夏休みの終わる時
板倉恭司
プロローグ
頭がぼんやりしている。視界にも、霧がかかっているような状態だ。どうやら、眠っていたらしい。
目をこすりながら、上体を起こす。途端に、妙な肌寒さを感じた。同時に強い違和感を覚え、周囲を見回してみる。
ここは自宅ではなかった。それどころか、屋内ですらない。どこかの森の中だ。下は土だし、周りは大木に囲まれている。上を見れば、木の葉の隙間から陽の光が射していた。ということは、今は昼間なのだろうか。
いったい何が起きたのか。零士は立ち上がると、前に歩き出した。直後、自分が裸足であることに気づく。しかも、目に付けているのは湿った寝間着だ。その上、あちこちに染みが付いていた。チョコレートのような色の染みが付着しているのだ。
さらに混乱した。では、自分は染みの付いた寝間着のまま裸足で家から飛び出し、挙げ句に森の中で眠ったというのか。有り得ない話だし、そんなことをした記憶もない。
それ以前に、ここがどこなのかもわからない。今までに、見たこともない場所である。零士の自宅は、住宅地に建っているアパートだ。その一室に、母ひとり子ひとりで暮らしていた。周囲に、こんな森はないはずだ。
途端に、強い不安が全身を襲う。ここはどこなのだ? 自分はなぜ、こんな場所にいる? わけがわからないまま、歩き続ける。
ふと、前に読んだ小説を思い出した。主人公が、現代の日本から中世ヨーロッパ風の文化を持つ異世界へと転移してしまう……という内容である。
ひょっとしたら、知らないうちに異世界へ転移してしまったのだろうか。ならば、ステータスオープンなどと言ってみるべきなのだろうか。などと、バカな考えが頭を掠める。
その時だった。どこかから、人の話す声が聞こえてきた。零士は、慌ててそちらに向かう。でこぼこの道をどうにか歩き、茂みを抜け、音の源と思われる場所に出る。
そこは、山道のようだった。目の前には、中年の男女がいる。どちらも長袖のシャツを着ており、背中にはリュックを背負っていた。どうやら登山客のようだ。ふたりとも足を止め、唖然とした表情でこちらを見ている。茂みの中から、いきなり姿を現した少年に面食らっているらしい。
零士の方はというと、ぺこりと頭を下げた。
「す、すみません。ここは、どこでしょうか?」
「えっ? ここは
中年の男が、戸惑いながらも答える。だが、その答えは零士をさらに混乱させた。ガカザン? 聞いたこともない地名だ。
「あ、あの、それはどこですか?」
「白土市の蛾華山だけど……君、大丈夫か?」
心配そうに聞いてきた中年男だったが、零士の方はそれどころではなかった。
「し、白土市!?」
言ったきり、呆然となっていた。零士の自宅があるのは
何も言えずにいる零士に向かい、中年女が口を開く。
「とりあえず、私たちの車で近くの交番まで行ってみる?」
聞かれた零士は、はいと答えるしかなかった。
この中年夫婦は、大変に親切な人たちであった。趣味の山歩きを中断し、初対面の零士を近くの交番まで送り届けてくれたのである。
客観的に見れば、山の中を寝間着に裸足でフラフラ歩いていたのだ。完璧なる不審人物だろう。しかも、ここがどこかもわかっていないのだ。変なクスリでもやっているのでは、と警戒されても不思議ではない。にもかかわらず、わざわざ自分の車に乗せ連れて行ってくれたのだ。
もっとも、零士という少年は、他人に警戒心を起こさせにくい外見の持ち主であるのも確かだった。彼の身長は百四十五センチで、十三歳という年齢を考えても小柄な部類であるのは間違いない。体重も四十キロあるかないか、かなり華奢な体格である。顔つきも中性的で、ワイルドさとは無縁の風貌だ。いざとなれば、女性と格闘しても取り押さえられてしまいそうな雰囲気を醸し出している。
事実、この少年は法に触れるような行為に興味はなかった。信号無視すらしない。町で悪さをする不良少年とは、完全に真逆のタイプだった。
零士は、ひとまず近くの交番へと保護された。その後、パトカーで警察署へと移動する。だが、同行する制服警官の態度は妙によそよそしい。心なしか、こちらを警戒しているようにも見えた。
やがて警察署に到着すると、奇妙な部屋に連れて行かれた。広さは四畳ほどで、机とパイプ椅子が設置されている。パイプ椅子は二脚あり、向き合う形で置かれていた。
若い警官は、片方の椅子に零士を座らせる。
「ここで、ちょっと待っててね」
そう言うと、警官は出ていった。
すぐ家に帰れるだろう……そう思っていた零士は、困惑しながら部屋の中を見回してみた。
