第2章 10話 クロエの家族

「おばあさま!今帰ったわ!」


 クロエは誰にもたどり着けなかった秘境から生還した冒険家のような心境で家の扉を開けた。


 瞳は自信にあふれていて、声もダンスホールの隅から隅まで届きそうなくらい力強いものだった。その声を聞いて、作業部屋で機織りをしていたキャロラインの手が止まった。


「クロエ!その言葉は1時間前に聞ける予定だったはずよ!またタンポポとお茶会してなかなか帰らせてもらえなかったの?」


 キャロラインは耳元の乱れた髪をかき上げながらクロエに聞こえるように大きな声を出した。


 声の行方をたどってクロエが作業部屋に入ってきたので、キャロラインは椅子に深く座り直して、クロエを責めるように見つめた。


「いいえ、おばあさま。今は真夏よ。タンポポがお茶会をひらくのは決まって春なのよ。今日はお茶会よりもっと素敵な日だったの!


 私、スコティッシュ・リリィに会ってきたのよ!彼は水遊び……洗濯をしていたの。私、スコティッシュ・リリィが洗濯をするなんてびっくりだわ……。


 あ、誤解しないでね、彼のことを見くびってたわけじゃないのよ、ただ少し意外だっただけ……とにかく、とても素晴らしかったわ!」


 クロエはいつもと同じようにはしゃいだ声でキャロラインに近づき、椅子の手前でくるりと1回転して彼女の手を取った。


 キャロラインは驚愕した。クロエのワンピースの背中側が泥まみれだったからだ。


「クロエ、あなたその背中どうしたの?後ろ向きに転んだの?怪我してない?」


 悲鳴をあげる彼女にクロエは自分の背中の方を見て、汚れは見えなかったが「ああ、これね」と頷いた。


「これは大地のベッドに寝転んだ証よ!全身で草木の呼吸を感じたわ。彼らは私を一切拒否せずに全てを包み込んでくれたの。


 そして、私は大地の鼓動と共鳴したわ!素晴らしいオーケストラが辺り一面に響き渡ったの!地球という音楽が私の中にも根付いていることを実感したのよ!」


 クロエの雄弁な語り口を聴いて、キャロラインは少し寂しげな笑顔を浮かべた。シワの深くなった手でクロエの頭をやさしくなでた。


「あいかわらず話についていくのが大変ね……本当に誰に似たのか。息子のアルバートは生真面目で面白いことなんか1つも言わなかったのにね……」


 語尾が弱々しくなった。クロエはにんまりと微笑みを返した。


「おばあさま、安心して!私、お父さまの生真面目なところもそっくりよ!だっていつも退屈な授業から逃げ出したいと思いながら、時計の針をじっとにらんで耐えてるんですもの!


 生真面目は本当につまらないものだと思うわ。だから夏休みくらい自由でいさせて、お願い。たった3ヶ月しかないのよ。門限もたった1時間しか遅れてないし、だいたい生真面目よ。私はおばあさまを愛しているわ」


 クロエはそう言うとキャロラインの膝に両腕で抱きついた。キャロラインは強くクロエを抱きしめ返したかったが腰を悪くしているのもあって、この大勢ではそれは叶わなかった。


「日暮れまで出歩くのは感心できないよ。私は可愛い孫娘の心配をしているだけ。私のことを愛しているというなら、夏でも7時までには帰ってきて欲しいね」


 クロエは「わかってまーす」と言いながら、また顔を上げてにんまりした。キャロラインは何も返さずにクロエの頭を強くなでた。


 それからクロエが急に「おばあさま、私、寒くなってきたわ」と言い始めたので、キャロラインは「はいはい」と、洗いたての部屋着を取りに行った。


 お気に入りの水色ワンピースから、味気のない部屋着に着替えたクロエは、まだハイテンションだった。


 キャロラインが冷めたスープを温め直し、シンプルなパンを2人で頬ばった。


 食事中クロエはずっと今日の冒険譚ぼうけんたんを語っていた。キャロラインは話半分で聞いていたが、話の節々ではきちんと相づちを打った。


 彼女らの家庭では食事はキャロラインが作り、皿洗いがクロエの役目だ。クロエはおばあさまの役に立ちたくて料理も手伝いたいのだが、クロエの料理ときたら……、


 塩の分量があいまいで辛くなったり味がしないのはあたりまえで、イモを茹でれば形がなくなるまでどろどろに溶かしてしまい、パンを焼けば火加減が解らず灰にしてしまうのだ。


 スープが苦いと思えば庭で取ってきたよくわからない草花を隠し味に使用していることもある。


「料理はインスピレーションだわ!ひらめきこそが人類最大の発明なのよ!」


などと主旨のすり替えをしながらいつもキッチンを汚しているので、とうとう我慢しきれなくなったキャロラインが食事の準備中はクロエをキッチンに入れなくなったのだ。



 鼻唄を歌いながら(クロエの新曲は『美しきスコティッシュ・リリィへ捧ぐ』だった)皿洗いを終えて、クロエは自分の部屋に戻ってきた。まだ顔がほころんでいた。


「おとうさま、おかあさま!クロエが帰ったわ!」


 クロエはベッドの横の写真立てに向かって弾む声で挨拶した。フレームの中には、まだ幼いクロエと、彼女の両親、そしてキャロラインが映っていた。


 全員が幸せそうに微笑んでいる。クロエは写真立てを腕に抱えて、そのままベッドに転がった。


 2回3回とくすくす笑いながら寝返りを打ってから仰向けになり、天井を仰いだ。


「おかあさま、おとうさま。今日はとっても素敵な日だったのよ」


 そして左手で写真立てを持ち直し、フレームの中で微笑む両親に目配せしながら話を続けた。


 今日の出来事を思いつく限り、思いのままに両親に。遠い天国にいる母にも、遠くで漁をしている父にも、今ここで3人で向かいあって団らんしているように話した。


 そのうち会話が楽しくてたまらなくなって、時間が経つのを忘れていた。


 エネルギーを使いすぎたのかいつもよりも早い時間に眠くなって、クロエは日課の読書をせずに眠りにつくことができた。


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