【10/1TAMAコミサンプル】聚合怪談 妖 十九本目_べとべと

丑三五月

十九本目 べとべと


 田舎の工場で働いているHさんは、とてもマメで綺麗好きな人だ。

 彼女が務める工場は昔から工業団地の隅の方にある古い会社で、内装も経年劣化が著しく、お世辞にも綺麗とは言い難い。また創立年数は長くとも所謂中小企業という括りの会社なので、外部の清掃会社を入れる余裕も無い。そんな訳で、古ぼけたリノリウムの床を毎日磨くのはHさん達社員が手分けして行う、というのが決まりだった。

 ただでさえ人手が足りないので多くの社員は見える所を程々に、小綺麗に見える様に掃除しただけで済ませるのだが、Hさんはどうにも細かい性格で、途中で切り上げることが出来なかった。部屋の角に埃が少しでもあるとどうしても気になるし、天井の隅に小さな蜘蛛の巣があると直ぐに払い落としたくなる。けれど、それをするには朝の三十分程度では時間が足りなかった。

 そうしてHさんが選んだのは、自分が早めに出社して掃除の時間を確保するというものだった。そういった対応は世間的には賛否両論あると思うが、彼女の職場は昔ながらの町工場の様なざっくばらんな所があって、Hさんが一人早めに出社していても誰も咎めない上、今日も精が出るねなんて声をかけられる事の方が多かった。そういった声を掛けられると、Hさんは嬉しいと感じ、やり甲斐があると思う性格をしていたので当人達の間では問題無く日々の仕事は回っていた。


 そんなHさんには、小さな悩み事があった。それは、一階の廊下掃除の担当の日に必ず起きるとある事だ。

 廊下掃除の担当者は事務室の前から階段の前、そしてゴミ置き場の扉の前まで一週間担当する事になるのだが、その不可解な事は一週間のうち一日、必ず起きていた。

 木曜日になると、床が異常に汚れるのだ。

 水曜日まではぴかぴかとまではいかなくとも通行時も気にならない位の状態なのだが、木曜日の朝に来てみると、安全靴の底に妙な引っ掛かりを覚えるくらい、床がベタつく。その奇妙なベタつきは階段の前が一番酷く、たまに降りてきた人が足を取られて前につんのめりそうになる程だ。

 そんな訳で、廊下掃除の担当者は何時も一週間気が重そうだった。それはHさんも例外では無い。むしろ彼女の様な綺麗好きこそ、毎日綺麗にしているのになぜ汚れるの、と憤りを覚えていた。

 Hさんが廊下掃除の担当になった時は、木曜日だけは何時もより早めに来るようにしていた。普段は少しモップをかければ綺麗になる床も、この日は重労働になる。洗剤を混ぜた水にモップをつけてよく絞り、何度も廊下を行き来する。これがなかなかきつい。しかしHさんは根気よく床を磨いて、毎回皆が来る頃にはベタつきを綺麗に取り除いていた。

 そんなマメな彼女なので、何度も掃除する内にその汚れが何処から始まっているのか気が付いた。それは何時も階段の前から廊下の隅を抜け、ごみ捨て場の扉の前まで続いている。この工場には偶に夜勤があるので、その担当者の誰かが汚しているのでは……そう考えた事もあったものの、工員が汚れた靴で歩いて居るにしては汚れの範囲が広すぎる。結局汚れの原因は何も掴めず、Hさんは首を捻りつつもこの不可解ないたちごっこを続けるしか無かった。


 そんな日が唐突に終わりを告げたのは、Hさんが一人珍しく遅くまで残業した時の事だった。

 基本的にHさんの会社は規則正しいスケジュールで回っており残業はあまり無かったのだが、その時は不運が幾つか重なってしまった。繁忙期な上、納期が近づいている品物の生産が間に合っておらず、尚且つ機械の調子も悪かった。結局Hさん達が仕事を終えたのは九時過ぎで、その片付けに残っていたHさんは帰る頃には十時を過ぎていた。

