始まり

 気がつくと、足元に血溜まりが出来ている。

 零士は、思わず後ずさっていた。いったい何が起きているのだろう。恐る恐る、周りを見回した。

 血溜まりの中に、何かが転がっていた。人間の体だろうか。いや、首がなかった。

 壊れたマネキンか。いや、マネキンは血を流さない。つまり、これは死体なのだ。血溜まりは、この死体から出たのだ。

 次の瞬間、と目が合った。

 そこに立っているのは、紅く光る目を持つ怪物だった。半開きの口からは、鋭い犬歯が見える。緑色の肌をしており、鉤爪の生えた手は何かを握りしめていた。

 

 人間の腕だ──


 怪物は、人間のちぎれた前腕を両手で握りしめている。口からは、赤い液体が滴り落ちていた。間違いない。こいつは今、人を殺した。死体から、腕を引きちぎり食べているのだ。


 次は、僕が殺される。

 殺されて、食われる。 


 そこで、目が覚めた。

 零士は、ふうと息を吐く。上体を起こし、周りを見回した。窓から見える風景は暗い。まだ、夜中のようだ。

 またしても、あの夢だ。いったい何の意味があるのだろう。あの怪物は何なのか。


(その夢は、事件と関係あるんじゃないかな。君にとっては、思い出したくない記憶の可能性もある。怪物は、つらい記憶を表しているのかもしれないね嫌なら、無理に思い出す必要はないんだよ。君は若いし、無限の可能性があるんだ。未来だけを見つめていればいい)


 入院していた時、医師に言われた言葉だ。さらに、医師は薬を処方してくれた。それからは、入院中の零士はどうにか眠れるようにはなった。しかし、今は飲んでいない。そのため、あの夢を見たのか。

 また、薬を処方してもらった方がいいのかもしれない。そんなことを思いつつ、零士は再び眠りに落ちていった。


 零士は気づいていなかった。扉が少し開いており、僅かな隙間から彼をじっと見つめている者がいたのだ。夕方から出勤してくるメイドの女だった。

 眠りについた零士を見て、彼女はそっと扉を閉めた。




 翌日。

 昼食を食べた後、零士は自転車に乗ってみた。都会と違い、道は舗装されていない。地面は土で、でこぼこがある。慎重に進まないと、倒れてしまいそうだ。

 そんな道を、自転車で慎重に進んでいく。考えてみれば、自転車で見知らぬ場所を探索するのも久しぶりだ。

 初めて自転車に乗れるようになったのは、小学一年生の時だ。零士は、嬉しくてあちこち走り回ったのを覚えている。

 だが、すぐに気付かされた。都内は、歩行者と車が多いため思い切り走ることが出来なかった。また信号も多く、すぐに停止させられる。結果、歩くのとさして変わらない速度で走っていた。

 そんなことを思いつつ自転車を走らせていた時だった。不意に、周囲の風景が変化する。森から草原へと変わり、海が見えてきた。

 

 テレビやネットでは、夏になると「海に行かない奴は、人生を損している!」とでも言わんばかりに、海の風景や楽しそうに戯れる水着の女の子たちを映し出す。

 今までの零士は、そうしたものを冷めた目で見ていた。もちろん、彼も男の子である。水着の女の子たちの映像を見て、心にざわめくものを感じないわけではない。だが、反発を感じていたのも確かだ。僕は主体性のある人間だ、こんな夏に海で騒ぐような連中とは違うんだぞ……という意識の方が先に立っていた。

 ところが、今こうして海を見ていると、とても穏やかな気分になってくる。ここの海岸に、騒がしい若者たちはいない。聞こえるのは、海鳥たちの鳴く声や、遠くから聞こえる船のエンジン音などだ。

 零士は自転車を停め、風景をじっと眺めていた。見ているだけで、満ち足りた気分になってくる。

 都会に住んでいた時は、どこに行っても誰かがいた。他人の存在を、常に意識していた気がする。

 母と暮らしていた頃の零士は、外に出かけて遊ぶのを好まない少年だった。今になって思えば、どこにでも付いて回る他人の存在が一因だった気もする。

 夜季島では、その必要がない。人の目を意識しなくてもいいのだ。何より、豊かな自然が穏やかな空間を作り出している。

 明日は、自転車で港まで行ってみよう。毎日、島を少しずつ自転車で回るのだ。この島のことを、もっとよく知るために……零士は、そんなことを思いながら屋敷へと帰っていった。




