第15話 戦国3 最終局面

 約9400文字。

 戦国時代については区切りをほぼ三等分にしておいた。結果がご覧のありさまである。ひどいものだ。正直申し上げて、まともにお読み頂く必要はないぞ。スクロールバーの長さだけお楽しみいただければ幸いである。

 対象年は -278~-221 である。


○周

 赧王たんおうの頃にもなると、すでにしん一国が強国となっていた。そこで -256 年、この情勢を挽回せんと、諸国と結んで秦に攻撃を仕掛ける。しかし却って昭襄王しょうじょうおうよりの反撃によって都を攻め落とされ、赧王は秦に連行された。そこで天下の主としての実権を秦に譲り渡すと宣誓。こうして周は滅亡した。それから間もなく、赧王も死んだ。

 37 代 867 年の国運であった。



えん


 楽毅の斉攻めの間に昭王しょうおうが死亡。恵王けいおうが立つ。惠王は太子の頃から楽毅に専断されているのを不愉快に思っていた。そこに斉将の田単でんたんがスパイを送り込み、「楽毅の斉攻めがグズグズしているのは、新王の元に戻りたくないからだ」とデマを流させる。

 楽毅を疑った恵王は楽毅を召喚したが、楽毅は誅殺を恐れて趙に逃亡した。そこで騎劫きごうを代わりの将として派遣したが、むしろこれによって田単に大破されることとなった。この交代劇により、斉は多くの城を取り返したのである。


 惠王けいおうのあと武成王ぶせいおう孝王こうおうを経て姫喜ききに至る。その太子の姫丹きたんしんに人質として送り込まれていたのだが、始皇帝しこうていにより粗雑に扱われていた。これに怒った姫丹は秦を脱出してえんに帰還。どうにか報復してやりたいと考えた。

 この頃秦より将軍の樊於期はんおきが亡命していた。受け入れこそするも、どう対応したものかで迷い、しばらく放置した。一方ではえい人の荊軻けいかが賢いと聞き、彼に始皇帝を暗殺して貰うべく、最高の待遇でもてなした。

 荊軻は「始皇帝に会うには樊將軍の首と、燕の督亢とくこうの地図が要る」と条件を突き付ける。王が逡巡するうちに荊軻は樊於期を説得、自殺させ、首を獲得。そこで姫丹も地図を与え、更に鋭いナイフに毒を焼き付け、荊軻に与えた。

 こうして荊軻は出立したのだが、暗殺は失敗に終わる。激怒した始皇帝は燕に大軍でもって攻め寄せてくる。姫喜は姫丹を殺害して死体を献上するも、三年後には姫喜自身も囚われ、ここに燕は滅んだ。


荊軻けいか

 上述の通り、荊軻は始皇帝暗殺のために地図と樊於期の首を所望した。

 しかし姫丹は返事を下しきれない。そこで荊軻は自ら樊於期の元に赴き、「将軍の首を秦王に献上すれば、やつは喜んで私に会おうとするでしょう。そうしたら左の袖を捕まえ、右手に持ったナイフでその胸をえぐってみせましょう。そうすれば将軍が受けた恥も、燕が受けた屈辱も晴らせるのです」と言う。それを聞き、樊於期は自らの首を刎ねた。

 樊於期自殺の報を聞き、姫丹は慌てて駆けつけ、号泣。それから豪華な箱に樊於期の首を収め、また燕でも指折りの優れたナイフに毒を焼き付けさせた。人で試してみたところ血が一筋流れ出すまでに相手は死んだ。それを荊軻に授けた。

 始皇帝暗殺のため出立した荊軻、燕の国境である易水にたどり着くと、歌う。

  風蕭蕭兮易水寒

  壯士一去兮不復還

   ひゅうと吹く風、

   易水の冷たい水。

   壮士はひとたび発てば、

   もはや戻ることはあるまい。

 このとき白い虹が太陽を貫き、燕人は不吉な報せと怯えた。秦の都である咸陽かんようについた荊軻は始皇帝に引見を果たす。大喜びの始皇帝の前で、荊軻が地図を開く。その中には例のナイフが隠されていた。荊軻は王の袖を捕らえこそしたが、その身体までには及ばない。始皇帝は驚いて袖をちぎり、柱にまで逃げる。

