第15話 戦国3 最終局面
約9400文字。
戦国時代については区切りをほぼ三等分にしておいた。結果がご覧のありさまである。ひどいものだ。正直申し上げて、まともにお読み頂く必要はないぞ。スクロールバーの長さだけお楽しみいただければ幸いである。
対象年は -278~-221 である。
○周
37 代 867 年の国運であった。
○
楽毅の斉攻めの間に
楽毅を疑った恵王は楽毅を召喚したが、楽毅は誅殺を恐れて趙に逃亡した。そこで
この頃秦より将軍の
荊軻は「始皇帝に会うには樊將軍の首と、燕の
こうして荊軻は出立したのだが、暗殺は失敗に終わる。激怒した始皇帝は燕に大軍でもって攻め寄せてくる。姫喜は姫丹を殺害して死体を献上するも、三年後には姫喜自身も囚われ、ここに燕は滅んだ。
・
上述の通り、荊軻は始皇帝暗殺のために地図と樊於期の首を所望した。
しかし姫丹は返事を下しきれない。そこで荊軻は自ら樊於期の元に赴き、「将軍の首を秦王に献上すれば、やつは喜んで私に会おうとするでしょう。そうしたら左の袖を捕まえ、右手に持ったナイフでその胸をえぐってみせましょう。そうすれば将軍が受けた恥も、燕が受けた屈辱も晴らせるのです」と言う。それを聞き、樊於期は自らの首を刎ねた。
樊於期自殺の報を聞き、姫丹は慌てて駆けつけ、号泣。それから豪華な箱に樊於期の首を収め、また燕でも指折りの優れたナイフに毒を焼き付けさせた。人で試してみたところ血が一筋流れ出すまでに相手は死んだ。それを荊軻に授けた。
始皇帝暗殺のため出立した荊軻、燕の国境である易水にたどり着くと、歌う。
風蕭蕭兮易水寒
壯士一去兮不復還
ひゅうと吹く風、
易水の冷たい水。
壮士はひとたび発てば、
もはや戻ることはあるまい。
このとき白い虹が太陽を貫き、燕人は不吉な報せと怯えた。秦の都である
秦の法律では、殿中ではナイフをも帯びてはならぬことになっている。なので近侍は素手で荊軻を捕まえ、唯一剣を持っている者=始皇帝自身に荊軻を斬るように言う。そしてその剣が荊軻の左太ももを切る。荊軻は自らの持っているナイフを始皇帝に投げつけたが、当たらない。こうして荊軻は八つ裂きとされ、見せしめとされた。
○
各国連合軍の攻勢により、
ここで卽墨から推挙を受けたのが、名将、
また城内から千頭の牛を集め、角には刀を縛り付け、尾にはよく油のしみこんだ藁を巻き付ける。いっぽう城壁には数十もの穴を開けておき、牛たちを穴の前に揃えておいた。
ある真夜中、牛たちの尾に火をつける。怒り狂った牛たちは城を包囲する
この起死回生の奇襲劇により燕軍は大打撃を受け、襄王の下には七十あまりの城が復帰させられた。この功から田単は
後日の話をしておこう。田単が
「今のあなたには、去まし日のような決死の思いがない。死を恐れ、安穏を求めておられる。故に勝てぬのだ」
はっとした田単、すぐさま前線に立ち号令を掛けるようになる。すると、狄はたちまちのうちに降伏した。
孟嘗君が諸侯としての地歩を確立する前のことである。
さすがにその振る舞いが腹に据えかねた孟嘗君、借金の取り立てという汚れ役を馮驩に申しつける。当時孟嘗君は
薛に赴いた馮驩、人々のほとんどがその生活において利子を返済出来る状態にないと気付く。そこで証文を取り上げ、衆人環視の前で、焼いた。これに孟嘗君は怒るのだが、馮驩は言う。
「薛の民を親しませんがためだ」
じっさい、馮驩のこの振る舞いにより孟嘗君は薛公に認められ、そしてその地で生涯を終えることができたのである。
君王后が死ぬと、斉に仕える食客のほとんどは秦より賄賂を受け取ったスパイだらけとなっていた。田建に対し秦に参朝するよう勧めたり、また侵略に対する防備もさせないようにした。また戦国七雄のうち五国が秦に攻め立てられるのを見ても彼らを援助するようなこともなかった。
