2
三十分が経った。膠着した場を動かしたのは煌月であった。煌月は疲れたように、あるいは面倒臭そうに席を立った。
「どこに行くの?」
「厨房です。何か食べようかと。皆さんもお腹、空いたんじゃないですか?」
煌月は声を掛けたルナアリスを振り向かずに、そのまま厨房へと歩いて行った。
「気付けばもう一時か。俺も何か食うかな。朝は酒が残ってたしあの騒ぎで何も食ってないしな」
大宮も続けて席を立った。これを機に張り詰めた空気が少しづつ緩んでいった。トイレに行く者、厨房で食べ物や飲み物を取りに行く者、各自が拘束を解かれたように動き出す。
煌月は冷凍の焼きおにぎりを一袋分レンジで温めたら、皿の上に雑に乗せて持って行った。ホールの席に座らずに階段を上っていく。
「あら? 部屋で食べるのではないのでしょうか?」
氷川が見上げた先にいる煌月は、階段を上りきった所に立ち止まっていた。
煌月は客室が並ぶ廊下の先を見つめながらゆっくりと焼きおにぎりを口に運んでいく。殆ど無意識な食事。脳は推理の為にリソースを全て使っている。トリックを暴き、この事件の真相を全て明らかにする。それはたった一つだけの重要な難題。
半ば機械的に焼きおにぎりを口に運びながら、これまでの情報を整理しつつ正解を導き出そうとするものの、それにはまだ至らない。
皿を指先が叩く音で、思考の闇の中から意識が現実に戻ってきた。いつの間にか平らげていたようだ。階段をゆっくりと降りて厨房に皿を戻しに行く。
ホールのテーブルでは他の参加者が各々昼食を取っていたが、会話は一切無かった。それどころが、お互い探り合うように視線を交わし合っている。状況は目に見えない所で悪化し始めていた。
そんな彼等を気にしていないのか、煌月は他の参加者達の様子を窺うこともなくトイレに入り用を足した。なんとなくトイレの中を個室を含めて見て回るが、特に不審な所は無かった。洗面台で手を洗いながら目の前の鏡を覗くと、映っている自分と目が合った。
鏡の中の自分は感情の無い顔でこちらを凝視している。
トイレを出てホールに戻り席に座ると再び思考を事件に戻した。
犯行の動機。甲斐さんと北野さんは同じ高校の生徒で面識があるが、他の四人は全く無いだろう。この六人がターゲットに選ばれた理由が不明。何か犯人の恨みを買うような事がこの六人にあったのだろうか。もしそうでないなら、これは適当にターゲットを選んだ無差別殺人か。
外壁に足場を設置するトリック。部屋割りは決まっていなかったから、偶然その部屋の鍵を取ってしまった人間がターゲットになった。この事件は誰が殺されてもおかしくなかった事件、かもしれない。
ならば私がターゲットになってもおかしくなかった。いや、寧ろ犯行を実行するにあたっては、いの一番に始末しておきたい人間だっただろう。昨晩は何か妙な感じがして部屋では寝なかったが、犯人は私の部屋にも来たのだろうか?
ちょっと確認しに行くか。
無言で席を立ち階段を昇って客室へ。煌月を追いかける者はいなかった。
自分が偶然取った五番の鍵をポケットから取り出す。
昨晩私を狙ったのならば、このドアも外から開け閉めしたことになるが。
ドアに視線を走らせても特に変わった所は見当たらない。ドアに描かれたギリシャ神話の女神セレーネは、ドアの前に立つ人間に生意気そうな視線を送っている。
鍵を差して回すとカチリという音が鳴った。ドアノブを握ればドアは開いた。昨晩は施錠してから部屋を出たので、何も不自然な事は無い。
室内入ってみたが、何ら変わりは無いように見えた。見えたのだが――。
「ん? このトートバッグ……」
昨晩浴室に行く時に使ったトートバッグに目が留まった。備え付けのトートバッグで、昨晩は浴室から部屋に戻ってきた後はテーブルに置いたのだ。煌月はそれに触らずに顔を近づける。
底が広めで立った状態で置いてあるトートバッグ。アニメ風デザインのパンダの絵柄が描かれている面を凝視する。そして昨晩の自分の記憶の中へと潜っていく。録画した映像を巻き戻すように、答えとなる場面を探り出していく。
「……やっぱり動いているな。このトートバッグ、置いた時はパンダの面は反対側になっていた筈だ」
パンダは片面だけに描かれている。つまり昨晩置いた場所から反転しているのだ。
私はこれを置いた後は触っていない。にも拘らず動いているのは、間違いなく私以外の誰かが動かしたからだ。そしてその誰かは、この部屋が施錠されていた事実から考えて、間違いなく六人を殺害した犯人だ。
――昨晩私を殺そうとしてこの部屋に侵入した人間がいる。
煌月は視線を入り口のドアへと向けた。
私は昨晩この部屋では寝ていなかった。犯人は侵入したがターゲットがいないと分かればすぐに立ち去っただろう。その際に……恐らく意図せずにトートバッグに引っ掛けてテーブルから落としてしまったんだ。元に戻そうとしたが、その際に置き方を間違ってしまったのだろう。
この違いに私が気が付くとは犯人は思わなかったか。
退出して開錠した鍵を施錠状態に戻しておく。侵入した事を隠す為にしたんだろうが、トートバッグのお陰で何者かが侵入したという事実が分かった。
部屋ではなく下のフロアの浴室で寝たから、犯人の魔の手から逃れた。まさか私が浴室で寝ていたとは考えなかっただろう。