「零士! 帰ったぞ!」


 屋敷に帰り、部屋でうとうとしていた零士だったが、いきなりの声で眠気を吹き飛ばされた。声の主が誰であるかは考えるまでもない。父の統志郎である。いつの間にか、部屋の中に入り込んでいたのだ。スーツ姿で、零士の前に立っている。

 

「あっ、おかえりなさい──」


「零士! キスさせろキス!」


 いきなりそんなことを言ったかと思うと、統志郎は零士を抱き上げてしまった。とんでもない腕力で、当然ながら抵抗など出来ない。

 次の瞬間、頬に唇を押し付けてくる──


「ちょ、ちょっと!」


 零士は、顔を真っ赤にして抵抗した。だが、統志郎に離す気配はない。それどころか、ますますキツく抱きしめて唇を押し付けてくる。


「んー、可愛いなあ零士は! ほっぺもプニプニで柔らかい!」


 そんなことを言いながら、今度は頬をチュウチュウ吸い出したのだ。

 と、そんな統志郎の腕を掴んだ者がいた。


「いい加減にしてください。零士くんが嫌がってるじゃないですか。セクハラおやじと一緒ですよ」


 冷静な声を発したのは大橋である。言われた統志郎は、しぶしぶ息子を下ろした。

 ホッとする零士だったが、まだ終わりではなかったのだ。


「ちょっと待て。セクハラおやじとは何だ。零士、お前は父さんにキスされるの嫌か?」


「えっ? いや、その、何を言ってるの?」


 困惑する零士だったが、横から大橋が口を出す。


「嫌に決まってるじゃないですか。上野さんや、メイドのたちみたいな美人にキスされるのならともかく、父親にキスされて喜ぶ中学生男子なんか、どこの世界にもいませんよ」


 冷たい口調で言い放つ。途端に、統志郎の表情が変わった。見る見るうちに顔が歪み、ガクッと肩を落とす。


「そうか、零士は父さんのことが嫌いなのか。そうかそうか」


 そんなことを言ったかと思うと、いきなり床に座り込んだ。膝を抱え下を向き、ブツブツ言い出したのだ。


「いいよいいよ。どうせ父さんのこと、うざいオヤジとか思ってんだろ。好きで好きで愛してる息子から、そんな扱いを受けるなんて……ああ、なんて悲しい話なんだ。俺は生きるべきか死ぬべきか」


 とんでもないことを言っている。零士は、仕方なく父の前にしゃがみ込んだ。


「そんなこと思ってないから。僕も、父さんのこと好きだよ」


 言った途端、統志郎は顔を上げた。


「ほ、本当か?」


「本当だよ」


「じゃ、これからもキスしていいんだな!?」


 勢いよく聞いてくる。さすがに、この状況で嫌だとも言えない。


「ちょ、ちょっとくらいなら……いいよ」


「うわーい! やったー!」


 雄叫びと同時に立ち上がった。勝ち誇った表情で、大橋の方を向く。


「聞いたか、零士も俺のことが好きなんだって。やっばり俺と零士は、相思相愛なんだなあ! わっはっは!」


 わあわあ騒ぎながら、統志郎は部屋を出ていった。その後ろ姿を見ながら、大橋は溜息を吐く。


「まったく、子供と一緒なんだから……どっちが大人だか、わかりゃしない」


 ・・・


 その夜──




 島の海岸付近を、ひとりの男が歩いていた。秋田隆一アキタ リュウイチという名で、島の住人だ。たまに、懐中電灯を片手に見回りをするのが習慣となっている。異常がないかどうか確認するだけのものであり、特に注意すべきことがあるわけでもなかった。見回りというより、寝る前の散歩といった方が正確だろう。

