Last work
呼京
Last work
あと一つ、何かが足りないと思った。この空間に足りないものは一体なんだろうか。色彩豊かな絵画。海と、森と、街の広場に花畑。今にも動き出しそうな二体の彫刻。石工と木彫り。それから磨き上げた甲冑と一点ものの煌びやかなドレス。どちらにも瑞々しい偽りの花を添えて、飾り付けた。一概に「派手」なだけが良いとは言えないが、この作品はこうあるべきであったのだ。
そのほかにも展示品は所狭しと飾った。訪れるであろう客の動線を入り口から順にたどる。限りなく気持ちを客に近づけて…。男性だったらどう感じるか、反対に女性だったら。子ども、大人、年寄……訪れる可能性はどのタイプ人間にも等しくあるだろう。それから展示室の全体が見渡せる二階の吹き抜けに立ってじっくりと眺める。完璧な展示会には何かが足りなかった。欠けているピースは一体何なのか。新しくしたスツールに腰掛けて、夕日に染め上げられた壁を眺めた。
そうか、足りないものは――
すっかり遅くなってしまった。どれだけ遅くなってもいいから君に来て欲しいと連絡が来た時には本当に嬉しかった。最終チェックと称してはいるものの、ほとんどすべて一人で準備してしまう先生の展示会は既に完成形だろう。実質僕は一番初めのお客さん。誰よりも早く新作を見ることが出来るし、過去の作品もいくらでも見ることが出来るということだ。なんて幸運な機会に僕は恵まれたのだろう。先生に弟子入りしてから一番近くで作品を見てきて、自分の力を伸ばしてきた、…つもりだ。なかなか褒められることは無かったが、気まぐれに伝えてくれる講評は良いにも悪いにもありがたかった。僕の作品を憧れの先生が見ていてくれる、それだけで十分に幸せで僕のやる気は尽きなかった。
展示会の会場についたときに既に日付が変わってしまっていた。カーテンのかかったいくつかの窓からは光が漏れていない。すでに準備は終わっていて、先生は奥の作業部屋で休んでいるのだろうか。遅くなってしまった僕にも責任はある。申し訳なさと戦いながら、鉄の扉にフクロウの顔を象った、古びた金色のドアノッカーを二度三度打ち付ける。カンカンカン、と子気味の良い音が、静寂の中に響く。どうしたのだろうか。いつもすぐに迎え入れてくれる先生がやってこない。もう一度打ち鳴らす。しかし、一向に返事はなかった。
不思議に思いながら試しにドアノブをひねると、カギはかかっていなかったらしく簡単に開いた。薄暗い入り口に一枚の紙きれが落ちていた。拾い上げて見ると何やら書いてあるようだった。走り書きのメモはかろうじて読めるくらいの汚さで、この暗さだとじっくり見ないと読めなかったが、確かに先生の筆跡で書かれていた。
「もう一つ展示したい作品を思いついた 私はその準備をしている
君のことだから 案内が無くても私の作品は楽しめるだろう
最終チェックも頼みたいところだが 一足早い客として私の世界を巡ると良い」
僕の思っていたことが先生にはお見通しだったようだ。公認の一足早い客として展示品を楽しむことにした。
だが、さすがに暗すぎる。どうして明かりを消してしまったのだろう。最終チェックを兼ねるなら暗すぎると良く見えないのではないか。何か明かりになるものがあればいいのだが……。
そう考えていると、ぽわんと小さな明かりが僕の目の前に現れた。
展示会の受付用に片付けられていた、先生のコレクションの一つのアンティーク調の机。その上に置いてあった金色のランタンに青い光がゆっくりと点滅している。よく見てみると、青い光を放つ虫が何匹か中に入っていた。何もないよりはましだろう。このランタンを借りて展示品を見ながら、照明の電源を探すことにした。
いつもは明るい光の下で見ているから、ほとんど真っ暗な部屋の中で青い光に照らされた作品を見るのは新鮮だった。先生の作品は現実志向で、絵画も彫刻も現実を写し取ったかのようだ。精巧な写真のようで、もしかすると写真よりも現実に近いものがあるかもしれない。港町が描かれていれば、そこから潮風が吹いて海の香りがしてきそうだった。見た人の中には小波の音が聞こえた、なんて言う人もいた。人物が描かれていれば、肌の質感や髪の艶などからリアルな「生」を感じることが出来た。絵の中の人物に向かって挨拶をすると返事をしてくれる、なんてうわさもあった。
ジャンルにとらわれず、気まぐれにしたいことをする先生だったが、絵画だけでなくもちろん彫刻も作っていた。「今にも動き出しそう」という言葉が本当にぴったりと当てはまる彫刻ばかりで、静の中に埋め込まれた動を感じることが出来た。
