治した?


 グンダルフォルムを?


 あの災厄を?


彫刻神インクラトスの指輪、発動」


 フィンの声がして、黒く美しい死神が、足首に赤い光を宿して巨蛇に急接近し、手で触れた。


 首と、長々とした胴体の両方に、順番に。


 地面に大量にあふれた青いもの――すでにあふれた分はともかく、その後からさらに洪水のように流れ出てくるはずのものが、止まった。

 液体のはずなのに、凍結したかのように。


「まあ、こんなところか」


 けだるげな声……黒い美神が、身をひるがえして。


 近づいてきて。


 それぞれ相手とつながったままの二組およびグレンの前に立った。


 みな、彼女を見上げた。

 いや――グレンが前のめりに倒れた。

 失神していた。


 ファラとセルイも、ほとんど意識が飛んでいる様子だった。


 美神は、黒地に金色の模様がびっしり描かれた鞘に収めた剣を、紐で肩に吊り、体に沿わせている。


 あのぼろ布の円錐形の中ではこのようにしていたのだと、カルナリアには一目瞭然の姿で。

 あの鞘は実はこういう色合いだったのだと示して。


「ちゅぱっ」


 それまでずっとくっつけていて、治癒魔法も流しこみ続けていた唇を、レンカから離した。


 レンカがになっているようだが、それどころではない。


『夜の姫』が、唇を拭う自分を見下ろし。


 かがんで。


 あの妖艶すぎる美貌が目の前に来た。


「あ…………!」


 カルナリアの心臓が限界寸前まで高鳴る。


 そこには、『夜の瞳』があった。

 あの時のあの目、あの瞳だった。


 ラーバイと同じことが起きる。

 吸いこまれる。夜の闇の中へ。

 まだ日光は差しこんでいるのに、カルナリアは夜に包みこまれる。意識も、心も、魂まで夜のものとなる。いやではない。それどころか、甘美すぎて、自分から何もかも捧げてしまいそう。


 ――だが、あの時と同じ、信じがたい美貌の主は。


「依頼通りに、やったぞ。格好よくやれたと思うが……どうだった?」


 まばたきして自分から夜の呪縛を解くと、カルナリアの知る通りの、ただしではない、誇らしげな、明るい声で言ってきた。


 それはフィンの声そのもので。


 夜の瞳を宿す超絶の美貌が、どう思われただろうとこちらの反応を気にしている、落ちつかないゆらぎを示して。


 やはりこの存在はフィン・シャンドレンなのだと――自称ではなく本当に絶世の美女であり、本当に剣士だった人物は、冗談のつもりだった自分の依頼をその通りに完璧にこなして、最強の魔獣をやっつけたのだと、理解した。




 ――理解はできたが、受け入れられるかはまったく別の話であって。




「…………きゅう」


 そのまま、カルナリアも目を回し、気絶してしまった。

 これまたあの時とまったく同じに。








 ふわふわした感じのまま目が覚めた。


「起きたか」


「おはようございます、ご主人さま……」


 朝か、と思いつつ口にしてから、意識が明瞭になった。


「!」


 無数の衝撃がよみがえり、記憶も浮かんで――。


 とにかく自分の状態を確認。


 怪我、恐らくなし。体の危険な痛みなし。

 服……なし。下半身は着ている。しかし上半身は何もなし。何か布をかけられている。ぼろ布だ。自分の衣服はすぐ脇にまとめてあるので致命的なことにはなっていないはず。

 喉――いや、もう、確認しなくてもいいことになったはずだ……!


 自分の頭が、やわらかく弾力あるものに乗せられている。

 女性のふともも。

 仰向け。

 麗しい手が自分の額に乗せられ――その先、見上げた上に、豊かな盛り上がりと、さらにその向こうに、ぼろ布に覆われていない、信じがたいほど美しい顔が……!


「………………」


 ああ、まだ夢の中にいる。

 カルナリアは、緊迫感から、とろけた心地に戻っていった。


 あの『夜の姫』に膝枕され、撫でさすられているなんて。

 夢でしかありえない。


 こんなに美しいひとに、こんなに優しくされている。

 しあわせ。下からの眺めもすばらしい。


「無事でよかった。またこうできて、嬉しいぞ」


 しかし、かけられたそれは――まぎれもないフィン・シャンドレンの声で。


「で、どうだった? 一度くらい働けと言われたからな。をやるのはものすごくめんどくさいんだが……お前に、いいところを見せるために、がんばったぞ」


「………………」


 夢から、急速浮上。


 めんどくさい、というその一言が決め手となった。


 その一言のせいで、これは夢ではなく、どうしようもなく現実そのものだと、わかってしまった。


 そして跳ね上がり――ぼろ布から裸の肩を丸出しにして、いけない部分も見せてしまったがどうでもよく、それよりも重要な目の前の相手を確認する!