 秦の法律では、殿中ではナイフをも帯びてはならぬことになっている。なので近侍は素手で荊軻を捕まえ、唯一剣を持っている者=始皇帝自身に荊軻を斬るように言う。そしてその剣が荊軻の左太ももを切る。荊軻は自らの持っているナイフを始皇帝に投げつけたが、当たらない。こうして荊軻は八つ裂きとされ、見せしめとされた。



せい


 各国連合軍の攻勢により、襄王じょうおうが即位した頃の斉が確保出来ていた城は莒と卽墨そくぼくのみであった。この二城を拠点に、斉は再起を図る。

 ここで卽墨から推挙を受けたのが、名将、田単でんたんであった。

 せいの将軍として立った田単でんたんは自ら兵とともに築城工事に従事し、妻や妾達も警備兵として動員させた。一方、燕にスパイを送り込んでデマを流すことで、包囲の指揮官である楽毅を引きずり下ろし、凡将の騎劫きごうに交代させもしている。

 また城内から千頭の牛を集め、角には刀を縛り付け、尾にはよく油のしみこんだ藁を巻き付ける。いっぽう城壁には数十もの穴を開けておき、牛たちを穴の前に揃えておいた。

 ある真夜中、牛たちの尾に火をつける。怒り狂った牛たちは城を包囲するえん軍のもとに飛び込んでいく。更にその後ろから、斉の兵士達を突撃させた。

 この起死回生の奇襲劇により燕軍は大打撃を受け、襄王の下には七十あまりの城が復帰させられた。この功から田単は安平君あんへいくんと呼ばれるようになった。

 後日の話をしておこう。田単がてきを攻めたが、落とせない。そこを魯仲連ろちゅうれんに言われている。

「今のあなたには、去まし日のような決死の思いがない。死を恐れ、安穏を求めておられる。故に勝てぬのだ」

 はっとした田単、すぐさま前線に立ち号令を掛けるようになる。すると、狄はたちまちのうちに降伏した。


 襄王じょうおうが立った頃、せいを出奔していた孟嘗君もうしょうくんは独立中立の諸侯となっていた。襄王は孟嘗君の威厳を恐れ、同盟を組んだ。

 孟嘗君が諸侯としての地歩を確立する前のことである。馮驩ふうかんが孟嘗君の食客となりたいと申し出てきた。この頃流浪の身であるため食客に食わすものにも困っていた孟嘗君、はじめはこの客人を低い席次で扱った。すると馮驩は自らの剣を叩き不遇を歌い始める。仕方なくその扱いをどんどん高くしていくのだが、それでも馮驩は歌をやめようとしない。

 さすがにその振る舞いが腹に据えかねた孟嘗君、借金の取り立てという汚れ役を馮驩に申しつける。当時孟嘗君はせつの民に金を貸していたのだが、その返済が滞っていたのである。

 薛に赴いた馮驩、人々のほとんどがその生活において利子を返済出来る状態にないと気付く。そこで証文を取り上げ、衆人環視の前で、焼いた。これに孟嘗君は怒るのだが、馮驩は言う。

「薛の民を親しませんがためだ」

 じっさい、馮驩のこの振る舞いにより孟嘗君は薛公に認められ、そしてその地で生涯を終えることができたのである。


 襄王じょうおうが死ぬと、子の田建でんけんが立った。母の君王后くんおうこうは賢い人であり、この頃圧倒的強国となっていたしんにもつつしんで仕え、また諸侯ともバランスを取った外交をなしていた。

 君王后が死ぬと、斉に仕える食客のほとんどは秦より賄賂を受け取ったスパイだらけとなっていた。田建に対し秦に参朝するよう勧めたり、また侵略に対する防備もさせないようにした。また戦国七雄のうち五国が秦に攻め立てられるのを見ても彼らを援助するようなこともなかった。

