076 捕食者
「ひ……!」
『夜の姫』が、自分を見た。
獲物を見つけた。
見つけられてしまった。
なのにカルナリアがおぼえたのは――。
(…………きれい…………)
賛嘆と、感動だった。
――美しい。
とてつもなく美しい。
夜の色の髪が優美にゆらめく。
目はスッと切れ上がって、鼻筋は通り、たっぷり濡れている唇は色鮮やか。
髪は結っておらず、装飾品のたぐいはひとつも身につけておらず、化粧すらしていないのではないか。
この存在に、そういった人為的なものは一切必要ない。
造形の全てが光彩を帯びているようだ。
ただそこに
うすもの一枚きりの裸身も、この世に女神が顕現すればまさにこうであろうという、美の化身そのもの。
まるい肩、豊かで張りのある素晴らしい胸。
奇跡の造形美というしかない、最高のふくらみ。
その上にかかっている透け布は大きく盛り上がり、興奮を隠そうともしていない突き出た頂点を見せつけつつ、そこから垂直に垂れ下がる。
ふくらみの下は、一気に細まり、見事なくびれを形作っている。
引き締まった腹、胸に負けず魅力的な曲面で構成される豊かな腰回り、魅惑そのものの肉づき豊かな長い脚……。
しかし、あらゆる部位が美だけでできているようなこの存在の、最も印象的な部位は――。
『瞳』、だった。
「あ………………」
カルナリアの意識は一瞬で吸いこまれた。
真っ黒なようにも、星々がきらめくようにも、底なしの穴のようにも見えた。
どのような色合いか見定めるより早く、それを見つめる以外のことができなくなった。
夜、そのものがそこにある。
闇がある。
恐ろしさがある。
星のきらめきがある。
眠りの心地よさがある。
夜のもたらすすべてが、そこにある。
「………………」
逆らうことも、逃げることも、抗うことも、頭から消えた。
自分の全てが夜に吸いこまれてゆき、空っぽになる。
それがたまらなく幸せ。たまらなく気持ちいい。
(………………あの時と同じ……!)
だが、この感覚はすでに知っていた。
吐息と共に、全てを吸い出された………………口づけ。
(!)
夜に吸いこまれてゆく自分が、何かに引き止められた。
美しさのかけらもないぼろぼろの布。
気高さのかけらもないぐうたら怪人。
だが、自分の
そう、自分は彼女の助けを待っていて、そこにある『
自分は、大勢の命を背負っているのではなかったのか。
カルナリアは我にかえり――。
『夜の姫』を、にらみつけた。
いや――にらもうとしたのだが。
黒髪の美姫が、わずかに小首をかしげ、つやめいた唇を微笑の形に緩める。
その笑みひとつだけで、抵抗の意志が、この相手への賛美に塗りつぶされてしまった。
「………………!」
美しさに感動するだけではなく、胸が熱く弾み、心が根元から揺さぶられる。
相手を愛おしく感じてしまう。
なぜ抗うのかわからなくなる。
この人は、こんなにも自分を待ってくれているのに。
ふらり、とカルナリアの足が前に出る。
すぐそこに、とてもいいもの、とても素敵なことが待っている。
おいで、と美姫の瞳が呼ぶ。
さらに吸いこまれる。思考に
(い、いけないっ、この人は、だめっ!)
カルナリアは頭の一部で必死に叫んだ。
見てはいけない。
顔をそむけ、目をそらさなければ。
この瞳を、見てはいけない。
この存在を、相手にしてはいけない。
『夜の姫』、この宵闇の髪と神秘の瞳を持つ超絶の美女の――カルナリアの「目」で見えた、その「色」は……。
(これは…………………………だめっ!)
「色」の種類、あるいは濃い、薄い、明るい、暗い――という問題ではなかった。
この人物、いやこの存在の前では、あらゆる「色」も、あらゆる性差も身分も人格も関係ない。
すべて、一律に――価値がない。
自分が奴隷であろうと王女であろうと、男性であったとしても、これにとっては何の違いもない。
これは、捕食者だ。
肉食獣が獲物を食らうものとしてこの世に在るように。
人を捕らえ、支配する。
あらゆる「人」を。
そういう風にできている、そういうものとしてこの世に在る、上位存在。
これは、魂を食べる。
人間の中にある、人が人である根幹のものを、溶かして、吸いとって、自分のものにしてしまう。
だから、吸われた者は、もはや人間でいられなくなる。
これのものになってしまう。
あられもない姿をさらし、白目をむきよだれを垂らし腰を痙攣させつつ失神しているオティリーや四人の少女たちは、吸いとられた後の、残骸だ。
彼女たちはもう、これから先、この相手のものというくくりから逃れることができない。魂の根幹を支配されてしまったからだ。
そして今からカルナリアも吸われる。
吸い尽くされ、あのようになる。
そのことに恐怖――できない。
恐怖どころか、ときめきをおぼえる。
体が強烈にうずく。
頭の中で最後の自我がわずかに危機を訴える以外、肉体も精神も、全力で、吸われることを望んでしまっている。
それがとてつもなく気持ちいいことを本能で悟り、求めてしまっている。
吸われた後はもう、何一つ憂うことも思い悩むこともない、幸せだけの世界に生きられることを教えてくれている。
そう…………ぐうたらなあのひとと同じように、気持ちいい、楽な世界で生きていたいと思って、何がいけないのか。
女神の、美麗な唇が動く。
濡れていた――オティリーの唾液だろうか、光沢を帯びたそれを、ぬめる舌を見せて、ちろりと、舐める。