一足先に見ているから、という特別感もあってか、よりリアルに感じられる作品たちは不気味ささえ感じた。明かりをつけてしまったら、作品たちは本当に動き出してしまうかもしれない。そんなことを考えながら、そういえば今日は月がきれいに出ていたと思い出す。この分厚いカーテンを開ければ、作品たちを驚かさない程度に、そして僕が展示品を見るのに少しは見やすくなるくらいには明るくなるのではないだろうか。物は試しだ。心もとなく光ったり消えたりするランタンを、壊さないように床に置き、僕の身長の二三倍あるのではないかという大きさの窓にかかったカーテンを開ける。
手をかけて、横に引くだけで容易く開くはずなのだが、僕の手は少し開けただけで止まってしまった。ここに来る時、深夜であるのに明かりが無くても何も困らず歩けるほどに明るかった。見上げた夜空に思わず立ち止まって、じっくりと見てしまいそうなほど満天の星だった。そんな記憶に残るほどきれいな月夜であったのに、窓の向こうは炭で塗ったような漆黒が広がっていた。月明りどころか、星明りすら姿を消している。窓ガラスを塗りたくったように真っ黒であった。ランタンをかざしてみても外が照らされることは無い。ぽわん、と浮かぶ光は窓ガラスに反射して、僕の顔を不気味に照らし出した。
ざわり。胸騒ぎがし始めた。
カーテンを閉めて大きく深呼吸する。ここはもしかすると、なんて考えが頭をよぎる。現実離れした考え方はいけない。でももしそうだったら?先生は、どこに?
不安を押しやるように僕の髪が風に揺れる。さっきカーテンを開いたときに、窓はしっかりと閉まっていた。どこかの窓が開いているのだろうか。反対側の窓を調べようと、イーゼルに飾ってある絵画の方に近づいた時だった。潮のにおいが漂ってきた。少し遅れて小波の音が追いかけるように聞こえてくる。一番近くのイーゼルにランタンを近づけるとそこには海に浮かぶ城の絵が描かれていた。展望台だろうか、手前に柵があって、かなり離れているが大きく見える真っ白な城が鯨のように海原に建っている。耳を澄ませると、確かにこの絵画から波の音が聞こえる。こぼれだした潮風とにおい。キャンバスの表面は止まっているはずなのに、僕の目がおかしくなったのだろうか、ゆっくりと動いているようにも見える。
都市伝説、と言われていたあの噂は本当だったのだろうか。先生の絵が不思議な力を持っていた、とか?僕を取り巻く不可解な出来事に次第に恐怖が募る。
その隣にある絵には森が描かれていた。春夏秋冬すべての景色を収めた欲張った一枚。同じように耳を澄ましてみると今度は木々のざわめく音と小鳥のさえずりが聞こえた。ひらり。桜の花びらと、緑色の木の葉、紅葉、枯れ葉が一枚ずつ絵から落ちてくる。四枚が床に散らばるとそれぞれが光になって消えた。
その隣の絵は街の広場で、その隣の絵は海中。高くそびえる塔の絵も、どこまでも続くような花畑の絵も、どの絵からもその世界の音や香りがしてキャンバスの中に生きた世界があるようだった。
僕は夢中になりながらそれぞれの絵を見て回った。はじめこそ怖かったものの、こうしてみると一つのギミックが施されているようで、先生の絵を二度三度と楽しめる。最終チェックのことも、先生に挨拶しなくてはならないことも忘れて作品を純粋に楽しんだ。
ぎぎぎ、と何かが軋む音がした。重いものが動き始めようとするような音。吹き抜けになっている二階の、足場になっている部分の下。奥まった空間には、人型の展示物があるようだ。心もとないランタンの明かりではほとんど見えないが、そちらの方から音がした気がする。今は止まったが、まさか。
楽しんでいた僕は一気に冷静になる。恐怖心に取り巻かれつつも、確かめねばならないと思う。玄関の扉には鍵がかかっていなかった。僕が来る前に誰かが忍び込んでいるという可能性はゼロじゃない。先生には数多くのファンがいる。作品を売りに出すことは少ないから、一般の人の手に渡ることはほとんどなかった。その中には、盗んででも作品を手に入れたいという願いを持つ人間も一部いた。先生の作品を動かして盗もうとしている奴がこの暗闇にいるかもしれない。重い足を人型展示の方に向ける。一歩ずつ地面を確かめるように進んでいく。