こうして他国を滅ぼした
斉の人たちは歌う。
松邪柏邪 住建共者客邪
マツでも、カシワでもあるまい。
田建を共に住まわせたのは、
秦からの刺客を国内で
放し飼いにしたせいである。
○中原諸国
・衛
タイミングは前後するが、ここで紹介しておく。
○趙
引き続き秦よりの圧迫を受ける
するとここでも立ち上がるのが
「王よ、いまならば私の首から吹き出る血を、あなた様に掛けることもできるのですぞ!」
これ以上王を侮辱するならお前を殺すぞ、である。周囲のものが藺相如を殺そうと動くも、藺相如よりの一喝によって動けなくなる。仕方なく昭襄王もまた楽器を演奏した。これ以後昭襄王が趙を圧迫することはなかった。
趙に帰還すると藺相如は特上の地位に据えられた。それは当時趙軍を牽引していた大将軍、
「賤しい男が口先だけで上りつめるのか! やつの下でおるなぞ恥ずかしくてならん!」
この発言を知った藺相如は廉頗を避けるようにした。従者が何故そのようなことを、と問うと、藺相如が答える。
「我らはこの趙を守る二頭の虎。それが相争ってどうなる? 秦を利するだけではないか」
廉頗はこの発言を知るとすぐさま藺相如のもとに赴き、上半身をむき出しとして謝罪し、茨の鞭を藺相如に差し出した。それ以降、藺相如と廉頗は「刎頸の交わり」を結んだ。
この地で守りを固めていたのは、かの
これに驚いたのが藺相如である。驚いた
「あれの戦術眼はニカワで固めた琴(※一切音程が変えられなくなる、つまり変化に対応出来ない)ようなものですよ!? 父親の編んだ兵法を読んで戦争を理解した気になっているだけです!」
趙括は自らの将才を過大評価していた。父、
この戦いで大きくダメージを受けた趙は、更に秦よりの攻勢を受ける。ついにその軍勢が都、
ここで立ち上がったのが戦国四君の
平原君が
楚の
もっともだ、と納得した孝烈王、同盟の誓いを、毛遂を立会人とし、平原君との間に結ぶ。誓いの儀式が執り行われたのち、毛遂は他の食客らに向けて「お前たちはそこいらに転がっている石ころか!」と叱咤した。
そして、趙・魏・楚の連合軍は見事に秦軍の撃退を果たしたわけである。
「相変わらず健勝ではありましたが、すっかり耄碌し、私との会談の間に三回もお漏らしをしました」。
このため悼襄王は廉頗の再登用を沙汰止みとする。
その代わりに
その後廉頗は
悼襄王が死に、子の
守将を失った趙のもとに秦軍が殺到、幽繆王は捕らえられた。趙の家臣らは
○
恐れた安釐王は晉鄙を
すると、ここにいたのが
「秦は儀礼よりもいくつ首を上げたかこそを功績と考える国。そんな国に天下を取らせるというのであれば、私は海に身を投げて死んだ方がマシです」
魯仲連の言葉に、新垣衍は意を改め、秦にかしづかないことを誓うのだった。
戦国四君の
「王と晉鄙将軍とで分かち合っている割り符を盗み出しておしまないなさい。それを突き付けて王命として命じ、それでもなお晉鄙将軍が動かないのであれば殺してしまうのです」
信陵君は力士の
その後秦の矛先は魏に向かう。信陵君は故郷の救援を渋ったが、結局説得を受けて救援に駆けつける。すると各国の軍も魏に協賛、こうして秦軍を
しかし、抵抗もそこまで。信陵君の死後、
○韓
昭侯が死ぬと
○楚
屈原は懐王の時代に大いに信任されていたのだが、しばしば讒言にあい、その立場を危うくしていった。そのときに自らの立場を嘆いてものした作品が『
趙よりやって来た
幽王が死に、弟の
○秦
齊王は范雎の見事な弁舌を聞き、召し抱えようとする。須賈は魏の機密を漏らしたのでは、と疑い、魏の宰相、