 疲れきって重い足取りで作業場を後にし、工場の二階にある更衣室で着替えを済ませ、ついでに二階の戸締りを済ませて階段を下っている時に、Hさんははたと気が付く、そういえば今日は水曜日だと。

 階段の踊り場を回った時に、Hさんは思わず足を止めた。一階から、異様な臭いがする。まるで腐りかけた生ゴミの様な悪臭は、先程まで全く感じ無かったのに一階の暗闇の中から確かに存在感を強くして、此方へ向かって来ている様な気がした。

 Hさんは戸惑って一瞬立ち尽くしたが、気を引き締めてハンカチで口と鼻を覆って暗闇へと降りていく。工場の品物でこんな異常な臭いを放つ物は無いが、何かのトラブルだったら大事である。そうであったなら直ちに上司に報告しなくてはならない。真面目なHさんの脳裏にはそんな考えが浮かんでは消えた。

 階段を下った先に降り立つと、右側から何か湿った音がした。途端に心臓が跳ね上がり、Hさんは身体を強ばらせる。頭のおかしな浮浪者が侵入してきたのではないかという考えが過ぎったからだ。工場にはセキュリティシステムを付けているが、何しろ古い建物なので、抜け道は幾らでもある。

 私物の肩掛けカバンの紐を両手で握り締め、Hさんは恐る恐る音のした方へ歩を進める。この先にはごみ捨て場がある筈である。怪しい人物がごみを漁っていたなら、直ぐに逃げ出して警察に通報しよう。そう心に決めて角を曲がると、そこに何者かの影を見つけた。


 非常口の看板の無機質な緑色に照らされたそれは、なんとも形容し難い姿をしていた。


 それは、頭のてっぺんからつま先までどろどろとした茶色の液に包まれた、人型の何かだったからだ。

 驚愕してその場で凍り付いた様に固まったHさんとは反対に、それはふらふらと左右に揺れながら少しずつ此方へ向かって来る。前に突き出した両手の様なものは、まるでゾンビ映画を彷彿とさせる。それが前に進む度に、ずるりと廊下にナメクジが這った跡の様な滑りが描かれて行く。びしゃり、と先程聞いたばかりの湿った音が廊下中に響き渡る。どろどろとした頭の中に、辛うじて両目に見える窪みと口の様な穴を見つけ、そこからおっ……おっ……という音が聞こえてくる事に気付いた瞬間、Hさんは絶叫しなりふり構わずその場から逃げ出した。


 次の日、会社に行くのが恐ろしくて仕方無く、しかし繁忙期に休む訳にもいかず何時もより遅く出勤してきたHさんは、階段の前で今週の廊下掃除の担当者に鉢合わせた。

 担当者の、Hさん今日は寝坊したの、まあたまにはあるよねとほのぼのとした挨拶を聞いて少し肩の力が抜けたHさんは、彼女が支えにしているモップ先が広がる床を見下ろす。

 ベタついた床に、工員たちの靴の足跡が浮いているのが、生理的な嫌悪感と得体もしれない恐怖をもう一度思い起こさせて、Hさんはまた身震いした。目を閉じるとまたあの悪臭が蘇ってくる気がして、Hさんは挨拶もそこそこに更衣室へ逃げ込み、その日の仕事は気もそぞろなまま終えて、残業もせず逃げ帰った。


 結局、その出来事があってからHさんは得体もしれない恐怖に耐えられず、仕事に身が入らなくなってしまい、その工場を辞めてしまった。あのどろどろとしたあれが何だったのかは、何一つ分かって居ない。

 Hさんに分かる確かな事と言えば、床の汚れから読み取れるあれの意味不明な行動だけだ。

 あのドロドロとした何かは、水曜日の夜ごみ捨て場から出てきて、階段の前まで辿り着いて、暫く佇んだ後またごみ捨て場へ戻っていく。その決まった動きをまるで機械のラインのように規則正しく、永遠に繰り返している。その目的は何一つ分からない……それが何故か、Hさんにはたまらなく恐ろしいのだ。




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