第26話行商人ニコラス①
朝、目覚めたらベッドに寝ていたのはいいが、アデリーは自分が服を着たままベッドにいることを不思議に思った。そこから記憶を手繰っていったが、どうも途切れていて思い出せなかった。確かに美味しいパイを食べたはずだし、その味を思い出せばジワリと唾が湧いてくる。でも、その先が無くて、いきなり今のこの時まで時間が飛んでしまっていた。
(どうやってたどり着いたのかしら?)
首を捻るがわからないものは、一向にわからない。考えてもどうしようもないので、ベッドから出て、もう一着の服に着替えた。こちらは新品だが、中古の物より作りがシンプルだ。
(私ったら……どうせここまで寝ぼけ眼で来たんだったら服を着替えてほしかったわ)
自分に対して心のなかで叱った。埃っぽい服でベッドに入ってしまったらシーツまで汚れてしまう。汚れた服を壁の杭に引っ掛けた。
何はともあれ、清潔な服に着替えると気分は清々しい。今日は洗濯の日にするのは無理そうなほどの曇り空なので、明日以降まで汚れは持ち越しだ。もし今日も汚れ作業なら、また元の服を着ればいい。
考え事をしているというのに、腹がグウと鳴った。そうなると、パイを食べたというのも夢の中の話だったのではないかと思ったりする。でも、美味しい記憶はやたらと鮮明なのだからやはり食べたのだろう。
今日もパンの焼ける匂いがしている。なんにせよ、足取り軽く厨房へと階段を下りていく。こんなに食事が楽しみだったことは元の家ではなかったことだ。労働すると腹が空くという単純な理由もさることながら、一度味わった極限の空腹を思い出すととにかく食べられることが嬉しくて仕方がなかった。
(飢えずに食べさせて貰えることを感謝しなくちゃね。ダグマさんにいつか恩返しできればいいけど)
踊るような気持ちで厨房へと入っていくと、テーブルを囲む四人の背中。
「あ、れ? おはようございます」
全員一斉にアデリーに顔を向けた。カリーナとダグマはもう背中でも見分けがつくが、リルと妙に魅力的な男。ブラウンの髪はダグマと同じ様に伸ばして結ってあるが、ダグマと違うのはその整いすぎた容姿と引き締まって筋肉もありそうだが細かい体。アデリーの兄のように、武術はやっているが労働はしていない人の体といった具合だった。
「おお、かわいい子が居るなんて聞いてないぞ」
サッと立ち上がって、やたらと気取って手を出した。
「お嬢さん、お会いできて光栄です」
そこでダグマがフンと鼻を鳴らした。
「そうやって女とみりゃ、直ぐに掌握しようとしやがって。気取ってても本物の上流階級出のアデリーには通用しないからな」
魅力的な顔をクシャっと崩すとアデリーの手をやや強引にとって、握手をした。
「ってことは本物の良家のお嬢様か。アデリーね。覚えたよ。俺はニコラス」
「はぁ。あ、よろしくお願いします」
よくわからないがこの人もここの住人になったのだろうか。
「そいつは行商人だ」
ダグマはアデリーの謎を早々に解決した。しかし、ニコラスはそれを否定する。
「待て待て、冬はここに住んでたろ? 寒さが酷い時はここに居るんだ。要するに拠点はここ」
そこまで黙って聞いていたカリーナが「じゃあ、今年の冬もかい?」と問う。
やっとアデリーから手を離すと、アデリーに席を勧めながらニコラスは答えた。
「もちろん、ここに居るつもりですよ。この前の冬はむさ苦しい男二人だったが、今年はなかなか楽しい冬になりそうだな」
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