 こうして他国を滅ぼした秦王しんおうせい、すなわち後の始皇帝しこうていの軍が臨淄りんしに入る。田建は抵抗せず、降伏した。その後田建はきょうにあるマツやカシワの林の中で餓死させられた。


 斉の人たちは歌う。


 松邪柏邪 住建共者客邪

  マツでも、カシワでもあるまい。

  田建を共に住まわせたのは、

  秦からの刺客を国内で

  放し飼いにしたせいである。



○中原諸国


・衛

 タイミングは前後するが、ここで紹介しておく。しゅうから分かれた諸侯のうち衛が最後まで残ったのだが、しんが天下統一をなした後、二世皇帝にせいこうていが最後の君主、姫角きかくを庶人に落とし、衛国の祭祀を滅ぼした。



○趙


 引き続き秦よりの圧迫を受ける恵文王けいぶんおう。ある日恵文王と昭襄王との間で、直接会談の場が設けられる。ここで昭襄王が恵文王に楽器を演奏しろと強要。下人のごとき働きをしろ、と言うのに近い侮辱行為であった。とは言え逆らうわけにもゆかず演奏。

 するとここでも立ち上がるのが藺相如りんしょうじょである。昭襄王に対しあなたも演奏すべきだ、と主張した。ふざけるなと突っぱねる昭襄王の下に藺相如、ぐいと詰め寄り、言う。

「王よ、いまならば私の首から吹き出る血を、あなた様に掛けることもできるのですぞ!」

 これ以上王を侮辱するならお前を殺すぞ、である。周囲のものが藺相如を殺そうと動くも、藺相如よりの一喝によって動けなくなる。仕方なく昭襄王もまた楽器を演奏した。これ以後昭襄王が趙を圧迫することはなかった。

 趙に帰還すると藺相如は特上の地位に据えられた。それは当時趙軍を牽引していた大将軍、廉頗れんぱをも上回るものであった。いわば「外交としての防壁」の働きを示した藺相如が廉頗以上の地位に引き立てられるのはある意味当然のことであったが、実際に血を流して国境を守ってきた廉頗としては気に食わない。

「賤しい男が口先だけで上りつめるのか! やつの下でおるなぞ恥ずかしくてならん!」

 この発言を知った藺相如は廉頗を避けるようにした。従者が何故そのようなことを、と問うと、藺相如が答える。

「我らはこの趙を守る二頭の虎。それが相争ってどうなる? 秦を利するだけではないか」

 廉頗はこの発言を知るとすぐさま藺相如のもとに赴き、上半身をむき出しとして謝罪し、茨の鞭を藺相如に差し出した。それ以降、藺相如と廉頗は「刎頸の交わり」を結んだ。


 恵文王けいぶんおうののちには孝成王こうせいおうが立つ。この頃になるとしんは再び圧力を増し、かんに攻撃を仕掛けていた。その韓が秦よりはマシと趙に下ってくる。こうして秦の矛先が再び趙に向く。戦の舞台は、長平ちょうへい

 この地で守りを固めていたのは、かの廉頗れんぱである。万全の守りで秦の攻撃を跳ね返す廉頗。すると秦は金をばらまき、こんな噂を立て始めた。「秦が恐れるのは趙奢ちょうしゃの子、趙括ちょうかつのみである」と。そこで孝成王は守将を廉頗から趙括にすげ替えた。身を危ぶんだ廉頗はに亡命した。

 これに驚いたのが藺相如である。驚いた藺相如りんしょうじょは言っている。

「あれの戦術眼はニカワで固めた琴(※一切音程が変えられなくなる、つまり変化に対応出来ない)ようなものですよ!? 父親の編んだ兵法を読んで戦争を理解した気になっているだけです!」

 趙括は自らの将才を過大評価していた。父、趙奢ちょうしゃと兵法議論をなせば、常に勝つ。とは言え父は死地に兵を赴かせる重みを知っている。それを知らぬ趙括の兵法は軽い、と常々語っていた。それを知っていた母も王に趙括の任用を思い留めるよう嘆願していた。そしてその結果が、白起はくきによる長平ちょうへい四十万の穴埋めであったのだ。

