茨木統志郎
「どうかしたの?」
大橋に聞かれ、零士はきょとんとなった。
今、ふたりは昼食を食べている。昨日のカツカレーの残りだが、はっきり言って美味しい。少なくとも、普通の家庭で出せる味ではない。
にもかかわらず、零士は今ひとつ食が進んでいなかった。そんな時、いきなり大橋に声をかけられたのだ。
「えっ? 何がですか?」
聞き返すと、大橋はじっと彼の顔を覗きこむ。
「さっきから変だよ。心ここにあらず、って感じだね」
「そ、そうですか?」
実のところ、零士の頭は先ほど起きた出来事に支配されていた。
船で出会った、ペドロという名の外国人。彼は何を思ったか、零士の家にまでやって来た。挙げ句に、こんなメッセージを残していったのだ。
(この島には秘密がある)
秘密とは、いったい何なのだろう。全く見当がつかない。
いや、それ以前に……この島に関して、零士は何も知らないのだ。彼はスマホを持っていないし、ネット関連の知識もない。一応、事前に図書館にある本で夜季島について調べてみたものの、あまり詳しくは書かれていなかった。
つまりは、豊かな自然に囲まれた田舎だろう……そんな風にしか、思っていなかったのである。いきなり秘密などと言われても、困ってしまう。
その時、零士の頭にひとつの考えが浮かぶ。目の前にいる女なら、何か知っているかもしれない。
「大橋さん、この島は……その……」
秘密があるのですか? と聞こうとしたが、慌てて言葉を飲み込む。秘密という以上、それは聞かれたくないことであるはずだ。おいそれと話してくれるはずがない。
それ以前に、お前はなぜそんなことを聞くのか?
などと言われたら、どうすればいいのだろう。まさか、変な外国人にストーカーされてるみたいで……とは言えない。
「ん? この島が、どうかしたの?」
言葉に窮している零士に、大橋は聞いてきた。女兵士のごとき厳つい彼女を前にし、零士はまごつくばかりだ。
そんな零士に向かい、大橋はとんでもないことを言い出した。
「まあ、いいや。ところで、明日は上野さんに島を案内してもらうことになってるからね」
「えっ?」
「九月になったら、島の中学校に通うことになる。今のうちに、最低限の地理を知っておいた方がいいでしょ。上野さんと一緒に行ってきなさい」
「あっ、はい、わかりました」
答える零士だったが、その時になってふと思いついたことがあった。
「あの、昨日いたメイドさんたちは、今どこにいるんですか?」
聞いた途端に、大橋はじろりと睨む。
「何? ひょっとしたら、誰か気に入った
「ち、違いますよ!」
「あの娘たちは、夕方から出勤してくるから。もうちょっと待ってなさい。でも、勘違いするんじゃないよ。いやらしいサービスなんかしないからね」
「わかってます!」
昼食を終えた後、零士は二階の部屋へと戻った。改めて、先ほどのことについて考える。
あのペドロという男は、間違いなく自分に宛ててこのメッセージを書いたのだ。
いったい、何を伝えようとしているのだろう?
その時、足音が聞こえてきた。次いで、トントンとノックの音。
「零士くん、ちょっといい?」
大橋の声だ。
「あっ、どうぞ」
答えると、大橋はそっと入ってきた。零士に、睨むような視線を向ける。いったい何の用だろうか。零士は迫力に圧倒され、思わず後ずさる。
だが、その口から出たのは想像もしていなかった言葉だった。
「君の趣味は、何?」
「えっ? 趣味ですか?」
零士は混乱した。いきなり何を言い出すのだろう。それに、趣味は何? などと聞かれても困る。そもそも零士は、趣味などといったものとは無縁だった。スポーツは、はっきり言って見るのもするのも嫌いだった。ゲームの類いは持っていないし、興味もなかった。
「趣味は……ないです」
おずおずとした態度で答えると、大橋は少し困ったような表情を浮かべる。
「そう。だったら、何か欲しい物はある? 時間はかかるかもしれないけど、たいていの物は取り寄せられるよ」
言われて、零士は考えた。だが、何も出てこない。そもそも、何かを欲しいと思った記憶がなかった。幼い頃は、母に迷惑をかけまいと、欲しいものがあっても我慢していたのである。それが続くうちに、物欲のない性格になっていたのだ。
ひとり遊びを好んでいたことも、その性格に拍車をかけていた。物が欲しいという気持ちが生まれるためには、友人の存在が大きな要因となる。友人が、カッコいい服や面白い玩具を持っているのを見て羨ましくなる……幼い頃は、そういった体験が物欲に繋がっていくものだ。しかし、零士には友人がいない。だからこそ、物欲がないまま成長してしまったのだろう。