人型展示に辿り着くまでにもいくつかの展示品があったが、今のところ何も変わったところはなかった。先ほどの絵画のように音やにおいがしたりもせずに、ただそこにひとつの世界を切り取って映し出していた。彫刻も二つほど置いてあったが、しんと静まり返るこの展示スペースの闇に溶けるように静かにそこに立っていた。
がしゃん。
丁度ランタンの明かりが展示物に届くぎりぎりのところまで来た時、空間ごと震わせるような音が再び鳴った。恐る恐るランタンを前に突き出し掲げると、甲冑とマネキンの展示があった。
頼りないランタンの光でも反射するくらいピカピカに磨かれた金色の甲冑。足元から頭まで絡まる瑞々しいツタ。首と胴体の間の隙間からは、様々な種類の鮮やかな花があふれていて、目にまぶしいような組み合わせだ。隣のマネキンには裾が炎のように広がるドレスを着させられている。何枚も重ねた少しずつ色の違う赤やオレンジ、黄色の布。それらの継ぎ目は豪華な花々で埋め尽くされている。すべてを燃やし尽くすために準備されているような炎と、活き活きと飾られた花の対比が面白い。
誘われるようにさらに近づいて目を凝らしてみると、どうやら花は造花らしい。本物と見間違えてしまうようなリアルさは一体どのように加工したのだろうか。
ふわり、バラの香りがした。
ふわり、ユリの香りがした。
一つずつ絵の具を塗り重ねていくように、一定の間隔を開けて、花の香りが増えていく。しばらくすると頭と痛くなるくらい、強いにおいが辺りに立ち込めた。何種類の花かわからない、もはや不愉快なほどの花の香り。ぐらぐらと視界が歪む。おかしくなってしまいそうだ。早くここから離れるべきだ。
唯一の明かりであるランタンを落とさないようにしっかりと握りなおした時だった。三度大きな音を立てて、マネキンと甲冑が動き出した。
ざわざわと耳鳴りのようなものが聞こえる。高い音と低い音。マネキンと甲冑が会話しているとでもいうのか。二体ゆっくりと僕の方を向いた。甲冑は側に置いてあった同じように金色に輝く剣を持つ。マネキンは辺りの香り強めるかのように花を輝かせて、滑らかにくるりと一回転した。生きてる。そう感じ取った時には、二体は僕めがけてゆっくりと歩みを進めてきていた。どうしたらいいかわからない僕はとっさに二階へ上がる階段の方へと走る。香りのせいで生じた、締め付けるような頭痛は、収まるどころかどんどんと増していく。重りを頭の上から落とされているかのような感覚。だめだ、ここで立ち止まったら捕まる。歯を食いしばって、走る。
階段前はパーテーションとショーケースで入り組んだ形になっていた。次第に早くなる甲冑とマネキンの足音はいつの間にか止み、うっとおしい香りもだんだんと薄れていった。僕は名残の頭痛で締め付けられる頭を抱えてしゃがみ込む。息も上がって、暗闇に僕の息遣いがこだました。
しばらく休めばある程度は回復した。しかし、植え付けられた恐怖と、この空間に対する違和感はどんなに休んでも薄れなかった。きっとここは異世界なんだ。何らかの拍子で僕はこの世界に迷い込んでしまって……きっと先生も迷い込んだに違いない。早く先生を見つけて元の世界に帰らなくては。先生は無事だろうか、あと探していないのは階段下にある手直しをするための作業部屋と、吹き抜けになっていて一回をぐるりと見渡せる二階の通路だ。作業部屋は先ほどの人型展示の方まで戻らなくてはならい。流石にあんなことを経験した後ではすぐに戻りたくない。頼むから二階にいてください先生。ショーケースの間を通り抜けて二階へと続く階段を上る。
階段の壁にも様々な展示があった。通り道、ということもあるからか、下書きや構想段階のメモばかりで、パッと見ることが出来るものばかりだ。こういうメモから先生の日常が垣間見ることが出来る。ファンにとってはすごくうれしい展示であろう。もちろん僕にとっても感動ものだった。手伝いをしている最中に見せてもらうことはあったが、こうして張り出されていると、日々これを間近で見ることが出来た僕は特別な立場にいるんだと再認識した。先生に一番近くて、一番遠い場所。すぐそばで先生の作品や技術、考えを見たり聞いたりすることはできるが、いざ自分で作品作りに取り組むと、先生との力量の差をまざまざと思い知らされる。先生について知れば知るほど、僕の位置は先生から遠ざかっていくようだった。
階段を上り切ると開けた通路があった。ここも暗くてどんな様子になっているのか歩いてみないとわからない。ランタンで足元を照らしながら先生を、確認しなければならない作品を探す。
