第1章 20話 地図を作る人

「親愛なる航海士よ!地図を最初に作る人は勇敢であると考えたことはあるかね?地図なんてそこらじゅうにあふれているし、今となっては値段も安い。しかしだ、最初に地図を作るときは尋常ではない苦労をしたはずだ。何も知らない土地を計測しながら1つずつ印をつけていく。途中で熊が出るか狼が出るかもわからない土地を進むんだ。まあ、一番怖いのは人間だがね。その先に穏やかな川があるか過酷な砂漠があるか、はたまたとてつもなく広い草原があるかもわからない。水や食料の備蓄との戦いにもなる。先の見えない危険な環境の中で、何ヶ月も何年も歩き回って計測して地図は作られたんだ!どうだ?尊敬に値する勇気だろう?」


 ジャミールは地図を作ることが危険と隣あわせだなどと考えたことはなかった。リチャードはときどき興味深い発言をする。だが、論点がずれている。


「それとこれとは別問題です」


 ジャミールは目線を落として答えた。


「ドレスタ夫妻が壁に絵を描いてもいいと言ってもかい?」


 リチャードはジャミールの肩に手を置いて、二度ポンポンと叩いた。


「え?」


 ジャミールはおどろいて顔を上げた。


「言っただろ。サニーレタス号の船長に抜かりはないって」


 リチャードは人差し指をちっちっと動かしてウインクしてから、白い壁を見つめた。ジャミールもそっと壁を見た。


「どうやってお母さんを説得したんですか?」


 ジャミールは興味津々というふうに質問した。


「んー。あれだ。あれ。かわいい息子の作品を壁に残していいですか?って言ったんだ。もちろん夫人は断固拒否していたが、僕がどうにかして説得した、うん」


 リチャードはにこにこしながら自慢げに言った。ジャミールは何だか怪しいと思った。


「本当ですか?」


「ああ、本当だとも!これから壁に世界一の作品を描いてみせますと言ったらイチコロだったぞ!」


 リチャードは両手を広げて天を仰いだ。


「そんなの僕に描けるわけありません」


「描けるに決まっているさ!描けないわけがない!これから描く絵画はジャミール航海士が生み出した、世界でたった一つの作品になる!自分の子どもが描いた世界でたった一つの作品を無下にする親がいるものか!きっと大切に残しておきたいと思うはずだ!君のご両親が君を心から愛しているかぎり!」


無茶苦茶な理屈だった。それでもジャミールの心は揺れ動いた。壁に思いっきり絵を描いたら楽しそうだなという思いがよぎったのだ。


「船長はね、子どもの頃、家中の壁に絵を描いてみたことがあるんだ……いやー、あのときはこっぴどく怒られたものさ」


 そう言ってリチャードは大口を開けて笑った。


「怒られて当然だと思います」


「いや……でも不思議なもので、時間の経過とともに両親は壁の絵を懐かしむようになったんだ。まるで僕の成長を見守るようにね。結局壁の絵は消されずに残された。今でも旧家にはその絵が残っていて、僕が帰る度にあんなことがあったなと話題にあがるよ。壁を見つめる両親はいつも優しい目をしている。そんな話をドレスタ夫妻としたんだよ」


 しみじみと語るリチャードを見て、ジャミールはこの話は信じてあげたほうがいいのかもしれないと思った。そして何より、自分も壁に絵を描いてみたくなっていた。


「それなら、絵を……いや海図ですね。描いてみようかな」


 ジャミールは恥ずかしそうにぼそっと答えた。リチャードの口元がゆるみ、両手で床に落ちていた画材を拾い、ジャミールに差し出した。小さな子どもはそれをそっと受け取った。


 白くて大きな壁の前に立つ。そこにこれからジャミールが思い描くものを自由に描いていい。今までにない感覚が彼を襲った。手が震えている。自分のアレンジで装飾を施す。世界で一つだけの壁が生まれる。名前が特別であるように絵も特別であると感じた。


 動物を描くか、人間を描くか、花でも飛行機でもいい。壁を見て配置や大きさを考える。失敗するかもしれないという恐怖はもうなかった。何を描くか決めてからはリチャードがそばにいることも忘れていた。筆をにぎった。真新しい筆だった。真っ白な壁を見つめる。新大陸に向かう船長になった気がした。


 パレットに絵の具を取り、一気に筆を走らせる。赤、青、黄、白、さまざまな色を使った。迷いはない。ジャミールはいさぎよい筆づかいでどんどん描いていく。ダークブラウンの髪の毛、ほっそりした顔つきに緑の目、モスグリーンのトレーナー……リチャードはジャミールが描いているのが彼自身だと気づいた。


 ジャミールは続けてとなりに2人の子どもを描いた。が、今度はリチャードにはそれが誰だかわからなかった。


「おお、これは表情豊かないい作品だ!」


ジャミールが子どもを3人並べてが描いたところでリチャードが言葉をはさんできた。


「まだ完成していません」


 ジャミールはリチャードがいることを思い出して答えた。


「中央はジャミール航海士だろう?」


「はい」


「となりの2人は誰だい?」


 リチャードは軽い気持ちできいたのだが、ジャミールは沈んだ声で小さく答えた。


「……誰かはわかりません」


 その答えにリチャードは息をのんだ。絵の中の3人は幸せそうな笑顔を浮かべている。


「僕が友達を描いたらおかしいですか?」


 言葉を失っているリチャードにジャミールはきいた。


「いやいや、いい絵だよ。だが、船長の姿がないぞ。僕は航海士の友達ではないのかい?」


「……そうか」


 ジャミールは独り言のようにつぶやいてから、少し考え込んだ。


「わかりました。船長も描きます」


 そう言って壁の右端のほうに船に乗ったリチャードを描いた。船の旗印は黄緑色だった。リチャードの目元が優しくゆるむ。


「おおっ、サニーレタス号も描いてくれるとは!航海士は腕のいい画家だ!」


 ジャミールは黙り込んだまま筆を止めて両腕を組み、しばらく壁を見つめてから、左端に大きな家と2人の人物を描いた。彼らもやはり笑っている。


「この2人も友達かい?」


「両親です」


 リチャードの質問にジャミールは少し照れながら答えた。


「そうか。それは素晴らしい!ご両親も喜ぶぞ!」


 リチャードは満面の笑みを浮かべている。ジャミールはそれにも気づかずもくもくと続きを描いた。しばらくして筆の動きが止まった。


「これで完成かい?」


 リチャードがそっときいた。


「はい……」


 ジャミールは完成した絵を一通り眺めてからゆっくりと筆を置いた。絵には3人の男の子と、バレンとロゼッタ、リチャード船長と大きな家とサニーレタス号。なぜかヤシの木やワニのような生物も描かれている。太陽は黄色く塗られていた。リチャードは見張るように絵を眺めていた。


「よし!ジャミール航海士の傑作をご両親に見てもらおう!」


 リチャードはパンと叩いて階下に2人を呼びに行った。ジャミールは顔が火照ってくるのを感じた。自分の絵を否定されるかもしれないという不安感と、自分が描きたかった世界を見てもらうことへの緊張感が交差する。しばらくして3人の足音が近づいてきた。



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