見張りに口利きして何度か脱出の叶った范雎、
さて、魏より使者がやって来る。誰あろう、范雎を追い落とした須賈であった。范雎はわざとボロボロの服を着て、徒歩にて須賈に会いに行く。須賈は思いがけぬ再会に驚き、また范雎のなりを見て憐れみ、食事を与え、綺麗な着物を与えた。
須賈が秦の宰相の張禄に会いに来た、と言うと、范雎は車の御者を申し出、自らの邸宅にまで案内する。そして「宰相様にお取り次ぎ致しましょう」と、屋敷に消える。
屋敷で待つ須賈、しかしいつまで経っても范雎が出てこない。そこで屋敷の使用人に、范雎はまだ戻らぬのか、と問う。聞くと、使用人は「先ほどの方は我が国の宰相、張禄様ですが?」と答えた。この時初めて須賈は范雎に欺かれたことを知り、刑罰を受けるため上半身裸となって土下座し、罪をわびた。
范雎は言う。
「貴様をあえて殺さずにいたのは、それでもおれに旧交の情を示してくれたからだ」
それから范雎は諸侯よりの使者を招いて大宴会を開くが、須賈に与えられた席は末席の更に外であり、与えられた食事もまぐさであった。
「魏王に言え、我が元に魏斉の首をよこせ、とな。さもなくば貴様の国を攻め滅ぼしてくれようと」
大慌てで魏に帰還した須賈が魏斉にこのことを告げると、魏斉は恐れて出奔し、やがて自刃して果てた。
このように范雎は秦にて復讐を果たし、一食の恩にも、怨恨にも報いたのである。
昭襄王は范雎と会見するなり、たちまち大臣に据えた。その范雎が昭襄王に授けたのが「遠交近攻」の策である。
この頃秦の政治を取り仕切っていたのは
昭襄王は范雎の策にしたがって韓、魏、趙に派兵。斬った首は数万にも及んだ。これを大いに恐れたのが周の末代王、赧王である。諸侯に呼びかけ秦討伐の軍を立ち上げた。しかしこの行動によってむしろ秦よりの攻撃を受けた。赧王は
さて范雎であるが、
「良将もおらぬのに、外には強敵が多いな」
この言葉に范雎は危惧を覚えた。すると「蔡澤」が范雎に言う。
「季節は移ろい変わるもの。功為し遂げたものは去っておかれるが良い」
こうして范雎は病と称して引退。蔡澤がその後任となった。
始皇帝は趙の都、
また荘襄王には邯鄲いちの美姫をめあわせた。なお彼女は事前に呂不韋の息子を妊娠していた。そうして生まれたのが始皇帝である。つまり始皇帝は、実は呂氏だったのである! ΩΩΩ<ナッナ
昭襄王が死んで孝文王が立つも、三日で死亡。莊襄王が立つ。しかし荘襄王も四年で死亡。始皇帝は13才で王位に就くこととなった。
始皇帝は母を太后に据えた。呂不韋はすでに秦の宰相として君臨していた。しかし太后と呂不韋の不義密通が発覚。この頃の始皇帝は既に成長していたため、呂不韋を自殺させ、太后も廃位する。その後幽閉したのだが
秦の高官らは、国外から来ている論客がそれぞれの国の利益のために動いているから、と彼らを追放した。いわゆる逐客令である。
この動きに対し、外国からの論客のひとり
「
これを聞いて
一方、同時期に
-230 年に
-228 年に
-225 年に
-223 年に王翦が
-222 年に王賁が
こうして秦が天下統一を為し遂げた。
ここではわかりやすさ優先で始皇帝と書いているが、統一前の地位はあくまで王であった。未曽有の大事業を為し遂げたため、初めて「皇帝」と名乗ったのである。その德は
命を「制」と呼び、令を「詔」と呼ぶこととした。また
なお。
○
異常である。何だこの長さは。いじめだな。まあ春秋時代のことなぞ左伝でも読んでおけ、と言うことなのやもしれぬな。ではここから、春秋時代のときと同じくコメンタリーを進めて参る。
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