123 雨
野営地は、沢のはじまり、すなわち山の上の方にあった。
そこからさらに登ってゆき、少しして、峠を越えた。
「うわあ…………」
感動ではない声をカルナリアは漏らした。
ここまで越えてきたのと同じような山が、さらに延々と続いていたからだ。
山並の美しさも、丸一日経てば慣れてきてしまう。
白銀の峰は、最初の時より少し大きくなってはいた。
……丸一日移動して、あれしか大きくならないのかということにもげんなりする。
前に、フィンと並んで『流星』で飛翔した時、このままバルカニアまで一気に、と夢想した。
甘かった。
唯一開いている地峡、馬車で通過できる
ほとんど支障がなくても五日かかる距離の間に、無数に山々が立ち並び、恐ろしい魔獣も無数に棲息しているこの秘密の旅路が、たやすいものであるはずはなかった。
そもそも『流星』は、飛び先の状況がわからなければ、ひき肉量産器だ。
飛んだ先にどのような地形があるかまったくわからない状態では、いくらあの超高速移動の魔法具であっても、慎重にひと飛び、ひと飛びしてゆくしかない。
一日で越えられるものでもないために、途中のどこかで野営しなければならず、すなわちどこに安全な場所があるか見つけなければならない。
さらに、魔獣がいる。
魔力に寄ってくるという獣たち――鳥の魔獣もいるという、彼らにとって『流星』はすばらしい獲物だろう。
様々なことを知っている案内人たちに頼って慎重に進まない限り、どうすることもできないのが、このグライルなのだった。
道を下ってゆき…………また登りになった。
「止まれ!」
偵察組の合図で、ゾルカンが指示を出した。
「しゃがめ! 静かに!」
カルナリアは亜馬の傍らにしゃがみこむ。
レンカも同じようにした。手がマントの中に入っている。剣を抜き放つ準備。
「…………」
木々の向こうを透かし見る。
何がいるのか。何が来るのか。緊張で息が詰まる。
そのまま、少しして。
「……動いてよし! 行くぞ!」
「何だったのですか?」
「わからん」
意外な返答。
「だが、危険だと伝えてきた。姿を見た時にはもうおしまいってやつは何種類もいる。だから、いそうだと思っただけで警報を出すのは正しいし、こっちもそれを疑うことはしねえ」
ゾルカンは、カルナリアが引いているのではない、別な
「わからねえ時は、そいつだけ先に行かせることもある」
「あ、荷物を載せていない子は、そういう……」
残酷だが、多くが生き残るために必要なのだろう。
「子ってなんだよ」とレンカ。
「可愛くありません?」
つぶらな目、ぴこぴこ動く短い耳、丸っこい体、のんびり揺れる尻尾。とにかくひたすらカッポカッポ歩き続ける頑丈な体。
「……わかるけど、名前つけたりするなよ。そいつを囮にしてお前が逃げなきゃならん時が来るかもしれない。そういう時、迷いなく見捨てないと、生き延びられない。情を移すな」
「おう、さすがにわかってるな」
ゾルカンもまったく否定しなかった。
今日はこの亜馬の名前を考えて過ごそうと思っていたカルナリアは、冷水を浴びせられた気分になった。
さらに木々や岩の合間を縫って登り続ける。
徐々にカルナリアも足に鈍い痛みをおぼえ、つらくなってきた。
亜馬にまたがることを少し考えてしまう。
背後の客たちも、疲労の色が濃くなってきた。
案内人たちやレンカはさすがに平気そう。
時折弓を放って、何か獲物を獲っている者もいた。
「よし、ここで休憩する。水場はねえから、勝手な真似するんじゃねえぞ」
傾斜しているが、木が少なく、草が沢山生えている場所。
亜馬たちがすぐ草を食み始める。
どうやら人間よりも、彼らのための休憩であるようだった。
案内人たちは草を刈り、まとめて、空だった亜馬に積み始めた。
この後のエサにするのだろう。
もちろんカルナリアは、すぐレンカと共に草むらに身をひそめて、モンリークたちに絡まれないようにする。
「この辺にいたはずなんだが……」
案の定、男が数人現れ、自分たちを探し始めた。
貴族の従者たち。
見つけることができずに離れていった。
じっと伏せていたカルナリアは、顔をあげてレンカに笑いかけた。
「かくれんぼみたいですね」
「こういうところで相手を襲って殺すのはよくやった」
ふたりの世界は違いすぎた。
「よーし、そろそろ行くぞー!」
ゾルカンが指示を出し、休んでいた者たちも動き出す。
「……お
豹獣人のギャオル、犬獣人のバウワウとガンダも、そろってやってきた。
「雨、降りそう」
「降る」
「むう…………来やがるか」
ゾルカンはうなって空を見上げた。
左側、鋭く突き出す峰々の向こう側から、黒々とした雲が近づきつつあった。
その予報通り、移動を再開してほどなくして、頭上にその黒い雲がかかってきて、降り出した。
冷たく、強い。