二階の展示はほとんど数が無いようだった。一階を見下ろすことのできる位置には四角いスツールが置いてあって、座ってゆっくりと鑑賞ができるようになっている。試しに柵から見下ろしてみたが案の定真っ暗で何も見えなかった。
一つの壁の一面、ほぼすべてを使った大きな空の額縁があった。額縁のちょうど真ん中に立って見ると、隅に何か書いてあることに気づく。写真のようにいくつかのシーンが貼られているようだったが、近づいてみると、それは一枚ずつ絵だった。それも、僕の書いた作品。先生に褒められたものも、何もコメントが無かったものも、どこから持ってきたのだろうか、先生に出会う前のものもある。僕の絵を集めて、先生は一体何をしたかったのだろう。盗作…なんてことはしないだろう。これくらいの作品、先生ならいくらでも作り出せる。一番下にあった絵は初めて先生に褒められた作品だ。この大きな額縁の中に、キャンバスごと、額縁ごと、小さな僕の絵が閉じ込められているようだった。その中の一つに手を伸ばして、触れる。
パリン。
ランタンが音を立てて割れて、中にいた光る虫がふわふわと舞う。大きな額縁の中心に集まると、閃光の如く青い光が辺りを包む。とっさに目を閉じたが、キーンという音と共に視界は真っ白になった。
しばらくして視界が元に戻ってくると額縁の向こうに先生がいた。
「先生!こんなところにいたんですか!」
「ああ、キミか」
至って普通。何事も変わりないように淡々と、落ち着いて返事をする先生。この異様な空間の中で逆に先生だけがいつも通りなのが怖かった。
「いったいこの空間はどうなっているんですか?作品は動くし、外は真っ暗…まるで絵にかいたような異世界みたいじゃないですか。先生はそんなところで何をしてるんですか」
「書いておいたじゃないか。最後の作品の準備をしているんだ。少しあのメモは読みにくかったかな、悪かったね」
最後の作品の準備?でも先生は額縁の中にいる……。壁に額縁がはめ込まれていて、部屋全体を作品にする、とか、そういう魂胆だろうか。でも……二階のこの壁の裏に、部屋はないはずだ。二階は一階が見下ろせるように吹き抜けになっているだけで、この建物のこちら側には針葉樹が植わっていて、その向こうにある先生の住居からの目隠しになっている。だから部屋を増築できるはずもない。それ以前に、一週間前にここに訪れた時も施工の人がいる様子はなかった。
だとしたら、今先生がいるのは、一体どこなんだ。
冷や汗が背中を伝う。冷たくなる手のひらは感覚がなくなっていくようだ。
「ふむ、一通り準備はできたか。君、あちらの角に立てかけている絵を持ってきてくれないか」
先生は何も不思議なことは無いように、いつもと同じ声色で僕に指示する。僕の方がおかしくなっているのだろうか、いやそんなことは無い。そうだと信じたい。
反論するにも自分のプライドが許さず、とりあえず指定された絵を取りに行くことにした。上ってきた方と反対側の階段の上がったところに、少し大きめのキャンバスが置かれていた。これにも見覚えがある。キャンバスには僕の描いた先生が笑っていた。気まぐれに見せる笑顔。普段のむつかしそうな顔を、不器用に曲げて笑う先生の笑顔を初めて見た時は驚いた。額縁の中に既にある、僕の作品の一つを見せた時にこの笑顔を見せてくれたんだ。
あの日のことははっきりと覚えている。先生の作品が上手く進んでいない時期のある日。僕に与えられていた部屋に急にきて、今描いている作品を見せろと、普段より深い眉間のしわを寄せて僕に詰め寄ってきた。偶然にも上手くいっていなかったのは僕も同じで、もうこの作品はやめにしようと白い絵の具で上から塗りつぶそうとしていた時だった。
隠さずに真実を伝えて、それを聞きながら何も言わずに見ていた先生。今、ここで塗りつぶしてみろと言われ、一番大きな刷毛を取った。丁寧に隙間なく塗るのではなく、直感的に塗るんだ。その言葉通りに僕はピンと来たところに太く真っ白な線をいくつか引いた。
重なった部分は下の絵をちゃんと隠し、切り取ったような白い部分を作る。一度だけ通った部分は下の絵を少しだけ透かし、今まさに消えていくような雰囲気を漂わせた。つけすぎた絵の具が、血が伝うように下に流れて行って小さな塊を作って止まる。
この絵を見た先生は、それまでに見たことのない笑顔になったのだ。今まで経験したことないくらいに褒められ、先生の展示会の一部に僕の名前で展示しようと言い出すくらい、気に入ったようだった。
