返歌 ~酒井抱一(さかいほういつ)、その光芒~

四谷軒

01 酒井抱一の屈託

 酒井抱一さかいほういつは、幼い日に観たが忘れられなかった。

 どういう経緯で観たかは、今となってはわからない。

 ただ、そののことが忘れられないのだ。

 その――尾形光琳おがたこうりんの風神雷神図屏風が。


 酒井抱一は、江戸幕府名門・酒井家に生まれた。

 だが世継ぎとなることはなく、あくまでも兄のとしての立場だった。

 やがて兄に子が生まれ、抱一は用済みになる。

 どこかの大名に養子にという話もあったが、抱一はそれを断った。


が描きたいのです」


 兄の「何故」という問いに、抱一はそう答えた。

 兄は「そうか」と言って、抱一に理解を示した。



 抱一はその後、画に俳諧にと精を出す。

 だが、どうしても一線を越えられない。

 画も俳諧も、いいところまでは行くが、それだけだ。

 何かがちがう。

 そう思った。

 その屈託を抱えながら過ごしているうちに、兄が死んだ。

 甥が兄の跡を継ぎ、甥の弟が養子、つまり世継ぎとなって、抱一はからになった。


「ご出家を」


 酒井家の誰ともなく、そういわれるようになった。

 当時の酒井家すなわち姫路藩は逼迫し、藩主の生活すらままならないという状況にあった。


「厄介者を養う金銭かねはない、か」


 だが、恨む気はなかった。

 むしろ、侍という身分を脱して自由に生きる機会を与えてくれたような気がした。

 かくして抱一は出家した。


「今こそ」


 この頃から抱一は、武士というしがらみから解放されたせいか、やりたかったことに、より一層のめり込んだ。

 そして、やりたかったこととは。


「やはり、あの


 尾形光琳おがたこうりんの風神雷神図屏風。

 幼い頃観たそれが、鮮烈にこの目に焼き付いている。

 右に風神、左に雷神。

 緑の風神に、白の雷神。

 それぞれ、雲を台にして、空中に浮遊しているような、あるいは空中に佇立しているような、そんな立ち姿だった。


「ああいう画を、描きたい」


 そのためには――一線を越えるためには、もう一度、どうしても観たい。

 そう思うと、抱一の筆は乱れるのだ。



 抱一は根岸に庵を結んだ。

 雨華庵という。

 その雨華庵にて、画業に没頭しつつも、風神雷神図屏風への懇望こんもうもだしがたく、悶々とする日々を過ごしていた。

 そんなある日。


「来客?」


 弟子の鈴木其一すずききいちが、画筆を握る抱一の背中に、それを告げに来た。


国許くにもとからいらっしゃったとか」


「国許ねえ」


 其一もまた姫路藩の出である。その其一が国許という以上、藩の誰かが来たということになる。


「会うか」


 このまま、ひとりで悶々としていても、埒が明かない。

 弟子に語ったところで何にもならない問題なだけに。

 それなら、いっそ気晴らしに藩の者に会うか、という気持ちである。


「通してくれ」


「あい」


 何を吉原の花魁おいらんのような返事をしてるんだと思ったが、抱一は特に何も言わなかった。

 藩士の前で師弟喧嘩など披露しても仕方ない。

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