 この戦いで大きくダメージを受けた趙は、更に秦よりの攻勢を受ける。ついにその軍勢が都、邯鄲かんたんの近くにまで押し寄せてきた。

 ここで立ち上がったのが戦国四君の平原君へいげんくん孝成王こうせいおうの叔父にあたる。数千人の食客を養い、その中には屁理屈を得意とする諸子百家、名家めいか公孫龍こうそんりゅうもいた。

 平原君がよりの助力を得るため同行者を募ったところ、毛遂もうすいが名乗りを上げる。これまで食客の中でも目立たなかった存在であったため、他の食客はやや馬鹿にした風であった。平原君ですら「異才は麻袋に入っていても錐が袋を貫くように飛び出してくるものだが、あなたが目立ったことはないように思える」という始末。すると毛遂、「なんなら麻袋から飛び出してみせますぞ」とまで豪語する。

 楚の孝烈王こうれつおうの元に出向いた平原君。交渉は難航する。すると毛遂が飛び出し、孝烈王の目の前に。突然の無礼に孝烈王は激怒するのだが、「いまなら私でも王を殺せます、楚の大軍すら役に立ちませぬぞ」と言い切った上、「楚とて白起はくきに三度の苦杯を飲まされておりましょう。この同盟は趙のためではなく、楚のためのものなのです」と説く。

 もっともだ、と納得した孝烈王、同盟の誓いを、毛遂を立会人とし、平原君との間に結ぶ。誓いの儀式が執り行われたのち、毛遂は他の食客らに向けて「お前たちはそこいらに転がっている石ころか!」と叱咤した。

 そして、趙・魏・楚の連合軍は見事に秦軍の撃退を果たしたわけである。


 孝成王こうせいおうが死に、子の悼襄王とうじょうおうが立った。ここでやはり国防を任せられるのは廉頗をおいて他にない、と言う話が持ち上がる。が、その間に廉頗をよく思っていなかった郭開かくかいが挟まる。郭開は王の使者に金を掴ませ、未だ壮健であったはずの廉頗についての報告を歪ませた。

「相変わらず健勝ではありましたが、すっかり耄碌し、私との会談の間に三回もお漏らしをしました」。

 このため悼襄王は廉頗の再登用を沙汰止みとする。

 その代わりに李牧りぼくが新たな将として立てられた。早速李牧は北辺を脅かす匈奴きょうどを撃破する。


 その後廉頗はよりの招聘を受けたのだが、功らしい功を挙げることもなかった。「趙人を率いて戦いたかった」と言い残し、死んだ。


 悼襄王が死に、子の幽繆王ゆうびゅうおうが立つ。ここで始皇帝しこうてい政権下となったしん軍が攻めてきたのだが、李牧は撃退。そこで秦はちょう国内にスパイをやって「李牧が謀反を考えている」とデマを流させ、李牧を殺させた。

 守将を失った趙のもとに秦軍が殺到、幽繆王は捕らえられた。趙の家臣らはだいに逃れて趙嘉ちょうかを王に奉じるのだが、間もなく秦軍に攻められ、滅ぼされた。




 襄王じょうおうの孫、安釐王あんきおうが立ったタイミングで、秦がちょうを攻撃してきた。安釐王は救援として晉鄙しんぴを派遣しようとしたのだが、秦の昭襄王しょうじょうおうは「趙に味方するやつから先に攻撃するぞ」と宣言。

 恐れた安釐王は晉鄙をぎょうに留めさせ、別に新垣衍しんがいえんを趙に派遣する。内容は、ともに秦を帝として仰ごう、と言う者だった。

 すると、ここにいたのが魯仲連ろちゅうれん、斉で武威振るわずあえいでいた田単でんたんに発破を掛けた、あの人であった。

「秦は儀礼よりもいくつ首を上げたかこそを功績と考える国。そんな国に天下を取らせるというのであれば、私は海に身を投げて死んだ方がマシです」

 魯仲連の言葉に、新垣衍は意を改め、秦にかしづかないことを誓うのだった。


 戦国四君の信陵君しんりょうくんは、安釐王あんきおうの息子である。信陵君もまた人をよく愛し、その食客も三千人に及んだ。そして平原君へいげんくんの妻が信陵君の姉と言う間柄でもあった。

