第2章 22話 意思疎通

 ロボットは屋敷の庭2つ分の距離をゆっくりと歩いて帰った。彼は屋敷に着くとまず納屋に行き、釣り竿と桶を片付けた。


 納屋の隅に桶を置いたときに古い布きれが下に挟まり、桶が斜めに傾いたが、彼はそれに気づかずに納屋を出た。


 屋敷のドアが、ぎぎぎぎーと開きかけているときに、桶はホウキや釣り竿を巻き込んでガタガタと盛大に倒れた。もちろんその音はロボットには届かなかった。


 彼は屋敷に入って真っ直ぐ2階に上がると、物置きから乾いたモップを持ち出した。同時に桶も手に取ったが、そこで動きを停止し、


「もうモップは濡らさなくてもいいとジャミールに言われました」


と、呟き、そっと桶を元に戻した。そしてモップを引きずって部屋を徘徊し始めた。彼は左右に蛇行して、何度も壁や障害物にぶつかり、


「また壁にぶつかりました。僕は無能です」


と独り言を繰り返した。同じことのループである。それは永遠に続くかに思われるほど何回、何十回と繰り返された。


 ところが、何度めかに棚にぶつかったときに、彼は突如ピタリと動きを停止した。目を赤と青に点滅させて、身動きひとつせずにずいぶん時間が経過した。


「……無能……素敵……無能……」


 小さな声を発した後で、ロボットはまた動きだした。その直後である。


「ジャミールが帰ってきました!」


 ロボットは誰かが屋敷の階段を登る足音を聞いて、ジャミールが帰ってきたことを認識した。


 ロボットは部屋の隅までモップをかけ終わると、モップを物置きに片付け、ジャミールの寝室のドアを開けた。


「おかえりなさいジャミール!買い出しはきちんと遂行できましたか?」


 荷車を引いての長旅に疲れているジャミールは「うん」とだけ呟いた。彼は力なくベッドの上に座り込んでいる。


「ジャミールは有能です。食料調達の任務を完遂しました。それに比べて僕は素敵です。今日も魚が釣れませんでした」


「そっか……」ジャミールは、意識がぼうっとしたまま天井を眺めていた。ロボットはジャミールの座るベッドの横までやってきた。


「ジャミール、明日クロエが挨拶に来ます。シャルロットも来ます。さきほど決定しました」


 ロボットは相変わらず無機質な声で淡々と用件を伝えた。


「へえ……」


 ジャミールはまだ心ここにあらずといった感じで適当に相づちを打った。


「クロエはジャミールに僕を解放するように求めるそうです」


「ふうん……解放ね……」と、ここまでぼんやりと答えていたジャミールの声が急に裏返った。


「え!?何それ!?」


 ジャミールはロボットの言っている内容を理解してはいなかったが、何かがおかしいということには気づいた。


 彼の背筋はピーンと硬直した。目が見開き、視線がロボットに集中した。


「クロエ?シャルル?来る?解放?素敵?」


 混乱して、単語ばかりが出てきた。それでもロボットは落ち着いている。


「ジャミール、主語と述語がなければ文章は成立しません。すみません、僕は素敵なので、文章になっていなければ理解できません。文章でお願いします……」


 ジャミールはしばらく目を見張ったままロボットを凝視していたが、しばらくしてパタリとベッドに横になり、動かなくなった。


 ロボットは状況が理解できずに、伝言をもう一度繰り返した。


「クロエとシャルロットが明日この屋敷に挨拶に来ることになっています。本日決定しました」


 今度はジャミールはベッドにあったブランケットを頭からかぶって耳を塞いだ。やはり、ロボットにはその行動も理解できなかった。


「ジャミール、耳が塞がっています。その状態では声が聞き取りにくくなってしまいます」


 ロボットのアドバイスにもジャミールは耳を貸さなかった。ブランケットをかぶったままの現実逃避を続けた。


 ロボットはしばらくジャミールの様子を見ていたが、ようやく少し状況を理解して大声になった。


「……ジャミールから返答がありません!また困らせてしまいました!ごめんなさい!僕は素敵なロボットです!」


 そして頭をぽかぽかと殴りだした。ジャミールはブランケットから顔を出してロボットの動向をうかがった。


 止める気力も失せたというような冷たい目でロボットを見つめ、大きなため息をついた。それから目頭を押さえて、気持ちを落ち着かせようとした。それには時間がかかった。


 ようやく重たい口が動いたときには、ロボットはもう頭を殴る行為を止めていた。


「……ねえリチャード。なんで知らない人が僕たちの家にくるの?」


 ロボットは大きく首を振った。


「知らない人ではありません。僕はクロエに2度会っています。シャルロットにも今日会いました。名前も顔も覚えました。知らない人ではありません」


 ロボットはさも当然という口調で話した。ジャミールはあからさまに顔を歪めた。


 ロボットが知っていても、ジャミールが知らない人であることを、ロボットにどう認識させればいいのかわからなかったので、彼は何も言えずに黙り込んでしまった。


 もどかしい気持ちばかりが胸にわき上がってきた。ロボットはジャミールの回答を待っていたが、腹部の充電マークが点滅し始めたので、


「充電が不十分です。充電してきます……」


と言って部屋を出ていった。ジャミールは会話の途中で1人ぽつんと部屋に取り残されてしまった。


「なにそれ……」


 苛立ったような声が静かな部屋に染み渡った。


 

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