さよならヴァンパイア

さよならヴァンパイア

 ぼくはいつでも、魂を削りながら生きているんだ。息をするたびにそれは耐えがたいほどの痛みを伴うし、一歩でも世界の中心から外側に出ることは出来ないんだ。そんなことをすればたちまちぼくは灰になって風に飛ばされていってしまうだろうさ。


 わたしがそのドアを開けた時、そこにあるのは外の光をほとんど遮断した厚ぼったいカーテンと、その手前にある煌々とした光を浮かび上がらせたディスプレイだけだった。

 そこにわたしの求める彼の姿はなくて、ただぼんやりとわたしはその部屋を見渡す。ここにくるのは初めてではないけれど、相変わらず部屋の電気をつけるためのボタンは巧妙に隠されていてどこにあるのかわからないままだったし、彼がどこに行っているにせよ、ここを勝手に荒らすわけにはいかないだろう。


 初めて彼と知り合ったのは単なる家庭教師のバイトの相手としてその家に行った時だった。

 その家は確かに夫婦がひと組と子どもが一人いる形跡があったけれど、その玄関から予想される姿はどこにもなかった。出迎えもなかったし、ただガランとした静寂だけが廊下とリビングに居座っていた。だいたいは誰か親が迎えてくれて、給与形態とかそういうのを説明して、生徒となる子どもと打ち解けるために少しだけ話して今日の仕事が終わるはずだった。

 リビングのほうで鳴った電話をわたしは十コールほど放置してから家内通話であることに気付いて取った。そこから聞こえて来たのは、声変わり前特有の高さを持った少年の声だった。その声は厳かな口調で言う。はじめまして、お嬢さん。二階に上がってきてくれたまえ。わたしは怪訝な顔をしながら、君は、ここの子どもさんかなと尋ねる。彼は仰々しくため息をつくようにしてこう答えた。ぼくは吸血鬼だ。ここには誰もいない。君が探している親も、君が教えるべき生徒も。もっとも、君が探しているその子どもとやらは、ぼくが乗っ取っている彼のことかもしれないけれどね。


 そうしてわたしは彼に会った。

 彼は今と同じような薄暗い部屋の真ん中で、椅子の上で膝を抱えた体勢のままこちらを向いて言う。

 ようこそ、世界の中心へ。歓迎するよ。


 ぼくは吸血鬼なんだ。数日前にこの家にやってきて、今身体を借りている彼と話をした。彼はとても弱くて、まるでぼくの指先でつつくだけで死んでしまいそうなほど、精神も肉体も脆弱だった。だからぼくは彼に力を与えたんだ。ぼくは君の身体を好きに出来る代わりに、君はぼくの強い意志を持つことが出来る。そうして彼はあっさりと騙されたんだ。身体を明け渡すということは精神を明け渡すことと何ら代わりないことだからね。

 彼はわたしが聞き取れるぎりぎりの音量で話す。わたしはそんな彼の話を聞いて、そして何も教えずにその家を後にする。この子の両親は彼によると『はじめの日にぼくが喰ってしまって、ここにはもういない』とのことだった。その割にはわたしの銀行口座にはきっちり働いた分の給料は振り込まれていたし、何より彼の話がどこまで創作で作り込まれているのか気になっていた。


 吸血鬼は処女の血を好むと言うけれど、あなたは飲まないの。わたしが彼に初めて問いかけた質問だ。彼は憤慨そうに鼻を鳴らして答える。吸血鬼がいつまでも何千年も血だけを啜って生きてきたと思わないで欲しいね。人間だって昔は病気を神様の祟りだと言っていたじゃないか。吸血鬼だっていつまでも血だけを摂取して生きているわけじゃない。じゃあ、とわたしは言う。何を食べて生きているの? 彼は言う。冷凍ピザに飽きてきたから、そろそろ違うものが食いたいところだ。


