落雷令嬢トリエノの華麗なる国家転覆
ただのわんこ
第一章
第1話 落雷
エンハンブレ王立刑務所は、コンステラシオン王国の都・ティエラの外れに位置していた。
高貴なる者がその血を穢すような罪を犯した時、彼らはこの牢に入れられる。絢爛豪華なドレスや装飾品は全て徴収され、罪人に与えられるのは麻で編まれた服のみ。
今まで社交界の華として崇められてきた、どんな貴族であろうともその粗末な服では見る影もない……と思われた。
しかし、ガラクシア公爵家の令嬢——マルテだけは違った。彼女の魂が持つ輝きは、その冷たい鉄格子の中でも失われることはなく、むしろ薄暗い地下を煌々と照らす。
酷く座り心地の悪い石で出来た椅子に背筋を正して座っている彼女の姿を一目だけでもよいから拝もうと見回りの兵は執拗にその牢の前をすれ違う。
「あれが稀代の悪女だって?」
「何かの間違いじゃないか……」
気品漂うマルテの姿を視界の端に捉えながら兵たちはコソコソと囁き合う。
「あんなに小さくてお可愛らしいのに……」
「色も白くて、あのちっちゃな窓から差し込む陽に照らされた金髪なんかソル・イーロかと疑ったよ」
「女神の生まれ変わりに違いねえ……」
彼らは、彼女が犯した罪も知らずにそんな会話を交わす。もちろん、そのささやきはマルテにも聞こえていたのだが、彼女はそれに対して異を唱えることはない。
彼女はただ祈っていた。
自分の食事の為に与えられたパンを小さな窓へと供え、その前で膝をついたマルテは胸の前で両手を組む。その信心深いマルテの姿に、兵たちはさらに心を打たれた。
「彼女が、マルテ様が……罪人なわけがねえ……!!」
老兵が掠れた声で呟けば、周りの者たちとウンウンと頷いた。
「そうだ、そうだ……!」
「違いねえ……!」
「マルテ様は、こんなところで裁かれるべきお人じゃないさ!」
「全くもって全ての意見に同意致しますわ……」
そんな兵たちの荒々しい叫びにじっとりと湿った声が混じる。
「……ん?」
そのことに気付いたのは、まだこの刑務所に左遷——異動して、一ヶ月も経っていない新兵であるサビオだった。
「いま、どなたか……若い女性の方の声が……」
サビオがサイズの合っていない兜を押し上げながら辺りを見回すが、どこにも女性の姿はない。もちろん、このエンハンブレ王立刑務所に務める兵士たちはほとんどが男であるし、見回りを担当する兵に女はいない。
だからこの場に女がいるはずがないのだ。
「なんだぁ、サビオ……オメエもマルテ様の美しさに酔っちまったかァ〜?」
調子のいい中年兵のノマダがサビオのことを笑うが、彼は訝しむことをやめない。
「いや、確かに聞こえたんですよ……こう、なんというか……じっとりした、女の人の声が……」
食い下がるサビオに兵士たちはしらけた顔をする、
「馬鹿言えよ、サビオ」
「こんなところにマルテ様以外の女がいるはずがねえだろ」
呆れる兵士たちは、サビオのことを軽く小突いた。その拍子にサビオの身体はよろめいた。真面目な彼は皆が着込んでいない重い鎧を真面目に着込んでおり、ちょっと押されるだけでも後ろに転げそうになる。
そんな彼が尻餅をつかずに済んだのは何か壁のようなものに背中が当たったからだった。
もしも、それが本当に牢獄の壁だったのならばサビオの鎧はガシャンと音を立てただろうが、全く音は鳴らなかった。
それどころか、小さく鎧が軋む音すら壁に吸い込まれる。サビオは鈍色の鎧越しの感覚ながらそれが固い壁ではない、別のものだと察していた。
しかし、まさかそれが〝人〟だとは気付かない。
「——あのぉ」
じっとりと、湿った声がサビオの頭上から降りてくる。
「ここに……マルテ・ガラクシア様がいらっしゃるとお聞きしたのですがぁ……」
柳の枝のように伸びた黒々とした髪が、サビオの肩に絡みつく。
「どこに……いらっしゃるのでしょう……」
白くて細長い、魚の骨のような指が傾いた兜の位置を直す。ようやく開けた視界からサビオが声の主を見上げると彼女は僅かに開いた前髪の隙間からニコッと微笑む。
まるで、
「こ……こちらです……」
同僚たちが叫び声を上げて逃げ惑う中、サビオが顔色を悪くしながらも彼女をマルテが収監されている牢まで案内出来たのは彼の生涯で最も偉大な行いとなった。
*
小さな窓から陽が差し込む牢で祈りを捧げていたマルテは、自分の背中に影が落ちたことに気付くと折っていた膝を伸ばして、立ち上がった。
「——何故来たの?」
銀で作った鈴が鳴るような声で問うマルテに、牢の前に立った女はわなわなと唇を震わせるだけで何も答えない。それに痺れを切らせたマルテは、彼女がいる方を振り返る。
「私が尋ねたことに答えなさい、トリエノ・ベンティスカ」
マルテは目の前にいる女を見上げながら鉄格子を握った。
彼女がその名を呼んだのは、ベンティスカ子爵令嬢——社交界にその名を轟かせているわけでもなく、政治的な地位を確立しているわけでもなく、爵位もそれほどまで高くない。平凡な貴族、ベンティスカ家。その末の娘こそがトリエノだった。彼女もまたパッとしない家名と同じく特に目立たぬ令嬢であった。
しかし、そう思っているのはおそらく一部のものたちだけ——。
「ま……マルテさまぁ……!!」
彼女が伸ばした手はいとも簡単に鉄格子の間をすり抜けるとマルテの背中に回った。その腕の長さにマルテはギョッとするが、そこから逃れようとはしない。
「わた……わたくし……悔しゅうございますぅ〜〜〜〜ッ!!」
わぁ〜んッと人目も気にせず泣き喚くトリエノにマルテは耳を塞ぐ。
「悪いのは第二王子様とアマンテとかいう立場も弁えぬ女であって、マルテ様ではございません〜〜〜ッ!!」
「そ、そうね……私も、そう思うのだけれど……」
「それなのにどうしてこのような仕打ちをマルテ様がァ〜〜〜〜ッ!!」
「分かっているわ……だから落ち着いて……」
「どお゛じでぇ゛ッ〜〜〜〜!??」
「分かった、分かったから!いい加減、鉄格子ごと私を抱き締めるのはおやめなさい……!!」
泣き叫ぶトリエノに抱き締められながら、マルテは必死に彼女を慰める。
その異様な光景をサビオは遠巻きに眺めていた。
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