 しんに攻め立てられていた趙から、信陵君に向けてひっきりなしに救援依頼の使者が飛ばされていた。信陵君も父を何とか説得しようとするが、動かない。すると食客の一人、侯嬴こうえいが言う。

「王と晉鄙将軍とで分かち合っている割り符を盗み出しておしまないなさい。それを突き付けて王命として命じ、それでもなお晉鄙将軍が動かないのであれば殺してしまうのです」

 信陵君は力士の朱亥しゅがいとともに晉鄙の元に向かい、晉鄙を殺害の上趙の救援に出た。ただ、父からの処罰を恐れて魏には戻らなかった。

 その後秦の矛先は魏に向かう。信陵君は故郷の救援を渋ったが、結局説得を受けて救援に駆けつける。すると各国の軍も魏に協賛、こうして秦軍を函谷関かんこくかんにまで押し込んだ。

 しかし、抵抗もそこまで。信陵君の死後、魏假ぎかが王として立ったが、間もなく秦に攻め殺され、魏は滅んだ。



○韓


 昭侯が死ぬと宣恵王せんけいおうが立つ。その三代下の王が桓恵王かんけいおう。このときしんの圧力を恐れ、ちょうに臣従した。が、間もなく長平ちょうへいでの大敗。その後、韓安かんあんが王となったのだが、秦によって攻め滅ぼされた。



○楚


 頃襄王けいじょうおうの時代、秦の白起によりえいが落とされたため、ちんに遷都。頃襄王が死に、考烈王こうれつおうが立った。更に壽春じゅしゅんに遷都した。


 懷王かいおうの臣下に、ひとりの大文人がいた。屈原くつげんである。彼は懐王のしん入りを強く反対したのだが、最終的には懐王の子のひとり、子蘭しらんに押し切られる形での出立を許してしまった。

 屈原は懐王の時代に大いに信任されていたのだが、しばしば讒言にあい、その立場を危うくしていった。そのときに自らの立場を嘆いてものした作品が『離騷りそう』、すなわち今日に『楚辞そじ』の一節として伝わる詩である。

 頃襄王けいじょうおうの治世下にあり、屈原は、ついに南の地への流刑が決まってしまう。屈原は世をはかなみ、川に身を投げ、死んだ。


 には戦国四君せんごくしくん春申君しゅんしんくん黃歇こうあつがいた。彼もやはり多くの食客を抱えつつ、宰相として国事を取り仕切っていた。またこのとき楚に招き入れられた論説家のひとりがちょうの人の荀卿じゅんけい、すなわち、荀子じゅんしである。

 平原君へいげんくんが春申君の元に食客を使者として送る。そのとき使者にはかんざしや剣のさやに豪華なあつらえものをさせて、その豪華さを誇ろうとした。しかし春申君の食客らは皆きらびやかな靴を履いており、それを見て平原君の食客は恥じ入ったという。

 趙よりやって来た李園りえんは、妹を春申君にめあわせ、妊娠を確認したところで考烈王こうれつおうに輿入れさせた。そして生まれた子が幽王ゆうおうである。李園は間もなく春申君を暗殺して証拠隠滅をなし、楚の国事を専断した。


 幽王が死に、弟の哀王あいおうが立てられるもやはり殺された。哀王の庶兄である熊負芻ゆうふすうが立てられたが、しんに攻め込まれ、滅んだ。




○秦


 昭襄王しょうじょうおうの時代に、より「范雎はんしょ」がやってきた。

 