 ほぼ毎日のようにわたしはその家へ向かった。結局家庭教師という吊前と吊目で彼の家に向かい、吸血鬼についてのいくつかの話をして、彼の夕ご飯を一緒に食べて帰るのが日課になっていた。彼はまるで年相応の子どものようにそれを平らげ、ご苦労だった、と満足げに呟いて、二階の部屋に戻っていく。最初こそ二階の部屋で食べていたものの、少し来るのが遅くなってしまった日に料理をしていた時に、リビングのドアの影でこっそり待っていたのを捕まえたのだ。口では不本意だなんだと騒いでいたが、結局夕食を口に入れると黙ってそれを平らげた。わたしはそれを微笑ましく眺めて、後片付けをして帰るのだった。


 家から出たりはしないの、とわたしはある時彼に聞いた。出る必要がないからな、と彼は言った。ここは世界の中心なんだ。ここには全てがあって、ここ以外の場所には何もない。だからぼくはそこから動かないし、動く必要もない。動くつもりもないんだよ。だとしたら、とわたしは聞く。わたしは世界の端っこに住んでいることになるのかな。わたしの家は彼の家から二駅ほど隣のところにあった。自転車も持っていないし、家から出ようとしていない彼からすれば世界の果てには相応しい距離だろう。彼は答える。お嬢さんの家がもしこの家のすぐ隣にあったとしても、そこは世界の果てと何も変わらないよ。ぼくにとっては中心はここでしかないし、それ以外は全て無意味な場所なんだ。その時のわたしには彼の言葉が何を意味しているのか理解出来なかったし、また彼の語るひとつの設定くらいにしか思っていなかった。


 随分遅いな、とわたしは空っぽの世界の中心の少し手前の廊下で座り込みながら思った。一ヶ月と少し、わたしはここに通っているわけだけれど、わたしが来る時には彼がいなかった時なんて一度もなかったし、もし彼が何らかの理由で世界の中心から動いたとしても、世界の果てまで行ってしまうことはないはずだった。そうだとしたら、彼はきっと灰になってしまう。そう彼は言っていたし、彼が履いていたのであろう靴はわたしが初めてこの家にきた時から少しも動いていなかったことからもそれがわかる。


 だとしたら、彼はどこにいってしまったのだろう。


 ふと、わたし以外の人間を通したことのない玄関の呼び鈴が鳴った。それはまるで世界の果てからやってきた死者の呼び声のようだった。

一度、二度。わたしはその鳴らされるインターフォンに仕方なく応対した。ドアの前に立っていた男性は無骨な仕草で頭を掻きながら、あなたは、と問いかけた。

 世界の中心から、わたしの感覚ではあまり離れていないところにある喫茶店でその男性の話をわたしは聞いた。聞くところによるとその男性は幼い吸血鬼の叔父にあたる人らしく、どうかあなたからも言ってあげてもらえませんか、とわたしに向かって頭を下げた。本当のことを、お話しますので。


 吸血鬼が彼の身体を乗っ取った日から、もう数日ほど前の日の晩のことだ。

 彼の両親は仕事に行ったまま帰らぬ人となった。彼らは若い頃に駆け落ちをして両家の了承を得ないまま結婚をした夫婦だった。随分長い間彼らには子どもが出来なかったし、やっと出来た一人息子に対して非常に深い愛情を注いだ。けれどその庇護者がいなくなったことで、彼は両家の親族の誰かに引き取られることとなった。

 両家にとっては迷惑極まりない話だった。家を飛び出していった、いわば縁を切ってまで去った人間が遺したものの世話を押し付けられることほど面倒なことはない。そういうわけで揉めに揉めたらしい。


 その間彼はずっとひとりぼっちだった。

 そう、わたしが彼の家庭教師として家を訪れるまでは。


 彼は吸血鬼にならなければならなかったのだ。壊れそうになる心を繋ぎとめて、失ったものの大きさに理由をつけて乗り越えるために。

 何もかもが遺された世界の中心で、自分を守るための城を作り上げるしかなかったのだ。


 あなたは、とわたしはその叔父にあたる男性に問いかける。あなたは、彼の世界を理解しようと思いますか。男性は首を振って、子どもの戯言には付き合っていられません、と苦い顔で言った。わたしは静かに深いため息をついた。


