第1章 7話 軍曹と伍長

「はっはー!僕のことを軍曹と呼んだね!それでいいんだ。よしジャミール伍長、今からこの部屋から逃げ出すぞ!窓を開けるのだ!」


 リチャードは平然ととんでもないことを言い出した。自分の部屋から逃げ出す?しかもここは2階だ。ジャミールはついていけなくなり顔を曇らせた。


「なにをしている伍長!窓はこうやって開けるんだ」


 リチャードは戸惑うジャミールを見て、自分で窓を開けた。庭の草木の香りが窓から入り込む。ベッドにくくったひもの端を外に投げ、リチャードは笑顔で振り向き、言った。


「さあ!」


 わからない。何が「さあ!」なのかジャミールは考えたくもなかった。


「……僕は授業を受けたいです……」


 ジャミールはリチャードのペースに巻き込まれないように精一杯の抵抗をした。


「なにを言ってるんだ伍長!今もう授業ははじまっているぞ。今日の授業は『脱走術』だ!」


 ジャミールは目をまるくした。脱走術の授業なんて聞いたことがない。戸惑っているジャミールを見て、リチャードは笑いながら言った。


「ジャミール伍長、僕は最初に言ったはずだ。そこいらの図鑑には載っていないことを教えたいと。さあ!」


 リチャードはジャミールの意見も聞かずにひもにぶらさがるように指示を出した。


 肩を押され窓際にきたジャミールは窓の下を見て怖いと感じた。


「僕にはでき……ません」


 ジャミールは震えながら声をしぼりだした。リチャードはジャミールの耳元でかん高い声を出した。


「どうした?勇敢なる伍長よ!この狭い部屋から飛び出してまだ見ぬ世界に行きたくはないのか!」


 耳がキーンとした。ジャミールにはやはりリチャードの言いたいことがわからない。彼は少しもまだ見ぬ世界に行きたくなかった。


「興味ありません。窓から外に出る理由がわかりません。怪我したらどうするんですか?」


「大丈夫だ。軍曹は伍長を見ている。伍長は運動神経はあまり良くないかもしれない。でも勇気はある。下に降りるまで自分の体を支えることはできるさ!」


 リチャードはなにがなんでもジャミールに下に降りてほしいようだ。ひもをつたって。


「この辺りのことはよく知っています。1人でよく散歩しましたから」


 ジャミールはおびえながら答える。ここからしばらく2人の会話が続いた。


「伍長。エベレストは知っているか?」


「はい。世界で1番高い山です」


「ナイル川は?」


「世界で1番長い川です」


「パルテノン神殿は?」


「古代ギリシャの建造物です」


 リチャードはジャミールの言葉にうなずいている。


「伍長は本当に物知りだな。ではミフェイズ湖は知っているか?」


「……いえ、知りません」


「エベレストやパルテノン神殿を実際見たことはあるかい?」


「いえ、ありません」


 ここまで質問するとリチャードはジャミールの頭を軽く叩いて言った。


「ジャミール伍長。君は物知りで世界を知らない。エベレストもパルテノン神殿も知識では知っている。でも実際に見たことがないなら知らないに等しいんだ。ミフェイズ湖はここから馬で1時間もあれば着く湖だ。世界的に有名ではないから図鑑には載っていない。でもこんなに近くにある湖でさえ君は知らないんだ」


 ジャミールは考えこんで黙った。リチャードは話を続ける。


「そう考えると世界を見てみたくなるだろ?自分の足で。さあ!小さな世界から逃げだそう!」


 リチャードはそう言ってジャミールの背中を押した。ジャミールの体が半分窓から乗り出した。


「わ、待ってください先生。それとこれとは別です」


 ジャミールは慌てていたので「先生」と呼んでしまった。


「伍長、僕は軍曹だ。君より偉いんだ!そして時間も君を待ってくれない」


 そう言ってリチャードはジャミールを抱え込んで窓の外へと体を運んだ。ジャミールは足が床から離れたため、安定感を失い、全身に緊張が走った。


「わ、わ、リチャード先生!殺人罪になりますよ」


 ジャミールはリチャードにしがみつきながら訴えた。


「僕は軍曹だ!殺人罪にはならないよ。伍長が任務を果たせば死ぬことはない」


 リチャードは訴えを聞かずにジャミールをふりほどこうとしている。ジャミールは必死でひもにしがみついた。


「そうだ!それでいい!そのまま降りるんだ!」


 リチャードはガッツポーズを作っている。


「先生、早く上げてください!落ちてしまいます」


 ジャミールは必死だ。


「登るんじゃない、降りるんだ。そっちの方が楽だ。どうするか悩んでいたら落ちてしまうぞ。決断は急げ!」


 リチャードはジャミールの頭の上で「ガオー」と獣が襲いかかるポーズをした。ジャミールはこの人には常識が通用しないと感じた。僕を助けてくれないと。


 怖い気持ちをこらえ、必死に下まで降りた。地面に辿りついたとき、両手をしっかりついて体を支えた。じんわりと汗をかいていた。


「はっはー、伍長!やればできるじゃないか。待ってろ僕もすぐに行く」


 そう言うとリチャードは身を乗り出して、窓枠につかまりひと思いにジャンプした。そのままひもを使うことなくジャミールの隣に着地した。


「さあ!行こうか!」


 笑顔でこたえるリチャードに対して、ジャミールは息を切らして何も言えなかった。文句をたくさん言いたいのに言葉にはできない。


 それでも表情を見ればジャミールの不満はわかったはずだ。しかしリチャードは気にするそぶりも見せずにジャミールの呼吸が整うのを待った。

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