視界は閉ざされ、周囲は灰色に埋め尽くされ、耳はザアアアアという音だけになり、足元は滑るようになる。
カルナリアのフードは、あの
しかし隊列はみな押し黙り、ひたすら杖をつき足を動かすだけの、重苦しいものとなる。
「昼の休憩場所は雨をしのげる。そこまで我慢しろ!」
ゾルカンが客たちを鼓舞した。
雨音に包まれながら、濡れた黒い岩肌や土を踏んで、ひたすら進む。
亜馬たちも、心なしか悲しげにしているように感じられた。
「……ちっ」
ゾルカンが舌打ちした。
進む先、茂みだらけの間を抜けて登って行く道が、雨水が流れてきて、ちょっとした川のようになってしまっていた。
行くしかないようで、案内人たちもそれぞれ杖をついたり木に縄を結んで登りやすいようにしながら、泥水の流れに踏みこんでゆく。
「こういう時の、心得とか、コツとか、ありませんか?」
足首まで泥水に覆われながら黙々と足を動かすレンカに、やや息を切らせながらカルナリアは訊ねた。
ガルディス配下の特殊部隊の者だろうレンカは、雨の中の行動の仕方も教えられているはず。
「……お前は、動き方は大体できている。あとは、考えないことだ。手が冷たい、冷える、寒い、つらいなんかの、自分のこと。周りが見えない、いつまで降る、あとどれくらいみたいな、まわりのこと。そういうのは、いっさい、考えるな。考えると疲れが早く来て、弱るだけだ。頭を止めて、ひたすら進め。
「ありがとうございます!」
レンカがちゃんと答えてくれたことが嬉しかった。
体に温かいものが流れてきた気がした。
「……変なやつ」
「うふふっ」
「ほめてないぞ」
「いえ、そう言ってもらえて嬉しいので」
「わけわからん」
言われた次の瞬間、カルナリアの左脚が滑った。
(あっ!)
バランスが崩れ、反射的に踏みとどまろうとしたせいで、さらに危うくなってしまい…………!
「!」
何かに支えられた。
「気をつけろ」
雨に打たれるぼろ布がそこにあった。
腕が出ていた。
あの剣を地面に突いて、杖代わりにして、自身とカルナリアを支えてくれていた。
「ありがとうございます!」
カルナリアは瞬時に歓喜に包まれ、しがみつきたくなったが――。
「行け」
「ひっ!?」
突然、肺腑が冷たくなった。
殺気。
フィンから。
もちろん自分を狙ったわけではないだろうが――。
カルナリアは急いでフィンから離れ、数歩進んだ。
レンカが立ちつくしていた。
こっちを向いて、恍惚として。
雨の中で目立たないが、その股間が濡れ始めていた。
「レンカさん、しっかり!」
呼びかけると、ハッとはしたがよろめいて、泥水の中に倒れこみそうになる。
今度はカルナリアがその体を支えた。
自分より背の低い相手というのは本当に久しぶり。
そして、なぜか殺気を放ったフィンは――。
「先に行く。気にせず進め」
殺気に反応した亜馬たちが動揺し、案内人たちがなだめる中、カルナリアに言うなり飛ぶように雨の斜面を駆け上がっていってしまった。
雨で見えない先の方から、豹獣人ギャオルの悲鳴が聞こえてきた。
「…………何が…………いったい……」
「今のは、危なかったんだ。あのひとが」
答えは、レンカが教えてくれた。
気を取り直したのか、自分でしっかり立てるようになっている。
「居場所が完全にわかり、身動きもできなくなった今の一瞬、攻撃すれば、殺せたかもしれなかったから…………前のオレなら、やれてた」
カルナリアは戦慄した。
フィンは、戦っているのか。
――恐らく、あのグレンという凄腕。
場合によってはファラも援護しつつ。
自分が感じ取れないところで。
「降参って言ってたはずではありませんか!?」
「一応は、信じる。でも信じ切って油断するのは、馬鹿だ。殺されてからでは文句も言えない。だからそういうことのないように、常に気をつけている。
それはお互い様だ。こっちだって、降参したのにやられるかもしれないんだ。だからライズ様は全然お前に近づかないだろう? どれだけ怖がり、警戒してるか、お前にはわからないだろうな。
ワタシたちはそういう世界に生きてる。すぐ他人を信じる、脳天気なお前とは違うんだ」
「………………」
何一つ言えないまま、カルナリアは重たい足を動かした。
それから少しして。
「ぐあっ!」
カルナリアが足を滑らせた、ほぼ同じところで、苦鳴があがった。
貴族班。
モンリークの、三人いる従者のひとりが、泥水の中に倒れこみ――。
「足をくじいたな。どうする」
案内人に、容赦ない選択を迫られていた。
【後書き】
ついに始まった。自然ではなく人間同士のトラブル。容赦ない選択を迫られる者たちを前に、少女はどう動く。次回、第124話「カルナリアの選択」。
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