鬼を狩る男

 翌日、零士は憂鬱な気分であった。

 己を取り巻く世界は、想像以上に複雑なもののようだ。しかも、これから恐ろしいことが起きようとしている。

 にもかかわらず、自分には何も出来ない。この先、何が起きるのかはわからないが、手をこまねいて見ているしかないのか。

 いや、出来ることもあるはずだ。




 昼食の時、思い切って大橋に聞いてみた。


「すみません、この島のことを聞かせてください。父は、何をやっているんですか?」


 大橋は顔を上げ、鋭い目でこちらを見つめる。確かに大橋には迫力がある。以前に通っていた中学の不良生徒など、比較にならない凄みを感じた。柔道選手の経歴は伊達ではない。

 だが、あいつとの会話に比べればマシである。そう、ペドロに比べれば怖くはない。零士は彼女に圧倒されながら、それでも引かなかった。

 少しの間を置き、彼女は口を開いた。


「今は言えない。けど、そのうち嫌でもわかる時が来るよ。だから、それまで待ってなさい」


「どうして待たなくちゃいけないんです?」


「統志郎さんが、そう言っているからよ」


 その答えに、零士は苛立った。完全に子供扱いされている、そう感じたのだ。


「今じゃ駄目なんですか? 後で知るのも、今知るのも同じじゃないですか?」


「それは違うよ」


 かぶりを振りながら、大橋は答えた。


「物事には、段階ってものがあるの。五十キロのバーベルを持ち上げるのがやっとの人間に、百キロのバーベルを持ち上げさせようとしたら、どうなると思う?」


「それは……持ち上がらないです」


「持ち上がらないだけなら、まだいいよ。関節を痛めて、入院することだってある。私は柔道をやってた時、そういう人間を何人も見てきた。物事にはね、必要な段階ってものがある。焦って先走ってたら、いい結果を生まないから」


 大橋の話には、なるほどと思わせる何かがあった。かつて、スター選手とオリンピック代表の座を争った人間の経験によるものか。その説得力ある言葉に、零士はいつの間にか聞き入っていた。


「君はこれから、知らなくちゃならないことがたくさんある。そのうちのいくつかは、納得しづらいことかもしれない。でも、統志郎さんはその納得しづらいことを、自ら進んでやっている。全ては、島に住んでいる人のためなんだよ」


 不意に、大橋の表情が変わる。悲しげな顔つきで、再び語り出した。


「世の中には、人のやりたがらない仕事がある。一見すると、ひどいと思うような仕事だよ。でもね、誰かがやらなくちゃならないことでもある。でないと、世の中は回っていかないことなんだ」


 そこで、零士は口を開いた。


「大橋さんは、それを知っているんですか? 知った上で、父さんの下で働いているんですか?」


「そうだよ。私だけじゃない。上野さんも知ってる。この島の住人は、みんな知ってる。知った上で、統志郎さんに協力している。君もいずれ、知ることになるから。君だけには内緒にしておく、なんてことにはならないよ。それだけは、わかって欲しい」


「はい」


「前にも言った通り、私はあの人を尊敬してる。違う価値観を持つ人たちの架け橋になっているんだよ。最初は、私も凄く驚いた。だけど、段々とわかってきた。今は、統志郎さんのやっていることを応援している」


 語る大橋の顔つきは、先ほどと変わらない。悲しげな表情を浮かべている。

 正直なところ、零士には何を言っているのかわからなかった。具体的な話は、一切でてこない。

 ただ、それが小学校の教科書に出てくるような綺麗事でないのはわかる。善か悪か、その単純な二元論では割り切れない話をしているのだ。

 この島で行われていることは、もしかしたら悪と呼ばれる行為なのかもしれない。だが、それは必要なことなのだと大橋は思っているようだ。


「世界のあちこちで、今も大勢の人たちが殺し合っている。人間は、未だに人種の違いですらクリア出来ていない。その人種の違いよりも、さらに難しい問題に、統志郎さんは挑んでいる。いつか、解決しようとしているんだよ。そのこころざしを、君にも受け継いでもらいたいって思っている」


「何だか、難しすぎてわからないです」


 率直な気持ちを答えた。それに対し、大橋は頷く。


「うん、それは仕方ないよ。今は、まだわからないだろうね。でも、いつかは知らなきゃならない時が来る。その時までは、この島の生活を楽しんで欲しいな」


 そこで、大橋の表情が和らいだ。


「君は、中学生になったばかりでしょ。若い時、特に大人でも子供でもない時間は、過ぎてしまえばあっという間だよ。でもね、これから大人になっていく上で大事な期間なのは間違いない。君には、その大事な期間を悔いなく過ごして欲しい。統志郎さんも、そう思っているはずだよ」


 ・・・


 その夜、森の中をふたりの女が歩いていた。

 片方は上野麻理恵である。半袖シャツでも汗ばむ気温だが、彼女は長袖シャツを着ており額からは汗が流れていた。懐中電灯を片手に、慎重に進んでいる。

 傍らにいる女性は、上野よりも若く小柄だ。肌は白く体つきは華奢で、黒髪は長い。上野と同じく長袖のシャツを着ているが、汗は全く出ていなかった。明かりは持っていないが、暗闇の中を何の苦もなく進んでいる。

