第十三話 浅瀬船中学校⑦
遠藤侑帆は意識を失ってはいたものの、菅原の吐き出した水の中で息を吹き返した。大量の水が落ち着くのを待ってから渡されていたスマートフォンで正門の外で待機している警察の鷹村さんに連絡をし、遠藤侑帆を発見したので救急車を呼んでほしいと伝えた。僕も菅原も遠藤侑帆も──そして市岡凛子さんも、寒空の下で頭のてっぺんからつま先までずぶ濡れになっていて、少なくとも僕は明日熱を出すだろう、そんな予感がした。
菅原が遠藤侑帆を小脇に抱えて先頭に立ち、その後ろに僕と市岡凛子さんが続いた。用務員室から正門までの距離は思ったよりも長くなかった。鬼火は全部消えていた。確認はしていないが、北棟、中央棟、南棟の少なくとも一階は真っ黒い水で押し流されたせいでめちゃくちゃになっていると思う。だがそれをどうにかするのは浅瀬船中学校の関係者の役目であり、それぞれの依頼を片付けた僕たちには関係ない。一切関係のない話だ。
「侑帆!」
と金切り声を上げる遠藤母と終始冷静な警察の諏訪さんが救急車に同乗し、遠藤侑帆は病院へと運ばれて行った。いったいどういうことなのかと迫る遠藤父の目の前に、市岡凛子さんが小さな紙切れを翳した。菅原の水に浸かったはずなのに、紙切れは乾いていた。
「侑帆さんは、これを所持していました」
冷たい声だった。近くのコインパーキングに停めていた車から、長田さんがたくさんのタオルを持ってきてくれる。こんなこともあるのではないかと準備してくれていたらしい。それに着替えも。渡されたタオルで髪の毛や体を拭く。レザージャケットもびしょびしょだ。帰ったらちゃんと手入れしないと、もう着れなくなってしまうかもしれない。それは困る。このジャケットは、父の形見でもあるのだ。
「なんだよ、そんな、紙切れ……」
遠藤父の声が揺れる。市岡凛子さんが低く笑う。
けものの声で笑う。
「これは、苅谷夜明に持たせていた市岡神社の札の一部です。侑帆さんの同級生が引き裂いたものを修繕して再度夜明の入院先に置いてはありますが、確認したところ真ん中で引き裂かれた以外に、五箇所を引きちぎった痕跡があった。そのうちのひとつを、あなたの息子が持っていた」
「だっ……だから、なんだって言うんだよ!! うちの息子だって被害者だ!! 訳の分からない、化け物みたいなやつに取り憑かれて……なあ先生、そうだろう!?」
先生と呼び掛けられたのはもちろん光臣で、光臣は完全に他人事のような顔で煙草に火を点けて「路上喫煙禁止ですよ」と警察の鷹村さんに注意されていた。
「ああ……なんです?」
「先生からも言ってやってくださいよ! 侑帆も被害者なんだって!」
「はあ」
煙草の箱をコートのポケットに突っ込んだ光臣は静かに目を細め、じっと市岡凛子さんの手元の紙切れに見入る。
「市岡神社の札を破ったものを、所持していた?」
「そう」
市岡凛子さんが大きく頷く。
「私が
「こう仰ってる。だったらそうなんでしょ、遠藤さん。あんたの息子は、苅谷夜明が大事に持っていた札の一部を破ってそれを戦利品にしていた」
戦利品。嫌な響きだと思った。だが、的確な喩えでもあった。
あらまあ、と菅原が驚いたような声を上げる。まあ気持ちは分かる。光臣だもんな。光臣が急にまともなこと言ったら、そりゃびっくりだよな。
「侑帆さんは、自分で、化け物を引き寄せた」
化け物の正体は、少なくとも僕と菅原にはもう分かっていた。
光臣が何を考えているのかは知らない。ここで待ってただけのくせに心底疲れた様子で大あくびをした光臣は、
「今回の依頼、今更ですが断りますよ。パブリックイメージもありますし、何より勝てない勝負はしない方でね。他の保護者の方にも、その旨お伝えください」
「な──なんだ、その言い方! この詐欺師!」
「なんでも結構。帰るぞ長田、車を出せ」
「はあ、でも先生……」
マネージャーの長田さんは完全に腑に落ちていない。無理もない。だが光臣に「帰る」と繰り返されて、渋々といった様子でコインパーキングの方に走り去って行った。
「市岡さん」
光臣が呼んだ。市岡凛子さんが顔を振り向ける。
「錆殻は手を引きます。残りは
「あなた方!」
響野憲造が大声を張り上げる。そういえばいたんだっけ。
ボイスレコーダーを勢い良く突き出す響野は、相変わらず木偶のように立ち尽くす浅瀬船中学校の教頭、保健医、理科教師を真っ直ぐに指差して、
「次回は法廷でお会いしましょう!」
「そうね。夜明が目を覚ましたら、あとは息子が引き受けるでしょうから。いじめを見て見ぬ振りしてひとりの学生を追い詰めたという学校側の責任は、公の場できちんと裁いてもらいましょうね」
大学の、近藤栄教授にもらった名刺のことを思い出していた。少し前に苅谷夜明さんの入院先の病院で出会った人当たりの良さそうな弁護士さん。今回の件の代理人をしているという。
これで、一旦は終了か。謎解きはすべて終わっていないけど。
そう思ったら膝から力が抜けた。ぐらりと揺れた体を、菅原が捕まえてくれる。寒い──眠い。
「●●●」
誰かが僕の名前を呼んだ気がした。
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