第1章 18話 片鱗

 ジャミールが耳をすますと廊下から足音が近づいてきた。足音はドアの前で立ち止まり、続いてノックの音が聞こえてきた。


「どうぞお入りください。慈愛にあふれた女神よ」


 リチャードはいつもの調子だ。ロゼッタがドアを開けて部屋に入ってきた。手には紅茶とクッキーを携えている。


「うーん。ダージリンの良い香りに焼きたてのクッキー。戦いに敗れた者へのねぎらいとしては十分すぎるほどです。夫人の優しさにはいつも感服いたします」


 リチャードはひざまずいて感謝の意を示した。ロゼッタは呆れた顔を見せる。


「リチャード先生、おつかれさまです。今日は何の授業をなさったのですか?」


 ロゼッタは部屋に散乱している工具や木片、バガテルと呼ばれた箱に目をやって質問した。


「今日はジャミール君にバガテルを作ってもらい一緒に遊んでもらいました。いやはや彼は素晴らしい才能の持ち主です。僕は太刀打ちできませんでした!」


 リチャードは立ち上がり頭をかいた。紅茶とクッキーの入ったトレーを受け取ろうとしたが、ロゼッタはサッとよけた。


「バガテル?その顔のついた箱のことですか?ちょっとよく見せてくださいまし……。私の知っているバガテルとは少し違いますわね。リチャード先生は子どもに嘘を教えてるのですか?」


 ロゼッタは顔色を変えずに問い詰める。


「いえいえ、僕はバガテルを作ってもらうように依頼して、彼はこの作品をバガテルとして作ったのです。だからこれは立派なバガテルですよ」


 リチャードは笑顔を浮かべて箱をロゼッタに見せた。


「いい出来ばえでしょう?」


 ロゼッタは眉間にしわを寄せた。


「ええ、確かに顔のついた迷路とは面白いかもしれませんね。ジャミールの歳の子どもが作ったにしては上出来ですわ。でもバガテルとしては世間に通用しません」


 冷たく言い放った。


「ドレスタ夫人。名前なんてものは人間が後からつけた定義でしかありません。今ここにある『紅茶』と呼ばれるものはもしかしたら『コーヒー』と呼ばれていたかもしれません。ならばここにある『バガテル』も『バガテル』であるかもしれないのでは?」


 リチャードの言い訳にロゼッタは顔をそむけた。


「先生はそうとう屁理屈がおすきですね。ジャミールのこの先が心配ですわ。もっとお勉強になることを教えてください」


 ロゼッタはトレーを机の上に置いて部屋を去ろうとした。それをリチャードが呼び止める。


「待ってください、ドレスタ夫人。もうジャミール君を学校に通わせなくてもいいですよ」


 突然の言葉にロゼッタは足を止めて目を丸くした。勢いよくふり返る。


「なんですって?聞き間違いかしら。毎日学校に行かせてほしいとおっしゃったの?今でさえ週に1回しか通っていませんのに。勉強が遅れるから家庭教師をしたいとおっしゃいながら、学校に行かせないというのは矛盾していませんこと?」


 ロゼッタは不満の混ざった怒りをリチャードにぶつける。リチャードは手を前に出したまま後ずさりした。


「いえいえ、学校を否定しているわけではないのです。ジャミール君に学校は合わないと申し上げているのです」


 ロゼッタの頭に血がのぼる。


「学校は合う合わないではなく行かせなければいけないものでしょう?常識です!」


 強い口調で言い放った。リチャードは神妙な顔つきになり、あえて時間をおいて、落ち着いて答えた。


「ジャミール君は賢い子です。でもいかんせん友人関係を築くのが苦手なようです。多くの子どもたちは時間とともに打ち解けますが、生まれ持った気質というのでしょうか。たまにそれが苦手で負担になる子がいます。ジャミール君もそのタイプでしょう。そういう子に無理をさせれば心が壊れてしまいます。僕も何人かそういう子を見てきました。心が壊れてしまうと取り返しがつきません。ジャミール君のことを本当に心配しているのならあえて学校に行かせない選択をする勇気もお持ちください。常識になど負けないでください。勉強は僕が教えます。そのために家庭教師になることをお願いしたのです」


 リチャードはロゼッタの目を真っ直ぐ見て答えた。引き下がるそぶりは全くなかった。ジャミールは後ろで自分の感情と闘っていた。リチャードが「もう学校に行きたくない」というジャミールの気持ちを代弁してくれている。それが嬉しいことなのか恥ずかしいことなのか、悔しいことなのか、苦しいことなのかわからない。込み上げてくる感情が複雑すぎて自分の気持ちの整理がつかなかった。ロゼッタは少し気圧されたあとに持ち直した。


「ねえジャミール、もう学校に行きたくないの?一週間に1回でも辛いの?」


 ロゼッタはジャミールの意志を尋ねる。ジャミールは言葉にできずにいた。返答を待ちきれないロゼッタは続けた。


「ジャミール。あなたの気持ちを聞いているの。もう学校に行きたくない?そこまで辛いものなの?」


 ロゼッタはできるだけ優しい口調になるように努めた。追い詰められたジャミールはリチャードに期待したがかばってくれない。ジャミールはロゼッタから目線を外した。


「……学校行きたくない」


 なんとか気持ちを言葉にできた。ロゼッタは悲しそうに口角を下げて下を向いた。リチャードは「よくやった!」とジャミールに目で合図した。


「主人と相談してみますね。先生、今日のところはお帰りになってください」


 ロゼッタはすっかり気落ちしてリチャードに軽くお辞儀をして部屋を出て行った。残されたジャミールはその場に座り込んだ。お母さんが僕の言葉を聞き入れてくれた?


「頑張ったな、ジャミール。自分の気持ちを素直にぶつけるのには勇気がいる。その勇気を出せたから夫人に伝わったんだ。環境や状況は勇気があれば変えることができるんだ!とにかくよくやった!」


 リチャードはジャミールの頭を優しくなでた。ジャミールは心が熱くなるのを感じた。


「さあ、そろそろ先生は帰ろうかな」


 リチャードは紅茶とクッキーをたいらげて20分ほど雑談したあとに帰っていった。ジャミールは寂しい気持ちになったが、引き留める言葉を口にできなかった。



「バタン」とドアの閉まる音がした。ジャミールが夕食を終えて部屋に戻ってきたのだ。ロゼッタとバレンの話し合いのもと、翌日からはもう学校に行かなくても良くなった。


 ジャミールは今までの重圧がなくなり、初めて疲れていたことに気づいた。部屋の灯りをつけるとバガテルがジャミールを出迎えてくれた。「おめでとう」と喜んでくれているようだった。徐々に嬉しさを実感する。


 部屋にはまだ、工具と木片が転がっている。リチャードが何かの役に立つかもしれないと置いていったのだ。のこぎりを手に持ってライトで照らした。見栄えがいいわけではない。けれどもこれでバガテルを作ったと思えばかっこ良く見えた。しばらくベッドの上に座りこんだ後にひらめいた。もうひとつ何かを作ろう。


 ジャミールは残った木の板を切り始めた。頭を作り、体を作り、腕を作り、足を作る。針金で触覚を作る。それらを組み合わせて針金とボンドでくっつけ、顔になる部分を絵の具で塗る。布は黒で塗ってマントにした。そうして出来上がったカクカクした木製ロボットを「リトルジャミール」と名付けた。ジャミールは作品を作り上げたことに満足して眠りについた。






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