第13話 水面に浮かぶ恋心
「うるさいな、一体何の騒ぎだ」
部屋の奥から眠気眼を擦りながら、白いシルクのパジャマに身を包んだレーヴェンが姿を現した。普段の軍服姿も素敵だが、寝間着姿の彼女は色っぽくて可愛らしい――が、今はそれどころではない。
なぜなら、おっぱい発言をしてしまった直後なのだ。
俺は自分の発言を聞かれてしまったのではないかと思い、恥ずかしさで泣きそうになりながら、どうしてくれるんだとメイド長を睨みつけた。
「うぅっ……」
メイド長は驚いた表情で身を半歩引いて、急いでナイフを袖に隠した。
「二人とも、こんな夜更けに何をしておるのだ?」
言うなよ、絶対に言うなよと、俺は大粒の涙がこぼれそうな目で、メイド長の情に訴えかけた。メイド長は困惑した表情で頬を引きつらせたが、眼鏡のブリッジを持ち上げ、すぐに冷静な無表情に戻った。
「ランス様が少し夜風に当たりたいと仰られましたので、湖までお連れしようかと」
「こんな時間にか?」とレーヴェンが疑問げに尋ねる。
訝しげなレーヴェンに、俺は取り繕うように口を開いた。
「昼間ずっと寝てしまったから、夜中に目が冴えてしまって。何せ二日連続だからな……あは、あははは……」
必死の笑顔が何とも虚しく響いた。
「夜の湖か、うむ。悪くない。私も一緒に行こう」
「えっ」
「なんだ、私が一緒では嫌か?」
「嫌なわけない!」
俺は食い気味に言いながら、とても嬉しそうに笑った。その笑顔をじっと見つめるメイド長。この瞬間はちょっと気まずいけれど、レーヴェンと夜の散歩ができることは非常に嬉しかった。
「風が心地いいな」
湖を見つめながら、夜風になびく絹のような髪を持つレーヴェンは、夜空の中で一等星のような輝きと存在感を放っていた。その美しさは、誰もが彼女に見惚れること必至だろう。
「きれいだな」
彼女が月に向かって手を伸ばし、伸びをする後ろ姿に、俺はため息をついた。その背中のなめらかな曲線、均整のとれた長い手足、パジャマの上からでも見て分かるほどの美しいヒップライン。貴族の令嬢たちと比べても、彼女の美しさは格別だった。
まさに、「絵に描いたような美人」という言葉は、この瞬間の彼女にぴったりだと思わずにはいられなかった。
じーっ。
「………」
「…………」
メイド長は、なぜか真剣な表情で黙って俺の顔をじっと見つめている。まだ俺が誰かに雇われてレーヴェンの命を狙っている、そんな風に思っているんじゃないだろうな。不安だ。
「あなた、もしかしてレーヴェン様が気になるんですか?」と、突然メイド長が尋ねてきた。
俺はびっくりして言葉を失っていた。
「な、な、な、なにをいいい言っているんだっ!」
「違うのですか?」
「ち、ち、ち、違うっ」
俺は言葉に詰まり、目を逸らす。メイド長は怪訝そうに俺を見つめている。
「本当ですか? 先程からレーヴェン様の後ろ姿を見つめるあなたの目が、恋する乙女のそれだったのですが」
「こっ!? ……そ、そんなことないと思うけど」
メイド長の言葉に、俺は赤面して反論する。
しかし、何を言っているんだ、このメイド長は。
「あ、あ、あ、相手は皇女殿下だぞ! 俺みたいな爵位のない平民が恋をしていい相手じゃない」
「まったくもってその通りです」
「あっ……ぐぅっ」
そこまでハッキリ言うことはないと思う。ロレッタにはデリカシーってものを学んでもらいたい。
「それに、あなたでは若過ぎます。背も小さい。おまけにむっつりスケベ。何より、現在無職です」
「…………っ」
ひどい。
事実だったとしても、それはいくらなんでも言い過ぎだ。
「しかし、あなたがレーヴェン様に思いを寄せているのでしたら、すべてが理解できます」
「理解できるって、何のこと?」
「なぜあなたがレーヴェン様を必死に助け、屋敷の修繕に尽力し、なおかつあのボロボロの屋敷に滞在し続けるのか」
「それは……」
「私だったら理由もなく、あの場所にとどまることはありません」
非常に痛いところを突いてくるな。
「それに、女性の胸元が少し見えただけで、あの取り乱しよう。王族として公の場に出ることは難しいでしょう。舞踏会や夜会では、女性たちが胸元の開いたドレスを身にまとっていますから」
ロレッタは銀縁の眼鏡を中指で持ち上げ、鷹のような鋭い眼光を向けてくる。
「でも、他の女性に対しては何も感じないんじゃないんですか?」
「えっ」
言われてみれば、確かにそうだった。
これまで公の場できらびやかなドレスをまとった女性をたくさん見てきた。その中には大胆に胸元を露出している人もいた。けれど、あんなに恥ずかしさを感じたことも、ましてや鼻血を出してしまったことはなかった。
「つまり、あなたにとってレーヴェン様が初めて意識した相手だった。だからこそ、恥ずかしくなってしまったのではありませんか?」
「……」
俺はあえて黙っていることを選んだ。肯定すれば自己認識が低いと笑われ、否定すれば誰でも同じだと思われるかもしれない。だから、今は言葉を選ぶのをやめた。
「どちらにせよ、諦めるべきです。今やあなたは平民で、レーヴェン様は皇女殿下なのですから」
「……」
そんなこと、いちいち言われなくたって分かっている。
「明日にはここを去りなさい」
「えっ、いや、ちょっと待ってくれ。急すぎるだろ」
「あなたのためです」
それだけ言うと、ロレッタは話を切り上げ、レーヴェンの元へと歩き出した。
「まだ、話の途中なのに……」
レーヴェンの傍らにそっと寄り添う彼女に、複雑な感情が芽生えた。同性ではなく、異性に対して嫉妬する日が来るとは、思ってもみなかった。
「なんなんだよ」
明日、屋敷を出て行けと告げられた瞬間、俺の胸は痛みで締めつけられるようだった。
「ランス、お前もこちらへ来たらどうだ。湖に映る月がきれいだぞ」
彼女が微笑みながら手招きをする。俺は痛む胸を抑えて、できるだけ自然な笑顔を作った。
「うん」
俺がレーヴェンの傍らに立ち、湖に浮かぶ月を眺めていると、ロレッタが静かに介入してきた。
「身の程をわきまえろ」
そう言われている気がした。
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