 范雎はんしょははじめ魏に仕えていた。ある日斉への使者、須賈しゅかの配下としてともに出向くよう命ぜられる。

 齊王は范雎の見事な弁舌を聞き、召し抱えようとする。須賈は魏の機密を漏らしたのでは、と疑い、魏の宰相、魏斉ぎせいに告げ口した。魏齊は范雎をひどく鞭打ちし、あばらと歯を折るほどの怪我を負わせた。范雎が死んだふりをすると、魏斉は范雎をトイレに放り込み、人々に代わる代わる小便を掛けさせた。

 見張りに口利きして何度か脱出の叶った范雎、張禄ちょうろくと偽名して身を潜める。秦から王稽おうけいが使者として魏にやって来たときに会見し、こっそり秦に連れて行ってもらう。その後秦で立身を遂げ、宰相にまで至った。

 さて、魏より使者がやって来る。誰あろう、范雎を追い落とした須賈であった。范雎はわざとボロボロの服を着て、徒歩にて須賈に会いに行く。須賈は思いがけぬ再会に驚き、また范雎のなりを見て憐れみ、食事を与え、綺麗な着物を与えた。

 須賈が秦の宰相の張禄に会いに来た、と言うと、范雎は車の御者を申し出、自らの邸宅にまで案内する。そして「宰相様にお取り次ぎ致しましょう」と、屋敷に消える。

 屋敷で待つ須賈、しかしいつまで経っても范雎が出てこない。そこで屋敷の使用人に、范雎はまだ戻らぬのか、と問う。聞くと、使用人は「先ほどの方は我が国の宰相、張禄様ですが?」と答えた。この時初めて須賈は范雎に欺かれたことを知り、刑罰を受けるため上半身裸となって土下座し、罪をわびた。

 范雎は言う。

「貴様をあえて殺さずにいたのは、それでもおれに旧交の情を示してくれたからだ」

 それから范雎は諸侯よりの使者を招いて大宴会を開くが、須賈に与えられた席は末席の更に外であり、与えられた食事もまぐさであった。

「魏王に言え、我が元に魏斉の首をよこせ、とな。さもなくば貴様の国を攻め滅ぼしてくれようと」

 大慌てで魏に帰還した須賈が魏斉にこのことを告げると、魏斉は恐れて出奔し、やがて自刃して果てた。

 このように范雎は秦にて復讐を果たし、一食の恩にも、怨恨にも報いたのである。


 昭襄王は范雎と会見するなり、たちまち大臣に据えた。その范雎が昭襄王に授けたのが「遠交近攻」の策である。

 この頃秦の政治を取り仕切っていたのは魏冉ぎぜんであったが、范雎は彼を追い落とし、自らが代わって宰相の地位に就く。

 昭襄王は范雎の策にしたがって韓、魏、趙に派兵。斬った首は数万にも及んだ。これを大いに恐れたのが周の末代王、赧王である。諸侯に呼びかけ秦討伐の軍を立ち上げた。しかしこの行動によってむしろ秦よりの攻撃を受けた。赧王は咸陽かんように引っ立てられ、昭襄王に罪を詫び、周の保有地三十六郡を献上した。こうして周は滅びた。

 さて范雎であるが、長平ちょうへいで四十万の趙人を埋めて殺した白起と衝突していた。そこで白起を一兵卒の身に落とし、更に自殺のための剣を与えた。杜郵とゆうにて白起は自刃。この事態を受け、昭襄王が嘆息する。

「良将もおらぬのに、外には強敵が多いな」

 この言葉に范雎は危惧を覚えた。すると「蔡澤」が范雎に言う。

「季節は移ろい変わるもの。功為し遂げたものは去っておかれるが良い」

 こうして范雎は病と称して引退。蔡澤がその後任となった。


 昭襄王しょうじょうおうが死ぬと孝文王こうぶんおう嬴柱えいちゅう莊襄王そうじょうおう嬴楚えいそを経て、嬴政えいせいが立つ。そう、始皇帝しこうていである。

 始皇帝は趙の都、邯鄲かんたんに生まれた。昭襄王の時に、後の荘襄王は人質として趙に送り込まれていた。そこに近づいてきたのが、当時大商人であった呂不韋りょふいだ。荘襄王を見るなり「奇貨きかくべし」と語り、秦に潜り込むと孝文王の妻である華陽かよう夫人の姉に取り入り、庶子にすぎなかった荘襄王を後継に立てるようそそのかさせる。