 どちらも、美しい顔に険しい表情を浮かべている。特に上野は、緊張していることが傍目にもわかるような状態である。零士と話している時のような気さくさは、微塵も感じられない。

 それも仕方ない話だった。ここ数日の間に、島民がふたり姿を消している。さらに、旅行者もひとり行方不明になっているらしいのだ。

 その上、島のあちこちで奇妙な外国人の姿が目撃されていた。ここ数十年、犯罪はおろか事故の報告すらなかった島だというのに、とても異様な事態である。

 ひょっとしたら、夜季島の秘密を探りに来た海外のスパイかもしれない。そのため、彼女たちは島のパトロールをしているのだ。ふたり一組で行動しているのも、統志郎の指示である。

 不意に、傍らの女が鋭い声を発した。


「ちょっと止まって!」


「どうしたの?」


 血相を変える上野に、女は前方の大木を指さした。


「そこに誰かいる!」


「えっ?」


 上野は、慌てて指さす先を照らし出した。同時に、女が怒鳴る。


「そこに隠れてる奴! さっさと出てきな!」


 直後、木陰から何者かが姿を現した。上野は、男の顔に明かりを向ける。

 身長は、上野より低いだろう。だが、体つきはまるで違う。胸板は常人離れした分厚さで、Tシャツの袖から覗く二の腕も太い。顔の造りは濃く、日本人ではないだろう。

 上野は、すぐに悟った。この男が、島を徘徊している外国人だ。それも、かなりの危険人物である。すぐさまポケットに入れていたスタンガンを取り出した。

 しかし、彼女の目の前にいるのは、最凶最悪の犯罪者・ペドロである。スタンガンごときで、どうこう出来るような相手ではないのだ。

 そのペドロは、ふたりの前で恭しく一礼した。


「はじめまして。君が上野麻理恵さんだね。そして、あなたは……」


 言いながら、ペドロは傍らの女性を指差す。その顔に、不気味な笑みが浮かんだ。


「名前は知らないが、鬼だ」


 途端に、女の表情が変わった。次の瞬間、上野を思い切り突き飛ばす。ペドロの恐ろしい本性を見抜いたのだ。


「こいつヤバい奴だ! 上野さんは逃げて! すぐ統志郎さんに知らせて!」


 叫んだ直後、女の姿は変化した。瞳は紅く光り、口からは鋭い犬歯が覗く。鉤爪の伸びた手を振り上げ、襲いかかっていった。

 しかし、ペドロは表情ひとつ変えない。襲い来る怪物を無視し、向きを変えた上野めがけ何かを投げつける。

 上野の両足に、紐状の物が絡みついた。足を取られ、彼女は倒れる。だが、ペドロはそちらを見ていなかった。彼は怪物の攻撃を冷静に見切り、後方に大きく飛び退いて攻撃を避ける。その顔には、挑発的な表情が浮かんでいた。かかって来い、とでも言わんばかりだ。

 女は、野獣のような唸り声をあげた。さらに前進し、追撃を試みる。だが、突然に地面が消えた──


 女は、いきなり空いた穴へと落下していく。底には、先の尖った杭が仕掛けられていた。その体は、一瞬にして串刺しになる──

 ペドロは、穴を見下ろした。女は仰向けの状態で倒れ、腹を太い杭に貫かれていた。普通の人間なら、即死していてもおかしくない。

 だが、女は生きている。苦痛に顔を歪めてはいたが、それでも手足を振り回し脱出を試みているのだ。

 その様子を、ペドロは興味深そうに眺めていた。


「やはり、この程度では深手とはなりえていないようだね。では、これならどうかな」


 言いながら、ペドロはポケットからタバコの箱を取り出した。一本抜き取り口に咥え、マッチで火をつける。

 その時、女は驚くべき行動に出る。自身の腹を貫いていた杭を、いきなり折ってしまったのだ。細い腕からは想像もつかない腕力で、己の太腿と同じくらいの太さの杭をへし折ったのである。

 次いで女は、その杭をぶん投げた。弾丸のような勢いで、ペドロめがけ飛んでいく。

 しかし、ペドロは慌てなかった。ほんの僅か己の立ち位置をずらしただけで、放たれた杭を躱す。

 と同時に、火のついたマッチを穴に投げ込んだ。途端に、凄まじい爆音が轟く。落雷でもあったかのような轟音だ。穴の底には、液体の爆薬が撒かれていたのである。土や杭の破片が、穴の外まで吹き上がった。

 女も、爆音と共に吹っ飛ばされた。その体は四散し、もはや原型を留めてはいない。それでも、各部分はピクピク動き続けている。肉片となりながらも、まだ生命活動は途絶えていないらしい。

 その異様な光景を見ながら、ペドロは楽しそうに笑みを浮かべる。


「ほう、これでも動き続けているとはね。これは、研究のしがいがある生命体だな」


 そんなことを言いながら、ペドロは別のものに視線を向ける。

 そこには、上野が倒れていた。足にはワイヤーがしっかり巻き付いており、動きを封じている。もっとも、腕だけは動くことが出来た。そのため、這いずって進むことは出来たはずだが、それすらしようとしない。どうやら、倒れた拍子に頭を打ち気を失ってしまったらしい。

 ペドロは、そっと近づいていく。上野の体を担ぎ上げると、そのまま闇の中へと消えていった。







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