ウィークエンド・デッドエデン

ウイークエンド・デッドエデン

 日曜もあと数時間の命となったことに今週もげんなりしていると、電話が鳴った。鳴ったというより震えた。画面を見るとずいぶん不在着信が溜まっている。ぼくはその電話の主を確認してから再度かかってくるのを待つ。彼女にとっては通算八度目のコールが始まってから数秒して、ぼくは通話を許可するボタンを押した。


 彼女と電話するのは久しぶりと言って良いほどの時間が経っていた。もしもし、と電話口の彼女に話しかける。彼女は涙声でもしもし、と返す。彼女の声はひどく被虐性をそそる響きだった。どうしたの、とぼくは何も知らないふりをして彼女に聞いた。彼女はぼくの思っていた言葉とは少しだけ違う言葉を返した。怖いの。どうすればいいのか、わからないの。

 ぼくは一人でゆったりとファーストフード店特有の、氷だらけの飲み物を啜る。彼女はどうやらどうしようもない男に捕まったようだった。外は凍えるように寒いことをぼくは知っていて、だからこそ暖房の効いたこの店から出ることを躊躇っている。それに対して彼女はどうやら外をさまよいながらぼくに電話をかけているようだった。さむいだろうとぼくは言う。さむいよ、と彼女は答える。ねえ、人は誰かを殺すために生まれてきたのだと、あなたは思ったことある?

 彼女の問いの意味をぼくは図りかねて、ぼくはさあね、と曖昧な答えを返した。誰かを殺すということは誰かを背負うということだ。人は自分一人を背負うことすら困難だ、だからそれは多分自分が死ぬために殺すんだろう。きっとその言葉は、自分自身を殺すってことなんじゃないかな。寿命まで全うに生きろってやつだよ。彼女はそうね、と気のない返事をして言う。あのね、私、彼に、殺してくれって頼まれたの。彼女はぐすぐすと涙まじりの声で言う。風の音がばたばたと響いているのに人の声は全く聞こえない。まるで真っ暗で街灯のない道を一人ぼっちで歩いているみたいな音だった。彼は笑ってこう言うの、わたしなら、殺されても良いって。

 別れればいいじゃないかとは言わなかった。それができないから彼女は電話をかけてきたのだろう。それで、君は彼を殺すのかい。彼女は言う。もちろん、そんなことは出来ないわ。でもショックで倒れそうなの。私がこれから彼にどうやって接していけばいいか、わからないの。

 ぼくは思い出す。いつかの恋人が、首を締めて、と言ったことを。首を締められた彼女の顔がこれまでにないほどに幸せに歪んだことを。そうしてぼくの心がどうしようもなく絶望に染まってもとに戻らなくなったことを。わかるよ、とぼくは彼女に言う。今のぼくには彼女を助けるだけの余裕も時間もある。でも方法がなかった。そして理由もなかった。だからぼくはそれ以上の言葉をかけなかった。

 きっとぼくはそのどうしようもない衝動を内に抱えている。誰かを虐げ苦しめ、そうやって快楽を得ることの出来る素質を魂に秘めている。だからこそそれを決して表に出してはいけないことを誓った。人間である以上正常と異常の区別は付く。それを突破してしまえばそれはもう人間ではない。だからぼくは人間であり続けるためにそれを封じ込め、それを求めても得られないことを悟った彼女はぼくを見捨てて去った。あのね、と電話口で彼女は言う。わたし、彼の首を締めようと思うの。

 どうしてそうするつもりなんだい、とぼくは聞いた。ひきずりこまれてもしらないよ。そこには人間の闇があって、どうしようもない快楽があって、抗いきれない禁忌の愉悦があるよ。それでも、と彼女は言う。それでも、わたしは彼が好きなの。彼が求めることは出来る限りしてあげたいの。

 そうかい、とぼくはため息と共に言う。彼女は抗いきれるだろうか。転がり落ちて狂ってしまわないだろうか。そう思っても、身体は重く動かないままだった。所詮はそういう存在なのだということが考えなくても本能で判断されていることにぼくは少しだけ落胆し、言う。そう言うならやってみるといい。多分君は、後悔する。それだけは言っておくよ。やがて電話は切れた。ぼくは目を閉じて、携帯電話を机の上に放り投げる。ひどく重くて硬い音がした。


 日曜日が終わった頃、彼女から電話があった。

 ねえ、これで良かったのかな。

 良かったんじゃないかな、とぼくは言う。彼女の声から何があったかはわかった。彼女はもう泣いていなかった。ばかみたいだよね、わたしが、誰かを、好きな人を、殺せるはずなんて、ないのにね。ぼくは彼女に少しだけ安堵して、きっとそれが君の良いところなんだよ、と言った。

 際限ない優しさは求められることをどこまでも満たしてゆく。それは無限に湧き出る泉のように思えるだろう。けれどぼくらは人間だ。魔法でも奇跡でもない。どこかに限界はあって、そしてそれはすごく近いところにある。それに触れてしまった時、ぼくらは落胆するのだ。この程度なのだ、と。


 彼は間違っていたのかな、と彼女は言った。それともわたしが間違っていたのかな。ぼくは彼女の求めている言葉を見つけることは出来なかった。多分、どっちも間違ってなんかないよ。それとも、間違いだったと責められて、君は満足するのかな。

 ごめんね、と彼女は言う。そしてありがとうね、とも。人は勝手に助かるだけだよ、とぼくは答えた。どこかの小説で読んだ言葉だった。ぼくは何もしていない。どこでぼくの関心のない誰かが破滅しようと、ぼくにとってどうでもいいことなのだから。救いを救いたらしめるのは、いつだって受け取る側だ。

 偽善だよな、とぼくはぼやく。優しさと偽善は何が違うんだろうな、と。彼女はくすくすと無邪気に笑って、多分、私達が自分でそれを使い分けることは出来ないわ、と言った。もっともな言葉だった。


 電話を切ってから、ぼくはふと思いついて息を止める。すうっと身体が熱を持って意識が浮かび上がる。海の中に一度沈んで浮かび上がる時の感覚が自分を包み込む。こうして息ができなくなって死んでゆく感覚とは甘美なのだろうかとぼくはこうやって息を止めたときにいつも思う。

 多分死ぬということは人間最大の快楽が寄せ集まった楽園の入り口なのだ。

 あっけなく死んでしまった日曜日にぼくは問いかける。そこは楽園なのかい。数日も経てばそこから引きずり出されてぼくらの快楽と嬌声にもみくちゃにされる彼に向かって手を振る。解脱なんてものはないんだ。全部ぐるぐる回り続けて、飽きずに何度でも繰り返して、それに一喜一憂して時間を浪費していくんだよ。


 誰も生きて見ることのできない楽園に思いを馳せながら、楽園への扉を他人に開けさせようとした見知らぬ誰かに、ばかだね、とぼくは呟いた。

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