第18話 マレ熊茶子の誕生
仁子は毎日仕事に追われていた。締め切りが近い案件をいくつも抱え、必死でパソコンにかじりつく。
(う~ん、まずはこれ指摘されたところ直して持っていって、係長がチェックしてる間にこっち片づけて……)
仁子がこんな状態になっているのは、彼女が仕事をさぼっていたからではない。仁子なりに細部に気を使って作り上げた資料を係長はパッと見るだけで何度もリテイクしてくるのだ。しかも納得のいく内容ならまだいい。そこ必要? という指摘をして、突っ返されるのだから仁子のストレスは高まるばかりだった。
(前の係長ならこんなことなかった……
「仁子さん、ちょっとさ、これ見て」
頭の中で係長の悪口を言っていたところ、当人に呼ばれた。仁子は仕事の手を止めて、渋々係長のデスクに向かう。
「はい、何でしょうか?」
「これさ、このフォーマット見辛くない?」
「え、そうですか?これこの部署でずっと使われているものですけど」
「前任者なんも思わなかったのかな~適当な仕事してるな~」
前任の係長を悪く言われて少しムッとする。優しくて気遣いも仕事もできる素敵な人だった。この目の前の上司とは月とスッポンだ。
「ま、いいや。これさ、直しといてよ」
「え、わたしがですか?」
「仁子さんが、ですよ。それさ、悪いクセだよね仁子さんの。仕事頼んでもすぐ、それ私の仕事ですかって一回は挟んでくるもんね。オレが頼んだってことは業務命令ってことなの。そこらへん理解して業務にあたってくださ~いw」
「……わかりました。ただ、今いくつか締め切りの近い案件を抱えているので、フォーマットの修正はそれらが片付いた後でよろしいでしょうか」
「いや、あんまりよろしくないんだけど~。なに、そんなにギリギリの仕事何件もあるの? 仁子さんってホントにトロいよね」
トロい。この矢名係長から何度も言われてきた言葉だ。前任者はいつも仁子のことを仕事が丁寧だとほめてくれていた。係長が代わっただけで、仁子の「仕事が丁寧」という長所は「トロい」という短所に変わった。他にも「落ち着いている」が「やる気なさそう」に変わり、「真面目」は「面白みがない」に変わった。仁子は今や欠点だらけの人間になってしまった。
「仕事がギリギリになったのは仁子さんのトロさが原因だよね。オレには関係ないことなので、フォーマット作り今日中にやってもらえる?」
「……っ!」
こんなことは今まで何度もあったし、もっとひどいことを言われたこともある。でも仁子の限界点は今日だった。
走って事務室を飛び出す。矢名係長の「はぁ?」という声が聞こえたが、もう構わなかった。階段を上って屋上を目指す。もういい。もう疲れた。全て終わらせたい。
仁子と係長のやりとりを聞いていた同僚達が仁子の異様な様子を見て追いかけてきてた。その中で、仁子の意図にいち早く気付いた者が血相を変えて仁子に飛びついた。
「仁子さん! 落ち着いて、ね? 落ち着いて!」
仲良くしていた女性社員からそう声をかけられても、仁子はもがいて屋上を、とにかく高いところを目指そうとした。そのうちに男性社員が遠慮しつつ、仁子の腕をつかみ、彼女の足は止まった。騒動に人が集まってきて、仁子の行動は上の人間にまで届くような社内事件となった。
そのあとはもうよくある話だ。仁子は病院に通いはじめ、「うつ」の診断を受けて休職をすることになった。
休職した仁子はろくな食事もとらず、お風呂にも入らず家に引きこもった。
(人ってこんな簡単に壊れちゃうんだ。今のわたしは死んでるのと何も変わらない……)
ピンポーン。チャイムが来客を知らせる。誰だろうか。ネットで購入した食品類が届いたのかもしれない。今の自分はひどい格好だが、出るしかない。それに見知らぬ人に何を思われようと、もうどうでもいい。
起き出してドアを開ける前にチラ、とドアスコープをのぞいた。そこにいたのは宅配のお兄さんではなく、ロングヘアの美女、友世だった。
「え、友世!?」
「仁子。生きているか。生きていたら入れてくれ」
「え、ちょ、ちょっと待って」
宅配の人なら構わなかったが、友達にこの小汚い身なりを見せるのは抵抗がある。せめてパーカーを、と寝室に戻る。
ドンドン!ドンドン!友世がドアを叩き出した。
「うわわ、友世ちょっと待って!」
「仁子! 死んでいるのか、仁子!」
素早くパーカーを着て慌ててドアを開ける。
「仁子。生きていたか」
友世がほっとした顔でそこに立っていた。
「友世、久しぶり……入って。」
いきなりの来訪で驚いたが、来てくれたのは素直に嬉しい。けれど今の仁子には、もてなす気力が残念ながらなかった。
「ごめん。あまりお構いできそうになくて。冷蔵庫から好きなもの取って飲んで」
「いやお構いはいらんよ」
そう言って友世はほぼいつも持ち歩いているノートパソコンをテーブルに置いた。
「なに? わ、可愛いねこの子」
パソコンに映っていたのは栗色の髪の美少女だった。
「この子は新しいVtuberなんだ。これからこの世に生を受けることになる」
新人Vtuberを見つめる仁子の目に少し光が戻った。
「一ヶ月前に依頼者の魂の叫びを聞いてね。
このV可愛い。活動始めたら配信見てみたいな。
「気に入ったかい? 知人にモデリングできるものがいてね、もうこの子は動かせるんだよ」
「ん……。動いてるとこ見てみたいな、ていうか友世、デザインだけじゃないんだ?」
モデリングの方まで関わるなんて。絵師がそこまでするものなのだろうか。
「依頼者はいまボロボロの状態だからね。デザインから配送まで全てを担当させていただいたという訳だ」
「へ~うん? 配送まで……? どうゆうこと?」
「なんとも察しが悪いね。まぁ、今の状態なら仕方がないか。仁子、この子を動かすのは君だよ」
この子を動かすのは君、この子を動かすのは君……
「は、え、わたし? え、わたしがVtuberやるってこと?」
「君はVtuberになりたいと言ったじゃないか」
「そんなこと! 言った、かもしれないけど……。でもあれはただの願望で」
そうだ。酔っぱらってそんなことも言ったかもしれないが、Vtuberなんていきなりなれるはずがない。自分のような超普通の人間がやったって、面白いことなんて何ひとつできるわけが……
「この
「え、待ってそれこの子の名前?」
そうしてさらに様々な問答や準備を経て一か月後。
秋の訪れとともにVtuber『マレ熊 茶子』は誕生した。
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