――助かったのは『月』が声無き警告を発したからだ。煌月は心の中で自分にそう伝えた。昨晩は雲一つない夜空に満月が煌めいていたのだから。
「この部屋のドアも調べてみるか。もしかしたら何かトリックの痕跡が残っているかもしれない」
天井を見上げた。太陽の光で見えなくとも、この天井の向こうには今日も月が大地を見下ろしている。――煌月の運命を動かす導きと味方の天体。祈ることも否定することもなく、煌月が人生の中で数えきれないほど見上げてきた特別な天体。
今は見えない月の下で、煌月は再び動き出す。入り口のドアへと向かっていく。
調べてみても室内側には特に何もなさそうである。ドアを開けて廊下側から調べてみるが、ドアに描かれた絵が違うだけで色も形状も他の部屋と全く同じだ。
「意外にピッキングで簡単に開く、とかか? シリンダー内部に器具を差し込むと開錠する特殊な構造とかで。――そんなことは有り得ないか」
煌月は中腰になって、右手のスマホのライトで照らしながらドアの鍵穴付近を眺めた。見た目は何処にでもありそうな銀色のシリンダー錠。左手の人差し指で撫でる様に触れてみると、金属の感触が指先から伝わってくる。
「…………」
ゆっくりと、左手の指先を離す。シリンダーに触れていた指先を、スローモーションの動画のようにくっつけて、擦り合わせた。
「………………」
右手のスマホを左手に持ち替えて、今度は右手の人差し指でシリンダーに触れる。なぞる様に、這わせるようにシリンダーの側面を擦る。その人差し指を離して親指で触れる。
「何故だ? シリンダーの側面に埃があまり付いていない」
同じ動作で再びシリンダー錠に触れる。結果はすぐに分かった。
埃が僅かに付いているが不自然だ、これは。私が触れる前に、この部分に溜まった埃を取り除くような何かがあったんだ。
鍵の開け閉めの時、シリンダー錠の本体には普通触らない。だからこの上には埃が溜まる。室内の窓の付近やドアノブにだって、積もっているのが分かるくらいの埃が溜まっていたんだ。ここまで綺麗に掃除していますなんてことはない。
拭き取ったにしては雑に思える。何かが擦った形跡か? 糸のように細い物ではなさそうだが――。
思考を加速させてこの謎の痕跡の正体を検索する。記憶の中からそれらしい物を探していく。見つからない。見つからないが――。
スマホを右手から左手に持ち替えた時、それは起こった。
何故か、自分の右手にくっつくように視線が止まった。そして数秒後、思い至る。
外から開ける時に、本来、触らない部分――。
煌月は右手の人差し指と中指と親指でシリンダーの側面に触れる。そして時計回りに回した。
シリンダーは抵抗なく回転した。そのまま回転させ続けると、ドアから小さく、カチャリと音がしてデッドボルトが飛び出た。室内側のサムターンを確認すると、施錠状態の位置に動いている。
今度はシリンダーを反時計回りに回転させる。一周と半周くらい回したところで、また音がした。ドアの側面をみると今度はデッドボルトが引っ込んでいた。サムターンも開錠状態の位置に動いていた。
「成る程。ドア自体にこんな仕掛けがあったのか。ドアノブを操作した時の違和感は、この仕掛けがあるために普通のと微妙に手応えが違ったからかもしれないな」
補助錠は開錠状態だった。同じ操作を繰り返してみたが、補助錠はシリンダーの仕掛けと連動している訳ではないようだ。
「補助錠は別の仕組みか」
補助錠を何度も左右に動かしてみた。滑らかにスライドした。他の部屋に付いているのと同じ物だろう。
スマホのライトで補助錠を照らす。見た目は特に変わった所は見当たらない。暫く触りながら調べているとあることに気が付いた。
「そうか、固定している金具の内側にローラーが付いているのか。その上を錠の部分が動くからこんなにスムーズに動くんだな。普通の補助錠とは違う感じがしたのは、この構造が理由だったのか」
左手を口元に当てて何度か頷いた。
「他の部屋に付いている物も同じ構造だろう。どうしてこんな構造になっている? 普通はこんな構造にはなっていないと思うが……」
このドアも枠にゴムが仕込まれていて糸を通せる隙間は無い。表も裏も他の部屋のドアと同じだ。
内部のローラーでスムーズに動くスライド式の補助錠……。他に普通のと違う部分は見当たらない。壁に付いている金具も普通のとの違いは無いように見える。
再び加速する思考は答えを探すために闇の中へと進んでいく。その中で可能性を探っては分析して正解かどうかを判定する。思い付きと判断と否定が続く。答えを見つけ出すまで思考は止まらない。
不毛かもしれないが、いつだってそれが答えを見つけ出してきた。
探偵と認識されることになった煌月の頭脳であり、推理のクセあるいは傾向。
その頭脳は、時間が掛かったものの答えを弾き出すことに成功した。煌月はドアを閉めて踵を返し階下へと早歩きで戻る。
スムーズに動くという事は、僅かな力で動くようにする為ってことだ。小さな力でもドアの外から中まで働かせる事が出来るなら、補助錠の施錠も開錠も自由だ。
――ある! 一つだけ! 材質にもよるが壁の向こうまで届く物理的な力。記憶違いでなければ、あそこにある!