 ところが、その日は異変を見つけてしまう。


 秋田は、懐中電灯の明かりを茂みへと向けた。そこに、人がしゃがみ込んでいたのだ。こんな場所に、用もなくうろつく住人はいない。旅行者が迷い込んだのだろうか。

 あるいは、本土から密漁者が来たのかもしれない。この島では、漁が禁止されている。にもかかわらず、わざわざここまで来てアワビやナマコを獲ろうと企てる者がいるのだ。


「どなたですか? そこで何をしているんです?」


 秋田が声を出した。この男、普段は港にあるコンビニエンスストアで働いている。背はさほど高くないし、体格も大きな方ではない。しかし、護身のため催涙スプレーと警棒を所持している。もっとも、あくまで念の為に持っているのであり、使ったことはない。

 茂みに潜んでいた者は、すっと立ち上がる。慌てている様子はなかった。普通、悪事を発見された者は何かしらのリアクションをするものだ。しかし、この男にはそれが無い。いったい何をしていたのだろう。

 秋田は、怪訝な顔で相手の顔を見つめる。どうやら外国人のようだ。武器らしきものは持っていない。顔には、にこやかな表情を浮かべている。危険はなさそうだ。もしかしたら、単に道に迷っただけなのかもしれない。

 だが、秋田はわかっていなかった。彼の目の前にいるのは、ペドロという名前の男である。秋田がこれまで遭遇した人間の中で、トップクラスの危険人物なのだ。

 そのペドロは、笑みを浮かべつつ口を開く。


「君は、島の住人のようだね。そして、人間だ」


「はあ? あんた、何を言って……」


 秋田は、そこで顔をしかめる。ペドロの発した言葉の、本当の意味に気づいたのだ。

 ということは、この外国人は夜季島の秘密を知っている。知った上で、ここにいるのだ。


「お、お前は何者だ!? 島に何しに来た!?」


 その声は震えていた。ライトを持つ手も、小刻みに揺れている。

 しかし、照らされる側の人間は平然としていた。


「俺は、頼まれた仕事をしに来たのさ」


 言うと同時に、ペドロは動く。その動きはあまりにも自然で速く、予備動作もない。秋田は、全く対処できなかった。所持していた催涙スプレーや警棒を出す暇もない。

 ペドロは、音もなく接近していた。手を伸ばし、秋田の体に触れる。零コンマ何秒、という間の出来事だ。そこで、ようやく秋田は反応した。触れられたことに気づき、慌てて対処しようとする。だが、あまりにも遅すぎた。

 次の瞬間、秋田の体は地上を離れていた。さほど大きくないとはいえ、確実に六十キロ以上はある成人男子の身体である。それを、ペドロは片手で持ち上げてしまったのだ。

 それだけでない。次にペドロは、掴んでいた手をパッと離した。ほんの一瞬ではあるが、秋田は宙に浮いていたのだ。

 直後、その身体は一回転した。まるで無重力空間にいるような動きをしたかと思うと、すぐに頭から落ちた。いや、ペドロの手で地面に叩きつけられた、という方が正確だろう。グシャリという音が、暗闇の中で響き渡った。

 ペドロは、冷たい目で男を見下ろす。秋田の首は、おかしな方向に曲がっていた。生きている人間では、絶対にありえない状態である。

 秋田は首がへし折れたことにより、生命活動を停止してしまった。この男とペドロが出会い言葉を交わしてから、一分も経っていない。つまり、一分前までは互いの存在すら知らぬ完全な赤の他人であった。にもかかわらず、一瞬で殺されてしまったのだ。

 ペドロの方はというと、何事もなかったかのような様子で立っている。人ひとりの命を奪ったというのに、その表情は先ほどと何ひとつ変わっていなかった。歩くのに邪魔な石ころを排除した、程度の感覚しかないらしい。

 彼は手を伸ばし、死体となった秋田を無造作に担ぎ上げる。そのまま、海岸を歩いていった。


 秋田の死は、いわば島のに対する宣戦布告のようなものだった。

 この島で、ペドロという最凶の犯罪者が引き起こすことになる数々の事件の、ほんの序章でしかなかったのだ。





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