 …………夢じゃない。


 本当に、そこにいる。


 地べたに両膝を並べて、動きやすい、豊かな胸の形もよくわかる衣服を身につけて、その首から上には、何度も妖しい夢で見てしまったあの顔、あの美貌あの妖艶きわまりない超危険人物と同じものがくっついていて!


 その、謎の、超絶美女、声はフィンである人物が、この世のものではない剣を振るって、この世のものとも思えない凶悪きわまりない巨大魔獣を、一刀両断!?


「うわ、わ、わ、わあああっ!?」


 ここまでの全てが脳髄に押し寄せて、カルナリアは情報の洪水に飲みこまれてぐるぐる回ってめちゃくちゃになる。


「落ちつけ」


 腕を取られた。


 引っ張られ――包みこまれた。

 裸のままの体を。


 優しい腕に包まれた。

 甘い体に押しつけられた。

 美しい黒髪に撫でられた。


 それ以上に美しい顔かたち、闇の光彩を帯びている麗貌が、頬がくっつくほどのところに!


「よし、よし。大丈夫か?」


 抱きすくめてくれる、あの腕が、手が、自分の裸の背中にあてがわれ、撫でさすってくる!


「はひっ、ひっ、らっ、らいじょうぶっ、れしゅっ!」


 世界がぐるぐる。体温上昇。血液沸騰。

 前にもしてもらったことがあるのだが、与えられる感覚が、湧き起こる感情が、まったく別物だった。


「こら。見栄を張るな。全然大丈夫には見えないぞ」


 片方、ほっぺたを引っ張られた。


「痛たたたたたたたたたたた…………!」


 それでようやく理性が戻ってきた。


 相手の顔を、何とか視界に入れることができるようになる。


 その目は、気絶する寸前に見た、あの『夜の瞳』――ではなく。


 その前に見た、深い色をしてはいるがあれほど危険ではないものだった。


 見て、耐えることができるなら――とにかく、見る。

 きわめて美しいその素顔を。


「………………」


 ――これが、ご主人さまの、顔。


 あんなものすごいものを斬った、女剣士の。

 剣聖と呼ばれている人物の。

 これまで自分を何度も守ってくれた、添い寝してくれた、今もこうして抱きかかえてくれている、いちばん大事なひとの……!


 ……夜の姫とは違う意味で、見ているだけで鼓動が強まり、頭がクラクラしてくる。体が危険な状態になってゆく。


「……そんなに驚くことないだろう」


「そっ、そう言われましてもっ!」


「ふうむ……まあ、怪我はしていないし、体も動くようだから、いいか」


「…………!」


 よくないですっ! と怒号をぶつけたかったが、体が言うことをきいてくれなかった。


「それに、もうお前は私のものではなく、自分自身、新しい国の王なのだから、しっかりしろ」


「…………」


 それについての色々――レイマールにぶつけた怒りと覚悟からの宣言、『先王』の最期、そしてフィンとのやりとりなどがよみがえってきた。


 動揺が落ちついて、冷静さが戻ってくる。


 自分からぼろ布を引っ張り上げ、首から下にきちんと巻いた。


 あらためて周囲を確認する。


 自分の隣に、レンカが寝かされている。

 折れ曲がっていた手足は――元に戻っていた。

 赤ん坊のように安らかな顔になっている。湖畔の村で、フィンに「ほぐされた」あの時と同じ無邪気な、本来のよく整った可愛らしい顔つき。


 その向こうに、寄り添い合うかたちで横たわるセルイとファラ。

 どちらも怪我はなさそうで、セルイは仰向け、腕を伸ばしてファラの枕として、ファラはそれに頭を乗せ体は横向きにして、大きなものをセルイに密着させている。


 さらにその向こうにグレン。仰向けに横たえられている。見た感じでは傷も何もない。


 色々あったがとにかく、自分たちはみな、生き残れたようだ。


 西陽は、先ほどまでに比べて傾いてはいるが、まだ空の色が変わるほどではない。

 気を失っていたのはそう長い時間ではないようだ。


 空から地に目を移すと、即座に視界に入るのは青い色と――巨大な、恐ろしく、おぞましすぎる、グンダルフォルム!