自分が欲しい物は、いったい何なのだろうか? 改めて考えてみたが、何も思いつかない。
そんな零士を見て、大橋はふうと溜息を吐いた。
「君は、自分の欲しい物が何なのか、それさえわかっていないんだね」
「す、すみません」
「謝らなくていいよ。君は若いから、これから時間をかけて見つけていけばいいの」
言った後、大橋の表情が少しだけ和らいだ。
「君は、この島に向いてるかもしれないね」
「えっ、どういうことですか?」
「ここは、都会に比べて娯楽もないし、刺激的なスポットがあるわけでもない。若い子が暮らすには、面白みに欠けるところだと思う。だけど、君みたいにのんびりした性格の子なら、それが苦にならないかもしれないね」
「わかりました」
「それと、屋敷の裏に自転車が置いてあるよ。もし良かったら、乗ってみて」
やがて夜になり、統志郎が帰ってきた。
相も変わらず、騒がしい男である。家に入ってくるなり、ドタドタという足音が響き渡る。
階段を上がり、ノックもせず零士の部屋のドアを開けた。
「零士! 帰ってきたぞ! キスさせろキス!」
言うが早いか、零士を抱き上げ頬に唇を押し付ける。有無を言わせる暇もなしだ。
「なあ、今日は何してた!? 後で、父さんと相撲でもとるか!?」
抱き上げた体勢のまま、そんなことを言ってくる父。零士は、目を白黒させるばかりだ。このままでは、本当に相撲をやらされかねない。
だが、そこに救いの神が現れる。大橋だ。つかつか入ってきて、統志郎の腕を掴む。
「零士くんが困ってますよ。早く降ろしてあげてください」
「わ、わかったよ」
渋々ながら、父は零士の体を降ろす。直後、大橋に引っ立てられるようにして出ていった。
残された零士は、苦笑するしかなかった。この島にどんな秘密があるかは知らないが、少なくとも父とは無関係だろう。あの能天気な男では、どんな秘密だろうと抱えてはいられないだろう。
だが、それは間違いだったことを知らされる。
その後、零士は父と夕食を食べていた。大橋も、同じ席で食べている。統志郎はハイテンションで喋りまくり、零士は苦笑しつつも相手をしていた。
すると、大橋が横から口を挟む。
「零士くんは明日、上野さんと一緒に島を回ることにしました」
「なるほど! それはいい! 大橋さんは、本当に気が利くなあ!」
統志郎は笑いながら、零士の方を向く。
「零士! 大橋さんはな、この家のお母さんみたいな人なんだぞ! ハハハハ……」
そこで大橋に睨まれ、統志郎は慌てて口を閉じる。さすがに、母を亡くしたばかりの少年の前で、この発言はマズいと気づいたらしい。
一方、零士は箸を動かす手を止めた。少しの間を置き、口を開く。
「父さんは、なんで母さんと離婚したの?」
どうしても、頭から離れてくれなかった疑問。聞いてはいけないような気がして、これまでは口にすることが出来なかった。
しかし、今なら聞ける。というより、このタイミングを逃したら聞けない……そんな気がした。
統志郎は無言のまま、零士の顔を見つめる。その時、大橋が動いた。音もなく移動し、そっと部屋を出ていく。
ややあって、統志郎は口を開く。
「離婚というのはな、様々な要因が重なって起きる。これが理由だ、なんて簡単に言えることじゃないんだ。ただ、あえて言うと……俺は、この島を離れるわけにはいかなかった。しかし、母さんは夜季島では暮らしたくなかった。それが、一番の大きな理由だと思う」
「そ、そうなの?」
「俺は、母さんを愛していた。だから、時間をかけて話し合った。けど、無理だったよ。価値観の不一致っていうのはな、もうどうしようもないんだ」
そこで、統志郎は微笑んだ。しかし、どこか悲しげでもあった。
複雑な表情で、父は語り続ける。
「俺には俺の事情があり、価値観がある。母さんには母さんの事情があり、価値観がある。話し合いを重ねていけば、お互いに歩み寄り、どうにか帳尻を合わせ妥協できるラインを見つけられるかと思った。だが、無理だったよ」
統志郎は、そこで言葉を切った。零士を、じっと見つめる。零士の方は、普段とは全く違う雰囲気に圧倒され、思わず目を逸らしていた。
少しの間を置き、統志郎は語り出す。
「俺は、お前にも夜季島にいて欲しい。出来ることなら、俺の仕事を継いで欲しいとも思っている」
「仕事?」
「そうだ。俺はな、この夜季島の……その、何だ、責任者なんだよ」
聞いた瞬間、零士は愕然となっていた。責任者だと? どういう意味だ?