コンクリートの壁に囲まれた部屋は殺風景で、不安な気分をかきたてられる。ひょっとしたら、ここは犯人を取り調べるための部屋なのではないだろうか。自分は、何もしていないのだが……。
こんな部屋で何をするのだろうか、などと思っていた時、ドアが開いた。スーツ姿の男が、のっそりと入ってくる。
「やあ零士くん。君に、ちょっと聞きたいことがあるんだ」
そんなことを言いながら、男は向かい側の椅子に座った。年齢は、三十歳から四十歳くらいか。紺色のスーツ姿で、銀ぶちメガネをかけている。肩幅は広くガッチリした体格で、目つきは異様に鋭い。そこらのヤンキーやチンピラなど、比較にならない迫力ある面構えである。
零士は、あまりの怖さに思わず目を逸らした。だが、相手はお構いなしに話しかけてくる。
「俺の名は
低く、凄みのある声だ。口調も乱暴である。こちらに対する気遣いなど、微塵も感じられない。
「い、いや、本当に何も覚えてないんです」
か細い声で答えると、木下の表情は険しくなった。
「何も覚えてないはずないだろう。あんな山の中に、パジャマ姿で歩いてた……どう考えても変だよ」
「だから、何も覚えてないんですよ。目が覚めたら、あそこにいたんです」
そう答えるしかなかった。なぜ、あんなところにいたのか……こちらが聞きたいくらいだ。
「目が覚めたら? となると、眠っていたのかい?」
「はい。目が覚めたら、山の中にいたんです」
「そうか……」
呟くような声だったが、その目は零士をしっかりと捉えたままだ。睨むような目つきに圧力を感じ、零士はうつむいた。なぜか、教師に説教されている時のような気分になっていた。
ややあって、木下は再び口を開く。
「では、質問を変えよう。君の覚えている最後の記憶は何だい? 出来るだけ詳しく聞かせてくれ」
「ええっと……いつもと同じです。学校から帰って、遊んで、夕飯食べて、寝た。そんな感じです」
「それは、いつ頃の記憶だい?」
いつ頃、とはどういう意味だろうか。困惑した零士は、思わず聞き返していた。
「ど、どういうことですか?」
「では質問を変えよう。それは、何曜日の記憶だい?」
何曜日か、それなら答えられる。
「確か金曜日でした」
聞いた途端、木下の眉間に皺が寄った。
「金曜日か……間違いないかい?」
「はい。夕飯の時、明日は休みだねって母と話したことを覚えてます」
「確認するよ。君は金曜日、学校から帰って遊んだ後、自宅で夕飯を食べて寝た。で、起きたら、いつの間にか蛾華山にいた。これで間違いないね?」
「間違いないです」
神妙な顔つきで、零士は答えた。
木下の目が、すっと細くなった。直後、とんでもない言葉が放たれる。
「実はね、金曜日の夜に君の捜索願が出ていたんだよ」
「えっ……」
愕然となっていた。捜索願だと? どういうことだ? 意味がわからない……。
混乱している零士に向かい、木下は冷静な口調で語り続ける。
「六月三十日、土曜日の深夜一時、真幌警察署に君の母親である
木下の語っていく話は、零士には全く覚えのないことだった。呆然となり、ただ聞いていることしか出来なかった。
「お母さんの話によれば、君は金曜日の夜から土曜日の深夜一時頃まで、家に帰っていなかったことになる。となると、今の話とは食い違うね。君の記憶違いか、あるいは君が嘘をついているか、だ。どちらだろうね?」
その時になって、ようやく言葉が出た。
「そ、そんな……どういうことですか!?」
「聞いているのは、こっちだ。君は、金曜日に外出しているはずなんだよ。どこに行っていたんだい? 正直に言ってくれ」
木下の態度はにべもない。冷酷な表情で、こちらを見つめている。その迫力に零士は圧倒されながらも、どうにか声を振り絞る。
「か、母さんと話をさせてください!」
「それは無理なんだよ」
冷たい口調だった。
「なぜですか!? なぜ、母さんと話が出来ないんですか!?」
泣き出しそうになりながらも、零士は訴える。しかし、次に放たれた言葉がとどめとなった。
「風間由美さんは、何者かの手で殺害されたんだ」
えっ……。
殺害、された?
じゃあ、死んだってこと?
聞いた瞬間、零士の頭の中を様々な思いが駆け巡る。いきなり山の中で目覚めた。警察には自分の捜索願が出ており、母は何者かに殺された。いったい、何が起きたのだ。十三歳の少年には、もはや受け止めきれない事態だった。
直後、零士の意識は遠のいていった──
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