 つい先ほどまでの大暴れを思い出し硬直するが。


 あの、通りすぎた跡だけでも恐ろしかった、存在するだけでき散らす戦慄はどこからも感じられず。


 そこにあるのは、青い血を流し、首と胴体とが離ればなれになっている、巨大な蛇の――死骸にすぎなかった……。


「ふぅ、ふぅ……」


 いやな汗を浮かべつつ見回すと、それに押し潰され、あるいは吹っ飛んできた瓦礫や岩などで崩れた塔や建物の下から、人間が這い出してきている。

 案内人たち…………だけでなく、レイマール騎士団の兵士もいる。


 みなそれぞれ、傷ついている様子……!


「あのっ!」


 カルナリアが気にすることを、もちろんフィンが気づいていないことはあり得ない。


「私は、斬ることはできるが、治せない。薬もこの人数ではとても足りない。いま何かができるのはお前しかいない。やれそうか」


 美女に冷静に言われて、自分の体内を意識した。


 恐ろしいものに吸いこまれないために、必死でレンカに魔力を注いで自分をつなぎとめたので、枯渇寸前だ。


「難しい……です……」


 これでは、沢山出てしまった怪我人、今も苦しみ、死にかけている人たちを治せない……城門に激突したゴーチェだって……。


「そうか。魔力の回復薬も、もうない……仕方ない、あれをやるか」


 フィンが、膝を進めてきた。


 美しすぎる顔の接近にドキッとするが、今のカルナリアはそれに飲まれるだけではなく、フィンがその手にあの剣をしっかり握っていることを見て取っていた。


 何がなんだかわからなかったがとにかくまずいもの、とだけはわかるあの鞘には、自分が失神している間に巻き直したのだろう、これまで通り、粗布がしっかり巻きつけられている。

 もうまったく異様なものを感じない、その半ばほどのところをフィンは握っているのだが――とてつもなくいやな予感がした。


「説明っ!」


 前例、いやから、カルナリアは反射的に叫んだ。


 この人物は――フィン・シャンドレンである以上、これほどの美女だとわかったからといって、やり口のひどさや説明不足の悪癖が変わるわけではなく、油断してはいけないのだ!


「先に、説明、お願いします! 何をなさるおつもりですか!?」


「お前の魔力を回復させたいのだが」


「もうお薬はないんですよね。ご主人さまは魔導師でもない。ではどうなさるおつもりですか?」


「ご主人さまではないと――とにかく、できるだけ早くお前の魔力を回復させる必要がある」


「それはわたくしも承知しています。おうかがいしているのは、そのために、何をなさるおつもりなのかという、内容です!」


「……秘密は、守れるか?」


「内容と、わたくしをどこまで守っていただけるか次第です」


「ううむ……まあ、知られてもそれほど問題ではないか」


 神秘の美女は、神秘の剣を、カルナリアの目の前に持ってきた。


 ぞわっとなる。

 ザグレス。

 あの巨蛇をも一撃でほふってしまう、本人が言っていた通り本当に「斬れないものはない」神の剣!


 その恐るべき剣の、鞘を包む粗布は、秘めたものを封じるための遮蔽しゃへい布であり――。

 つかもまた、正体を知った上でよくよく見てみれば、単に使いこまれた地味なものというだけではなく、恐らく特別な獣の革を、極上の魔糸で縫って加工した、普通ではない材質のものだった。

 魔導師が握ると何かがわかるだろう。つまり今の自分でも、握らせてもらえば何かがわかるはずだが……決してわかってはいけないものに触れてしまいそうな、おぞましい予感しかしなかった。


「そ、そういえば、前に、それが、死の魔法を吸収したと……その力を、私に!?」


 自分が使えるようになったのは治癒魔法。死の魔法は真逆ではないのか。


「魔力は魔力だ。どう使うかであって、魔力自体に違いはない。ファラだって、死滅魔法と治癒魔法、両方を使っていただろう」

「それはそうですけど……」

「だが、これの力は本来、魔力とは違ったもので、そのままでは相手を害するだけでしかないからな……これに認められている使い手である私を通した上で、お前に注ぐ」


「注ぐ…………!」


 再び、ぞわっと、総毛立った。

 まだ上半身は裸のままで、そのすべてにものすごい鳥肌が立つ。


 恐怖はもちろんだが、それ以外の、奇妙な予感もした。


「そ、それは、どのようにして……!?」


「ふむ。体と体を接触させるのだが――より体内に近い方がいい。

 つまり、体のどこかの『穴』に、こちらから……要するに」


 とてつもない美貌が、ずいっと、迫ってきた。


「くちびると、くちびるが、一番いいのだが…………どうする?」





【後書き】

敵はいなくなった。だが今度は「事実」が襲いかかってくる。とてつもない美貌と共に。

そして素顔を披露しても、フィン・シャンドレンの言うこともやることもこれまでの怪人ぶりと何も変わらない。翻弄されるカルナリアの理性はいつまでもつのか。次回、第241話「つながるふたり」。

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