その時に見た笑顔が忘れられなくて、ばれないように書いていたのに、どこから持ってきたのだろう。もっと手を加えたいと思っていた未完成のこのキャンバスを、抱え上げてしぶしぶ持っていく。この絵も展示したい、なんて言い出すのだろうか。
大きな額縁の前に戻ると、先生は僕を見てパッと顔を明るくさせた。
「すまないね、それがどうしてもこの作品には必要でね」
「先生、その前に一体どうなっているのか説明してくださいよ」
「ああ、そうだね、君にも協力してもらわなくちゃならないからね」
先生は僕に向けて手を伸ばす。
「さ、手を取ってくれ、私だけでは戻れないんだ」
仕方ない、と思いながら、抱えていたキャンバスを傍らに置いて先生の手に自分の手を重ねる。先ほどのような青い光があふれだして、僕の視界を再び奪う。
閉じていた眼を開けると、目の前に先生がいた。かけていた眼鏡が汚れてしまったのか、視界が悪い。ざらざらとしたノイズが入っているように見える。
「さぁ、これで完成だな」
先生の声が遠い。さっき話していた時も声がくぐもって聞こえにくかったが、どうしてなのだろうか。先生は僕の前に立ってぐるりと見渡した。僕の周りに何かあるのか?そういえば先ほどまでの暗さは一体どこに行ったのだろう。たくさんの照明に照らし出された作品のように、明るい。まぶしいほどの白で塗りつぶられたような感覚。目がちかちかする。
真っ白、という考えにハッとして辺りを見渡した。先ほどまで額縁の中にあった僕の作品が、すぐそばにある。
そんな、まさか。ここは絵の中だというのか?展示室にここにある僕の描いた絵は一枚もなかった、あった場所は大きな額縁の中。
画面の向こうの先生は、どこからか万年筆を取りだして僕の左足の近く、何も置いていなかった空白に当てる。
「先生!待ってください!どういうことですか!」
僕の声なんて聞こえないかのように、先生は顔色を変えずに近づく。カリカリカリと、万年筆がキャンバスをすべる音がした。足元に今までなかった黒い文字が浮かび上がる。先生の名前を構成するアルファベット。先生は名前の最後の文字を書くと、サインの特徴である花形のピリオドを打った。黒い花が足元に咲いた。ペン先が離れていく、それと同時に青い光が瞬いた。
青い光に照らし出された額縁の向こうの先生は、あの日見た笑顔を浮かべていた。
「これで、完成だ。この展示会の目玉。これが私の、そして彼の最後の作品だ」
僕が聴いた先生の最後の言葉はそれだった。
展示会は世界中から人が訪れるほど話題になった。主催者は開催日当日に挨拶を予定していたが、謎めいた作品とメッセージを残し行方をくらませた。同日、身元不明の少年が行方不明になったというニュースが地方紙に流れたが、展覧会の話の陰に隠れたまま未だ解決されていないらしい。
そのうち、残されたものに関して様々な考察を行う者が現れた。しかし、作品に込めた思いや意味を正確に知る者は、作者だけである。当初二週間ほどの予定であった展覧会は、作者の一握りの知人たちによって管理、運営され、約半年間延長して開催することとなった。
様々なジャンルの展示物を並べたこの展示会で、初めて発表された作品もいくつかあった。その中でも目玉の展示となったのは、二階の一枚の壁ほとんど全体を使用した、とても大きな絵画だ。
『Last work』
訪れた者が必ず最後に見る作品だった。窓ガラスのように大きなキャンバスに、たくさんのキャンバスに囲まれた人物が書いてあった。キャンバスにはそれぞれ風景、人物、模様……様々のものが描かれている。中央の人物の近くにはこの展示会の主催者である作家の描かれたキャンバスがあった。この絵を見た人はみんな言う。「この人こんな風に笑うんだ」と。孤高の作家の秘匿され続けていた笑顔は作品の中の作品という形で明らかになった。
キャンバスの中の作家の笑顔とは対照的に、中央の人物は絶望のような歓喜のような、一言では表すことのできない表情をしていた。両の目から零れ落ちる涙は、こちら側にまで落ちてきそうなほどリアルで、伸ばした手はすぐそこにあるように見えた。全体はうっすらと青く塗られており、現実と切り離された空間を演出していた。
この大きな作品の脇に、主催者の作家が手書きで残したメッセージがあった。
「 これが私 たち の最後の作品である 」
Last work 呼京 @kokyo1123
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