第38話ゴーダとマリオ③

 最近アデリーは朝起きると身支度を整え、厨房に駆けていってパンを焼くことが日課になっている。隣ではカリーナがふくよかな体でリズムを取りながら木杓子で肉を炒めていた。


「アデリーがパン作りを担ってくれるだろ? だから、アタシにも時間の余裕ってのが生まれてさ」


 言いながらプラムのカゴを指して、半分に割って種を取るように指示を出す。アデリーはパンの焼き加減を確認しながら、少しずつカリーナの手伝いをしていた。パンの焼ける匂いと、炒めたられた油の香りが、アデリーをこの上なく幸福にさせる。



「川沿いを歩き回ってとうとう良質の粘土を見つけ出したんだよ。ありがとね、アデリー」

「それは良かったですね。こちらこそパンの焼き方から野菜の切り方まで教えて頂いて感謝しています」


 本当に心から感謝していた。劣等感の塊だったアデリーに、少しだけ力を与えてくれたのだ。まだまだ、他の人には及ばないが少しでも役に立てて居ることで縮こまらなくてよくなった。


「そんなの良いってことよ。よし、炒め終わりと。アンタのパンどうだい?」


 アデリーは窯の中を覗き込んで「もう少しです」と答えた。


 頷きながらカリーナは急拵えでカルロが作ったトレーに、肉を盛った皿と種を取った瑞々しいプラムを三つ乗せ、それをテーブルに置いた。


「じゃあパンが焼けたら今日も頼んだよ」


 パンを焼く以外、アデリーにはもう一つ朝の日課があった。それはベニートに食事を運ぶことだった。


「はい」

「暴れたら直ぐに逃げて助けを呼ぶんだよ」


 カリーナは心配してくれるが、ベニートが暴れることはない。ただグッタリと項垂れて生気の宿らない目でアデリーをぼんやり眺めるだけだ。


「どうしたら元気になるんでしょうか」


 アデリーはベニートの瞳を見るたび、その暗さに引きずり込まれるようで手に汗をかいてしまう。もしかすると、自分もそうなっていたかもしれない暗く深い闇にいるベニート。底なしの沼にベニートが誘っているように思うのだ。


「時間が癒やしてくれる、きっとね」


 夫を亡くしているカリーナが言うのだからそうなのだろうが、それまでベニートの体がもつのか心配だ。痩せ細った体にボンヤリとした振る舞いは、生きる気力を感じられないのだ。


 焼き上がったパンをトレーに乗せると、アデリーは「じゃあ、食事を届けに行ってきます」と、努めて明るく声を出した。


「あら、バカっぽい声がすると思ったら」


 トレーを持って振り返ったアデリーに相変わらず辛辣なロセが戸口に立っていた。


「おはよう」


 ロセに会うと緊張が走る。普通の会話がままならないので、どうしたらいいのかわからないのだ。


「あのお爺さんの世話をするの? 甲斐甲斐しくって涙が出ちゃうわ。ほんと、金持ちって見える形で良い人ぶるのが上手いわね」


 これにカリーナが「何言ってんだい。何にもしないロセより偉いじゃないか」と反論するが、こういう周りの優しさがますますロセの機嫌を損ねるのだ。


「やぁね、上手いこと味方を増やして。ほんと嫌になるわ」


 プリプリと怒りながらさっさと食事を皿に盛ると感謝の言葉も言わずに食べ始めた。これにカリーナがまた怒り出すから、ロセのいるところはやたらと空気が悪くなる。


「あの……じゃあ届けてきます」


 半ば逃げ出すように厨房を後にし、外に出ると食事を取りに向かうカルロとリルに会った。この二人には軽く挨拶を交わし、アデリーはベニートの居る鍛冶屋の部屋へと入っていった。


「おはようございます」


 トレーをベッドの足元に下ろすと、入口に戻り戸を引いて全開にした。淀んだ空気が外に流れ出て、代わりに朝の眩い光が入り込んできた。


「今日もいい天気ですよ」


 再びベッドサイドに戻ると強引にベニートの体を引き上げて半身を起こさせた。


「体を起こさないと痛くなりますから」


 ボンヤリとしたままのベニートにパンを握らせた。


「味をみてもらえませんか? この前からカリーナさんなしで作っているんです。今まで何にもしてこなかったからいちから学んでて」


 アデリーが話しかけても反応がない。そこでなんとなくアデリーはベニート相手に話をしたくなっていた。


「私、ここに来て自分が何も出来なすぎて悲しくなりました。甘やかされていたことも知らず、ただただ呑気に日々を送っていたんですよね。皆さんは生きるために働き、苦労をして生活しているのに……」


 アデリーはベニートが握っているパンを見つめて目を伏せた。


「パンを焼くのがどんなに難しいのかも知らなかった。ベニートさんは鍛冶師なのですよね。きっと苦労されて習得したのでしょう。いつか見せてください。あの、女でも鍛冶師になれますかね。もしなれたら、みんなに認めてもらえるのかしら。荷車の車部分に鉄を履かせると使い勝手が良くなるらしいし、みんなに喜んで貰えるんだろうな。そうしたら私みたいな人間でも少しは価値が生まれるかもしれない」


 段々とベニートに話しかけているというよりも、独り言になっていく。ただ、口に出して思いを吐き出すのはなんだかとてもスッキリとした気分だった。


「女は……ムリだ」


 まさかベニートが話すと思っていなかったので、僅かに反応が遅れてから顔をベニートへ向けた。


「鍛冶場は女人禁制だ。理由は知らんが」


 あまりに話さないベニートに、アデリーは密かにこの人はもう二度と話すことがないのかと思っていた。しかし、アデリーの話をしっかり聞いて答えてくれた。


「それは……残念です」


 意欲はあるけれど、とにかく空回りしているだけ。肩を落とすと再びベニートが口を開く。


「パン、美味かったぞ」


 ボソッと言ったそれがアデリーには天からのご褒美の如く心に響いて、感涙しそうだった。


「あ、はい! ありがとうございます。もっと学んでパイでもなんでも作れるようになります。そうしたら一番初めに食べてください。良かったらですけど……」


 有頂天になってまだ作れもしないパイを持ってくると言ってしまってから我に返り、顔を下げた。


「楽しみだ」


 またやっと聞き取れるくらいの声で答えたベニートに「作れるようになるのはまだ先かもしれません。でも、必ず持ってきます」と、決意を持って答えていた。目標がアデリーを鼓舞するのだ。




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