 話を終えてわたしが戻ってきた時には、世界の中心がえらくちっぽけなものに見えた。まるで風が吹けば飛んでしまいそうなほど頼りなくて、儚げなものに見えた。その玄関の前に、幼くて小さな吸血鬼がぽつんと立ち尽くしていた。世界の中心と果ての境界線上に彼は立ち止まって、これから失ってしまう全てを見上げていた。

 早く来い、と男性はわたしの横から彼を促す。彼は動かなかった。男性が呆れたようにため息を吐き出して彼を無理矢理に連れて行ってしまおうとするのをわたしは引き止めて、わたしに任せてください、と言った。そこが世界の中心であると信じていたのは、おそらくきっと、わたしと彼だけだった。


 埋めていたんだ、と吸血鬼はぽつりとわたしだけに聞こえる声でつぶやいた。ぼくが彼の魂を飲み込む時に、とてもかなしい記憶がぼくに言ったんだ。ぼくがもし君の中から消えたって構わない、ただ一つだけ約束があるんだ。机の上から二番目の引き出しに入った箱を、庭に埋めて欲しい。深く、深く穴を掘って。……その箱の中に入っていたのは、彼の家族の写真だったんだ。滑稽だと思わないか。自分がもう二度と彼らに会えないことはわかっていたというのに、最後のそれを手放そうとしたんだ。世界の中心に唯一残った希望を、彼は握りしめていることだって出来たはずなのに。

 ああ、とわたしは思う。彼だって幼いながらもわかっていたのだ。自分がこれからどうなるか。どうならなければならないか。そうやって自問自答を繰り返して、わかりきった答えを受け入れることの出来ない自分の代わりに、受け入れるための力を持った強い存在──吸血鬼を望んだんだ。

 わたしは彼を後ろから優しく抱きしめる。その肩はすっぽりわたしの胸に収まるほど小さかった。いいんだよ。誰だって弱くて、誰だって何かにすがって生きているの。無理して強くならなくたって、いいんだよ。彼の肩が静かに震えて、胸の前で交差したわたしの腕を、弱くて小さな手が握りしめた。あなたは、吸血鬼になんて、ならなくたっていいんだよ。

 たくさん、たくさんの涙を流して、わたしが聞いたことがないような大きな声で彼は泣いて、彼は自分の中にいた吸血鬼にお別れを言った。


 わたしの家庭教師のバイトはそうやって終わりを告げた。

 給料は先月と同じように振り込まれていたし、数週間後には彼の家は売家のシールが貼られていた。世界の中心はあっけなくありがちな世界の果てへと変わり果てていて、彼がその後にどうなったかわからないままだった。そのままさらに数ヶ月が過ぎて、わたしは彼のことを思い出として整理しようとしていた。


 ある日、わたしの携帯電話に一つの電話が入った。どうやらまた新しい家庭教師の依頼らしい。しかも依頼内容ではわたしの名前を指名してきた奇特な注文を受けているとのことだった。わたしは訝しげに思いながらその依頼を受けて、家に向かう。そこは随分大きなお屋敷だった。壁がどこまでも続いていて、どこが入り口なのかと迷ったくらいだった。壁沿いにぐるりと這い回った末に門らしき物を見つけると、そこにはどこかで見た無骨な動きで頭を掻いている男性と、ぴしりと背を伸ばした少年が立っていた。わたしはもしかして、と思う。

 彼はわたしの姿を見つけると、いつかのような声色を真似するように、しかしあの頃とは全く違う快活な声で言った。久しぶりだね、お嬢さん。

 わたしは笑って彼に聞く。ねえ、新しい世界の中心は、見つかったの?


 幼くも確実に成長した彼は、得意げに笑いながら答えた。

 ぼくがいるところが、いつだって世界の中心なのさ。

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さよならヴァンパイア @seelsorge_theos

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