煌月は真っ直ぐに厨房へと向かい冷蔵庫の前に立つ。目的は冷蔵庫にくっついている長方形のマグネットだ。食料品と書かれた紙を留めていたもので、紙は近くの棚に適当に置いた。
「意外に強そうだ。これで試してみるか」と煌月は呟きマグネットを握りしめて自室の前に急いで戻った。
ドアを開けた状態で補助錠の真裏へとマグネットを近づける。丁度ドアに描かれている絵のすぐ上の所だ。そして慎重に横へ動かしていく。補助錠はその動きに付き従うように動いた。
「よーし思った通りだ。補助錠の内側に鉄か磁石が仕込まれていて、強めの磁石があれば外側から補助錠を開けたり閉めたりできるようだ」
トリックの正体は『磁力』だ。何往復か外から動かして開錠も施錠も自由に出来ることを確認した。
シリンダー錠の仕掛けと磁石を使った補助錠の操作。これなら普通に調査しただけでは気付かない。気が付けたのは大きい前進だ。
――しかし、大きく前進しても煌月の前には新たな壁が立ちはだかる。
五番の部屋と同じ仕掛けで密室を作ったのかどうかを、別の被害者の部屋のドアで実験して回った時にその壁は現れた。
シリンダー錠の仕掛けと磁石による補助錠の操作。両方で密室が作れるのは、北野と瀬尾田の部屋だけだった。シリンダー錠の側面に埃が取れた形跡があったことも発見した。犯人がこの仕掛けで侵入し、北野と瀬尾田を殺害したのは間違いないだろう。
村上と甲斐の部屋は補助錠を磁石で操作できる事が分かったが、シリンダー錠の側面の埃が取れた形跡は無かった。この二部屋は鍵が無くてもシリンダー錠を開ける仕掛けが無いようだ。
犯人が室内に入っておらず、外からの攻撃だと判明している。補助錠だけ外から操作出来ればいいので、この二部屋の密室は攻略したと判断していい。
問題は木村の部屋のドア。このドアにはシリンダー本体を回して開け閉めする仕掛けが無い。埃が取れた形跡も無かった。しかも補助錠は磁石を近づけても全く反応しない。王道の糸を使った物理的なトリックと、裏道の抜け道トリックが無い事実と合わせて、十六番の部屋の密室だけが崩せない。
難攻不落の十六番ドアを前にして、煌月は左手を口元に当てて頭の中を整理する。
普通はしない操作をすることで、開けたり閉めたりできる仕掛けがドア自体にあった。操作方法が違うだけで仕掛け自体はあるのか?
それを検証する為に普段はやらない操作を試してみることに。
レバーハンドルタイプのドアノブを持ち上げるようにして逆回転させようとしてみる。倒さずに押し込んだり引っ張ったり。別の部屋の鍵で開くかもと試したが、当然のように鍵自体が鍵穴に入らなかった。
ドアの表面を、隅々まで指でなぞりながら調べてみるが手応えは無い。ドアに描かれているヨルムンガンドの絵にも触れてみる。しかし特に怪しい感触は無い。
煌月は左手を口元に当てながらドアを眺めた。他の可能性は無いかと思案を巡らせていると横から幼い声が掛けられた。
「煌月さん、何か分かった?」
期待が込められた瞳で見上げるルナアリスに、煌月は無表情でゆっくりと足を折って彼女と同じ目線の高さに合わせた。そして少しだけの沈黙を挟んで煌月は、
「新しい発見がありました。ここだけの話ですよ?」
声量を落として囁く。幼い助手は瞳を輝かせた。
ここは情報を伏せずに、簡潔にまとめて伝える。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます