不誠実な恋の果実

不誠実な恋の果実

 ねえ、ぼくは不誠実な人間だよ、とぼくは呟くように言った。


 昔の話をしよう。ぼくが小学校高学年の頃の話だ。恋というものの存在を初めて知ってから、もやもやとしたおぼろげな何かに名前をつけるために都合のいいものとして彼女はそれを使い、言葉に出来ないそれを恋心と名付けた。それは全くの誤解や勘違いだったのかもしれないし、もしかしたらそれは本当に恋というものの一端だったのかもしれない。

 中学生になったら、わたしと、付き合ってくれる? その言葉はまるで幻想のほろ苦い果実のような瑞々しさと毒々しさでぼくの前に転がった。

 どちらにせよぼくにとってはどうでもいいことだったのだ。なぜならその頃のぼくはそういうものがあるということを知っていて、彼らがどういうことをしてその気持ちを確かめるかもわかっていて、そしてその行動と感情に全くと言っていいほど理解が及ばなかったからだ。せいぜいぼくができることと言ったら、告白されたという事実に対して柔らかく曖昧な笑顔を浮かべることくらいだった。

 彼女はその笑みを同意と受け取ったかのように満足した顔で去る。ぼくはたった一人で取り残された体育館裏の狭い空を見上げる。来た時には美しい青さを誇っていた空も今は薄暗く濁った色に満ちていて、足元に転がった果実はぐずぐずと音を立てて腐れ落ちた。


 温度差で曇った窓ガラスに、彼女の名前書く。何度も、何度も。自分の名前と並べて、どこかで見たような相合傘で括る。それは本来愛しい人に対して微笑みを浮かべながら描く記号だったはずだ。けれど目の前のそれは何度書いたって何の感情も浮かんでこなかった。

 その時のぼくは彼女を好きにならなければならないとどこかで思っていたのだ。誰かから寄せられた好意にそれ相応の対応をしなければならない。それが叩き込まれた常識であり自己律だった。理解と判断が及ばないものはその原則に沿って全てを用いることで事なきを得ていた。やり過ごしていた。


 卒業までは数ヶ月あった。その数ヶ月で彼女の告白によって変わったものは何一つなかった。

 そして卒業した後に変わったことも、何一つなかった。

 曖昧な笑みが同意でなかったことを悟った彼女は静かにぼくから離れ、そしてぼくは彼女の取り巻きに一時的で一方的な罵声を向けられただけだった。


 ねえ、ぼくはどうすればよかったと思う? ぼくは彼女の望む存在になればよかったのか、それとも初めから彼女の告白を断ればよかったのか──ぼくには今でも理解が出来ないんだ。恋というものがどうしようもなく無機質なものにしかぼくには思えないんだ。彼女はぼくについ先程愛を語った口で答える。あなたは何もしなくてよかったし、間違ってもいないし正しくもないわ。そういうものなのよ。それが無機質なものに見えるのは、あなたが恋を知らないからよ。

 知っているよ、とぼくは言う。概念だって、君にかける言葉だって、行動だって全部。君の望むままの男になれるだろうさ。でもそれがもしも恋と言うものであるとするのならば、ぼくは物言わぬ鉄屑のカケラでいるほうがずっとマシだと思う。そしてそれはきっと君にとって不誠実なことなんだ。恋というものは本来ならきっとそういう形をしていないんだ。けれどぼくにとって恋というものはどうしようもなくそれ以外に存在しない絶対的な何かなんだよ。ねえ、それでも君はぼくのことを好きだと言うのかい。ぼくに恋をしていると、そう言えるのかい。

 彼女は笑う。恋と言うものはね、砂糖菓子のようなものなのよ。ひとさじの砂糖の違いで、苦くも甘くもなるわ。あなたは恋というものを少し勘違いしているだけなのよ。彼女はもう湯気の立っていない珈琲で口を潤わせて、笑う。その笑顔はあの日体育館裏で彼女を待ちながら見上げた空のように清々しい美しさだった。そのひとさじの砂糖を、「これは塩だから、入れてはいけないんだ」と躊躇っているように、わたしには見えるわ。そうしてできた、まるでコンクリートみたいなケーキをあなたは食べて、美味しくないって言っているのよ。

 わたしはね、と彼女は重ねて言った。あなたが躊躇っているそのスプーンを弾き飛ばしてあげたいと、そう思ってしまったの。たとえそれが本当に塩だったとしても、わたしはその海の水よりも塩辛くなったそれを飲み干すことくらいなんでもないわ。わたしがそれを教えてあげる。だから偽りでも無機質でも構わないわ。いつかわたしがその塩を砂糖に変えてあげる。


 彼女の言葉はいつかの幻想をぼんやりと思い出させる。しばらくすれば腐れ落ちる知恵の実のように魅力的で、そして暴力的だった。そっと彼女はぼくの手を取る。ぼくはびくりとその手を震わせて、けれど跳ね除けることはしなかった。多分、それがぼく自身が出した答えだったのだろう。

 あなたはきっと優しすぎるのよ、と彼女は言う。相手の気持ちを知ってしまえばそれを看過することなんて出来ない──あなたは残酷的に、優しい。ねえ、きっとあなたはどこかでわたしの望むあなたになろうと動き始めるわ。でもそれをわたしは許さない。あなたがわたしに何をすることも許さない。するすると絡みつくように彼女は身体を寄せてくる。あなたは一度死ぬべきなのよ。そうしてあなたの唾液のひとしずくまで、わたしが砂糖で味をつけてあげる。


 でも、と。ぼくは言う。ぼくは不誠実な人間なんだ。そんなことをしてしまえば、もっと不誠実な存在になってしまうよ。君のことよりも自分のことを考えて動く時だってあるかもしれない。わがままを言うことだってたくさん出てくると思う。君はそれに辟易してしまうよ。彼女はくすくすと耳元で笑う。そうならなければいけないのよ。彼女はぼくの耳元で、ぼくにだけ聞こえるように言う。よく聞きなさい。何があろうと、恋は、無敵なの。強さは弱さがなければ成り立たないように、恋は乗り越えるべき不誠実さがなければ、存在する意味がないわ。


 ぼくはもう何も言わなかった。けれど目の前の幻想の果実は腐れ落ちることもなくそこにあって、じっとぼくを見つめていた。

 その果実をぼくは手に取り、そして一口だけ齧る。

 それは思った通り無機質な、ひとさじの砂糖を連想させる味だった。

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