春秋時代

春秋時代概略

第3話 プロローグ・西周

 約2000文字。

 春秋戦国時代に入る前に、さらっと西周せいしゅうにも触れておこう。この国があったため、曲がりなりにもこの先の五百年間、一応は王として扱われたためである。



 周とは岐山きざん、いわゆる長安ちょうあんの西にある山の麓に広がる地域を指す。この地に周の武王ぶおうの曽祖父、古公亶父ここうたんぼが部民を率い入植。父の姫昌きしょう、のちの文王ぶんおうの代に殷王いんおうより諸侯として認められている。姫昌は善政を心掛けたため、外部の諸侯が次々と帰服。ついには天下の三分の二を治める、とまで言われるようになった。


 姫昌が死ぬとのちの武王、姫発きはつが立った。この頃、紂王ちゅうおうの無道が度を越していたため、これ以上放っておくわけにはいかないと盟津めいしんにて兵を揃え、兵力にて紂王を牽制。その施政を改めるべく期待した。しかし改まる様子はない。なので姫発は遂に殷討伐の軍を起こし、倒す。そして王の座についた。



 武王が死ぬと子の成王が継いだ。ただ、いまだ幼かったため武王の弟である周公旦しゅうこうたんがサポートをした。

 これに対し、周公旦の弟である管叔かんしゅく蔡叔さいしゅくがデマを流す。兄は幼子に乗じて好き放題する気だ、と。そして武庚ぶこうとともに乱を起こした。

 なお武庚とは紂王ちゅうおうの息子である。早い段階でしゅうに降っていたため、いんの旧領である東方を与えられていた。

 東方には未だ殷の政治を懐かしむ者がいたため、彼らの監視を三人に任せていた。その三人によって起こされた乱を、周公旦は自ら出征、鎮圧する。のちに三監の乱と呼ばれる。

 やがて成王が成人すると、周公旦は全権を成王に返却した。


 武王は鎬京こうきょう洛邑らくゆうという二つの都を造営しようと考えていた。しかし存命中には鎬京の造営までしか果たせなかった。父の意思を叶えるため、自らは側近である召公奭しょうこうせきとともに鎬京に留まり、周公旦に洛邑城の建築を任じた。こうして出来上がった二都は鎬京が西都せいと、洛邑が東都とうとと呼ばれた。なお後の長安ちょうあん洛陽らくようとほぼ同じ位置にあったとされる。

 王は基本的に西都にいるが、諸侯との謁見などは東都にて行う。そんな成王の政について、「きょう」より西を召公奭が、東を周公旦が補佐することとなった。



 成王せいおうが死亡すると、子の康王こうおうが立つ。この二代の間は平和であった。

 子の昭王しょうおうで溺れて死んだ。

 穆王ぼくおうのときにじょに封じた偃王えんおうが乱を起こした。穆王はに命じて徐を討伐させた。更に穆王は臣下の諫めも聞かずにむやみに軍を起こして犬戎けんじゅうを征伐。これにより辺境の民は周を敬わなくなり、諸侯らの間にも不和が起こった。


 そこから共王きょうおう懿王いおう孝王こうおう夷王いおうと代が続く。夷王の時には楚が王を自称し始めた。


 夷王が死ぬと、暴君厲王れいおうが立つ。好き放題した上告げ口を奨励し、厲王への批判をする者がいると聞いたら即殺させた。王は道ばたにさらされた被害者の死体をみて「これでまた謗りを防いだぞ」と言う。

 ある人が「臭いものに蓋をしただけでしょう。人の口を閉ざさせるのは川の氾濫を防ぐよりも難しいことです。ため池が決壊すれば多くの人を傷つけましょう。ならば飛語を力で押さえつければ、その反動がいかほどのものになりますことやら」と諫めたが、厲王は聞かなかった。

 結果、反乱が勃発。厲王はていに亡命し、王の不在に成り代わり周公しゅうこう召公しょうこうが国事を代行した。この時の執政体制を共和きょうわと呼ぶ。厲王は亡命先で死んだ。


 厲王れいおうが死ぬと、子の宣王せんおうが立つ。臣下に賢人たる召穆公しょうぼくこう方叔ほうしゅく尹吉甫いんきっぽ仲山甫ちゅうざんほらを召し抱え、内外を整え、しゅうを再興させる。


 が、その子の幽王ゆうおうが立ったとき、側妾の襃姒ほうじに入れあげてしまう。襃姒が笑おうとしなかったので、幽王は彼女をどうにか笑わせようと手立ての限りを尽くしたが、だめだった。

 あるとき「蛮族襲来」の狼煙が上がり、これを助けるため諸侯が軍を率いて救援にやって来た。だがその狼煙は手違いによるもので、実際に蛮族の襲来があったわけではない。これを見て、褒姒が初めて大笑いした。


 幽王は正妃であった申氏しんし及び太子の姫宜臼きぎきゅうを廃し、襃姒を妃に、子の姫伯服きはくふくを太子にすげ替えた。

 姫宜臼は母のふるさとであるしんに亡命。幽王は申氏の父、申侯しんこうに姫宜臼を殺すよう命じたが、聞き入れられない。そのため征伐の軍を立ち上げようとした。

 それを聞き、申侯は犬戎けんじゅうと手を結び、幽王に攻撃を仕掛けた。幽王は「蛮族襲来」の狼煙を挙げたが、諸侯が救援に赴くことはなく、かくて幽王は驪山りざんの下で犬戎に殺された。


 幽王亡きあと、姫宜臼が立つ。平王へいおうである。ただし西都周辺では犬戎の攻撃が激しくなってきていたため、東都に王城を移した。故にここから「東周とうしゅう」と呼ばれる。春秋時代の開幕である。





 以上が、十八史略における西周のあらましである。ここからは各タイミングの各国について、併記的に紹介して参る。いちおう周を頭に据え、えんせい、中原諸国(ていえいそうちんなど)、しん及び三晋、(ついでにえつ)、しんの順番に配する。記事がない際も「ない」とは付記しておく所存である。

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