 また荘襄王には邯鄲いちの美姫をめあわせた。なお彼女は事前に呂不韋の息子を妊娠していた。そうして生まれたのが始皇帝である。つまり始皇帝は、実は呂氏だったのである! ΩΩΩ<ナッナ

 昭襄王が死んで孝文王が立つも、三日で死亡。莊襄王が立つ。しかし荘襄王も四年で死亡。始皇帝は13才で王位に就くこととなった。


 始皇帝は母を太后に据えた。呂不韋はすでに秦の宰相として君臨していた。しかし太后と呂不韋の不義密通が発覚。この頃の始皇帝は既に成長していたため、呂不韋を自殺させ、太后も廃位する。その後幽閉したのだが茅焦ぼうしょうの諫めにより、母子の関係は元通りとなった。

 秦の高官らは、国外から来ている論客がそれぞれの国の利益のために動いているから、と彼らを追放した。いわゆる逐客令である。

 この動きに対し、外国からの論客のひとり李斯りしが言う。

穆公ぼくこう由余ゆうよ犬戎けんじゅうから、百里奚ひゃくりけいえんから、蹇叔けんしゅくそうから、丕豹ひひょう公孫枝こうそんししんから得ることで西の覇王となった。孝公こうこう商鞅しょうおうの法を用いて、今に至る強国の礎を築いた。惠文王けいぶんおう張儀ちょうぎの計略を用い、六国の協調を切り裂いた。昭襄王しょうじょうおう范雎はんしょを得て国力を高めている。過去の四君は皆外国人の力で功績を収めている。どうして外国人だからと秦に背くことがあろうか! 彼らを懐深く受け入れることこそが大国の度量であろうし、何よりも論客を放逐すれば諸外国の助けとなろう! 敵に武器を送り、盗人に食料を与えたいのか!」

 これを聞いて始皇帝しこうていは逐客令を撤回。また李斯にも官位を与えた。なお李斯は人で、「性悪説せいあくせつ」を唱えた荀子じゅんしの弟子である。やがて秦は李斯の政策を取り入れ、天下を統一するに至る。

 一方、同時期にかんの公族である韓非かんぴも秦にやって来ていた。その提示する政策は見事なもので、始皇帝も大喜びであった。このままでは自らの地位が失われると恐れた李斯、韓非に無実の罪を着せ、薬を飲んで自殺させた。


 始皇帝しこうていが覇道を進む。

 -230 年に內史ないしとうかんを滅ぼした。

 -228 年に王翦おうせんちょうを滅ぼした。

 -225 年に王賁おうほんを滅ぼした。

 -223 年に王翦がを滅ぼした。

 -222 年に王賁がえんを、-221 年に齊を滅ぼした。

 こうして秦が天下統一を為し遂げた。


 ここではわかりやすさ優先で始皇帝と書いているが、統一前の地位はあくまで王であった。未曽有の大事業を為し遂げたため、初めて「皇帝」と名乗ったのである。その德は三皇さんこうを合わせるほどのものであり、功績は五帝ごていを超越したから、と。


 命を「制」と呼び、令を「詔」と呼ぶこととした。またちんの自称を皇帝のみが使えるものとする。更に制を下して、言う。「おくりなをつける行為は、子が父を批判し、臣下が君主を評価する僭上である。以降この慣習は撤廃せよ。また朕ははじめの皇帝であるから始皇帝である。以降二世皇帝、三世皇帝とし、この数字がいつまでも続くようにせよ」と。

 なお。


 ○



 異常である。何だこの長さは。いじめだな。まあ春秋時代のことなぞ左伝でも読んでおけ、と言うことなのやもしれぬな。ではここから、春秋時代のときと同じくコメンタリーを進めて参る。

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