ただそれだけの行為に、カルナリアの心臓が激しく跳ねた。
甘美きわまりない感覚が脳に流れこんでくる。
美姫の足下に崩れ落ちているオティリー。
服を着ていてもすばらしかった見事なお尻が、今だに大きく震え続けていて、下劣にして卑猥きわまりないが、当人はこれ以上ない歓喜の中にあって、色々な汁を漏らしながら痙攣し続けている。
あの唇に吸いつかれ、あの舌で舐められたら、自分もあのようなひどい姿に。
「ああ…………!」
歯が細かな音を立てる。
あちこちがブルブル震え出す。
期待に、興奮に、体が弾け飛びそう。
肌を、風呂の名残の水滴がつたう。
それだけの刺激で体が甘くしびれる。
素肌を流れるしずくを、たまらなく快く感じる。
この感触が、このひとの指であったら、これ以上のものとなる。
『夜の姫』が………………腕を動かした。
透けている布が揺れた。
わずかに開いただけ。
しかし、手の平がこちらに向いて。
カルナリアを招いていた。
腕を開いて作られた空間に吸い寄せられる。
長身の美姫の、見事なふくらみが目の前にあった。
薄布越しなのに、生で見るよりも官能的に見えた。
その
呼び声が聞こえる。
おいで、カルナリア。たっぷり、甘やかしてあげる。気持ちよくしてあげる。幸せにしてあげる。
手が勝手に持ち上がり、ふくらみを揉みしだく形を作る。
自分の手の平よりも大きなそれに手を埋めた時、カルナリアの心も一緒に埋まって行き、二度と戻れなくなるだろう。
わかっているのに、それはいけないことで自分には重大な使命があることも頭に浮かんでいるのに、どうすることもできなくなる。
「あ…………あ………………ああっ……!」
漏らした悲鳴が最後の抵抗。
カルナリアの足が動き出す。
吸いこまれ、引き寄せられ、一歩、また一歩、濡れた裸足で床を踏み。
魅惑の美体の、開いた腕の中へ……。
「んっ!?」
その瞬間、血の臭いをかいだ。
この特別な場所に存在するはずのない鉄さびた臭い。
しかし確かにカルナリアはそれをかぎ――。
自分のために血を流した人々を思い出した。
レントとエリーレアをはじめ、多くの、懐かしい、大切な人々の姿が浮かんだ。
そうだ、こんなところでおしまいになるわけにはいかない!
箱の中のあれを首につけて、ここから逃げ出さなければ!
「あ、あのっ!」
理性を取り戻し、ぎゅっと拳を握って、踏みとどまって――。
その顔を、はさまれた。
美姫の手で。
「ひゃ!?」
上向けられる。
麗しい手が、カルナリアの顔を撫でる。
桃色の
「ひゃああああぁぁぁぁぁ………………!」
ゾクゾクゾクゾクと、全裸の体いっぱいに鳥肌が立ち、震えがはしる。
甘美きわまりない触感。
体の熱がこれまで以上に強くなる。
取り戻したはずの理性が、みるみる溶かされてゆく。
(い、いけない…………だめ………………これ、だめ……!)
指に微細な力が加わり、カルナリアの頭部の色々なところを刺激してくる。
それがどうしようもなく気持ちいい。
スゥッと、線を引くように、目の上から頬へ撫でられた。
今朝までは「火傷」がついていたところ。
あの醜い偽装が残っていれば、こんなところに放りこまれ、こんなとてつもない相手に食われることもなかったのに。
「や……やめ……」
血の臭いにすがりつき、無数の死を思い起こし、抗おうとしたが。
すぐそこに――額が重なるほどの至近距離に、夜の瞳があった。
間近から、のぞきこまれた。
「あ………………」
あっという間に、頭の中から何もなくなった。
闇の中、いや星がきらめく美しい夜空に、自分は浮いていた。
血の臭いも、死も、背負った人々も、抗うよすがとなるものが、すべて自分から離れて、星空の彼方へ消えていく。
残るのは、とてつもない体の火照りと、期待。
美しいものへの尊崇。気持ちいい手への心酔。
この麗しい手、淫靡な唇がもたらしてくれるだろう甘美なものを待ち受けるだけになる。
頭だけでもこれほど気持ちいいのに、他の部分に触れられたら、どれほどの快感が来るのか。
未知の世界へ、自分はこれから連れて行かれる。
「はっ、はっ、はっ、はっ、はぁっ……はふっ!」
カルナリアは欲望だけになり、全身が心臓になって、興奮に脈打ちながら、自分からも美姫に触れた。
触れた手の平から、とてつもない感覚が来た。
「あひゃぁぁぁぁぁ…………!」
ぐるんぐるん、灼熱したものが渦巻き、目が回って、世界が回って、息が苦しく、体は熱く、どこまでも熱くなってゆき……。
未成熟の少女には、それが限界だった。
フッ、と落ちる感覚が訪れて、そのあとはもう何もできず、何もわからなくなった。
「…………どういうつもりだ」
どこか遠いところで、けだるげな声がしたような気がした。
来てくれた、とかすかに思った。
その大きすぎる安堵がとどめとなって、カルナリアは完全に意識を失った。
【後書き】
カルナリア唯一の一騎討ち。しかし相手が悪すぎた。失神から目覚めた時、側にいるのは誰か。最強剣士か最凶美姫か。人外同士の決戦の行方ははたして。
申し訳ありませんが、ここで場面が大きく変わります。カルナリアが売られたり働いたり着せ替えられたりしている間、外では何が起きていたのか。
次回、第77話「情報屋」。
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