その時、これは冗談なのではないか? という考えが頭に浮かぶ。そう、父は明るく愉快な男だ。ひょっとしたら、これも暗くなった場を和ませるための冗談かもしれない。
「じょ、冗談だよね?」
「冗談なんかじゃない。俺は、この島で一番偉いんだよ。しかしな、その分しなければならないことも多い。責任も重大だ。だからこそ、夜季島を離れられない。これは、俺の背負わなければならない宿命だと思っている」
統志郎の顔は、真剣そのものである。冗談には思えない。その雰囲気に呑まれた零士は、ただ聞いていることしか出来なかった。
「さっきも言った通り、お前には俺の後を継いで欲しい。だがな、無理にとは言わないよ。島での生活が嫌なら、都会の高校に入ればいい。その時は、俺も出来る限り援助させてもらう」
その時、零士の頭にもうひとつの疑問が浮かぶ。母と暮らしていた時から、思っていたことだった。
「母さんのことは、援助してなかったの?」
「えっ?」
「母さんは、夜の仕事をしていたんだよ。夜になると仕事に行ってた。大変そうだったよ。母さんに、援助はしてくれなかったの?」
訴える零士に、統志郎は目を背ける。
少しの間を置き、語り出した。
「俺は、母さんの事情はわからない。だが、ひとつだけ言い訳をさせてもらうなら、俺は今までずっと養育費を払っていた」
「ほ、本当に?」
それは初耳だった。もっとも、母親とそういった類いの話をしたことはない。漠然と、父は援助してくれていないのだと思っていた。
「ああ。多い、とは言えない額かもしれない。それでも、毎月決まった額の養育費を振り込んでいた。お前が二十歳になるまで、支払うことになっていたんだ。これは、法的に証明できる。今まで支払っていた証拠を、お前に見せることも出来るぞ」
父の話に、今度は零士の方がうつむいていた。
実のところ、そう言われて納得できる部分はある。零士が小学生の時、母は夜の仕事をしていなかった。いつも家にいてくれたし、一緒に夕飯を食べていた。あの頃は、まだ生活に余裕があった気がした。
ところが、中学生になったあたりから状況は変わる。母は化粧をして、出かけるようになった。帰ってくるのは夜遅くだ。それも、毎晩である。
夜の仕事をしているのだ、ということは零士にも理解できた。中学生にもなれば、薄々わかってくることもある。だが、零士は何も言わなかった。昼は給食があるため問題なかったが、夕食はスーパーやコンビニの弁当になっていたし、朝もパンだけで済ませるようになっていた。それでも、文句を言わず従っていた。
全ては、母がひとりで生活費を捻出しているから……そう思っていたのである。まさか、父が養育費を送ってくれていたとは知らなかった。
その父は、優しい表情で語り続ける。
「母さんは、個人的にお金が必要な事情があったのかもしれない。だが、俺にはわからなかった。お前に会うことはもちろん、個人的に連絡を取ることも禁止されていたんだ」
「そうだったの?」
これまた意外な話だった。まさか、母がそこまで父を嫌っていようとは……。
困惑する零士に、統志郎は頷く。
「ああ。俺は、すっとお前に会いたかった。だが、お母さんはそれを許してくれなかったんだ。たまに会うことすら、認めてくれなかった。だがな、これからはずっと一緒にいられる。今までの埋め合わせをさせてくれ」
・・・
その頃、島ではちょっとした異変が起きていた。
夜季島の東側の海岸は、ゴツゴツした岩場が多い。足場は悪く、時おり高波も襲ってくる。地元に住んでいる者でも、用がない限り近づかない場所だ。しかも、ここには明かりがない。夜になれば完全な暗闇である。この状況で明かりもなしに海岸を歩くのは、地雷源を進むのと同じくらいのリスクがあるだろう。
そんな危険な岩場にて、人が歩いているのだ。その人物はペドロであった。ダイビング用ウェットスーツを着ており、暗闇の中を迷うことなく進んでいく。
やがて、ペドロは動きを止める。海面に、何かが浮かんでいるのだ。片手を伸ばし、浮かんでいたものを引き上げる。
大きなアタッシュケースだ。樽のようなものがロープで結び付けられており、浮きの役割をしているらしい。ペドロはダイバーナイフを抜き、ロープを切った。次にアタッシュケースを両手に抱え、再び岩場を歩いていく。
やがて、彼の姿は闇に消えた。
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