魔法使いの日常的習慣

@SIGNUM

魔法使いの平均的な一日

プロローグ 代り映えのしない平凡な朝



 ───それはかれこれ五年前に起こった。


 それは文明と技術が飽和しかけた世に舞い降りた魔法の礎。


 電子が躍り、形のない数字が舞い散る高度情報化社会には唐突に訪れた。


 日本を含む、全世界同時発生の地殻変動……


 それが収まると同時、世界には数多の入り口が生まれていた


 それはある時は未知の遺跡染みた建造物───


 ある時は蒼天を貫く巨なる塔────


 ある時は海底への招待状など多岐にわたる。


 かつて過ぎ去った幻想と目もくらむような神秘を湛えた奇跡と恐怖の迷宮――のちの人はそれをダンジョンと呼んだ。


 



『まもなく、3番線に、列車がまいります。黄色い線まで、お下がりください。』


 ――これ遅刻するやつでは?――


 少年は煩わし気に眉をひそめて『15分遅延』の文字の輝く電光掲示板を見つめてあきらめたように息を吐いた。


『駅から学校まで大雑把に10分、電車が12分、始業のチャイムまで24分……』


 微妙だ。もし電車がすし詰めで、客を乗せるのに時間がかかると間に合わない微妙な時間だ、走る必要がある気がしてならない。


『もっとがっつり遅刻なら開き直りもするが……』


 微妙にあきらめがつかない。


 結局、少年はいまだに影も形も見えない電車をじれながら待つことしかできない。


『まったく……』


 ――世界に奇跡と神秘が満ちたところで、人間は遅刻の心配をするんだなぁ……――


 眉間を掻きながら少年――東雲伊織しののめいおりはそうため息を吐いた。




 東雲伊織しののめいおり


 この遅刻を危惧して若干機嫌の悪くなっている少年の親からもらい受けた名であり、曰く「武士ぶしの名前だから強い子に育つように」とつけられたらしい。


 この名を、彼は結構気に入っていた――まあ、最近はどうにも女のような名前と言われがちだが。


 中肉中背と言うにはいささか腹が出ていて――あいにく、名前の通り武士もののふにはなれなかった――黒髪黒目の典型的日本人の趣を強く残した顔立ちをしていた。


 体系のせいか、生来の物か汗っかきで暑がり、冬に半そでで過ごせるのが少し自慢だ。


 顔は印象に残らない程度に平凡であり、よく昔の知り合いに「いのり」だの「いろり」だのと名前を間違われる。


 俗にいう陰キャであり、人と付き合うよりも本を読んでいるか趣味に興じている方が幸せな趣味人……もしくはオタクだった。


 両親は健在、母はパート父も仕事の共働きだ、愛情は――そこそこ受けていると思う、少なくとも顔が見えないと心配される程度には。


 得意教科は国語と理科、数学のテストは常に赤点であり、英語のもそれほどできない、体育も決して出来がいいほうではない、走る系統の競技は軒並みダメだ。


 諸般の事情から帰宅部であり、電車通学も相まって基本一人での登下校であり、毎朝、不愉快な満員電車に揺られるのが非常に憤懣やるかたない。


 そのためもあって交友関係はほぼない、クラスメイトとも話すが親しくはない程度の関係だ。


 見た目のせいか、女子からの受けは悪く、少し前に消しゴムを拾ったら舌打ちされて、その消しゴムを洗われたことがある。


 これが彼のすべてだ、どこからどう見てもやや平凡以下の男。


 しいて普通でない点あげるなら――一人暮らしをしている事。バイトの代わりにダンジョンに潜っている事。


 そして、過去に一月だけ失踪していたことがあることぐらいだ。


 そして――そう、今現在遅刻しかかって焦っていて、ダンジョンなんていう奇跡があっても満員電車が満員のままであるのが不満だ。






 結局、世界に奇跡と神秘が満ちたところで生活はそれほど変わらなかった。


 確かにダンジョンの中には目を見張るようなものが多くあったし、そられを生活に生かそうという人は大勢いた、今この時も、そう言ってる人は大勢いるだろう。


 ただまあそれが一般市民の生活に還元されているかと言えばNOだ。


 相変わらず、電車は地面を走っているし、学生はチャリや電車で移動している、さもなければ徒歩だ。


 漫画や小説のお嬢様のようにお出迎えの黒塗りの車など小市民には縁がないし、青い狸みたいな生き物が出てきてどこにでもつながる魔法の扉を出したりもしない、空を飛ぶ車はいまだできず人型ロボもいない。


 今日も今日とて、サラリーマンは電車で通勤し、道路工事のおっさんはヘルメットをかぶっている。


 テレビではいまだに芸人とアイドルがひな壇に上り、自分の番組の宣伝をしているし、政治家はなにをしているのか少年にはいまいちピンとこない侃々諤々の口げんかの真っ最中だ。


 ただちょっとばかり、それこそ、焼きそばに乗っている青のりか何かのようにほんの少しだけ、世界に神秘が混じっただけ、ただそれだけの話だった。


 金持ちは相も変わらず金持ちだし、権力を持ってるやつは相変わらず偉いわけだし――満員電車は変わらず満員電車だ。


 電車の扉に向かってなだれ込む人の波にもみくちゃにされ、吐き気と窮屈さに満ちた空間で少年は思う――


『……近い学校にするんだったな……』


 ダンジョンができてかれこれ五年、相も変わらず満員電車は拷問のようだった。

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